「……今までの恨みもしがらみも全部捨てて。
誰にも迷惑かけずに、一からやり直そうと思ってたのに。
今、この廊下を見て、ホッとしている自分がいます」
やっぱり、駄目ですね、私……と苦笑いしたが。
そんな和香の肩を抱き、耀は言った。
「大丈夫だ、強がるな。
駄目なのは、お前だけじゃない。
俺もお前がいない未来は想像すらできない――」
もう一度、耀がそっと口づけてくる。
和香が開けた扉を片手で押さえていた耀は、
「まあ、入れ」
と和香に言ったあとで、和香の斜め後ろを見て言う。
「蚊も」
――蚊も!?
「まだ、春ですよっ?」
和香がいつもの素っ頓狂な声と顔で振り返ると、耀が笑い出す――。
いつも憧れ、見つめていた図書館前の白いおうちには、仲のいい若夫婦が、今日も元気に暮らしている――。
完
ありがとうございました。
和香&耀
和香が耀の家で暮らしはじめて数日した頃。
二人は気分転換に、和香が住んでいたアパート近くのスーパーに行ってみた。
「いつもと違うところに行くと、やっぱり新鮮ですね」
そう言いながら和香が、今が夜だと忘れそうなくらい明るく広い店内を眺めていると、耀が、
「前は、ここ、よく来てたんじゃないのか?」
と訊いてくる。
「そうなんですけど。
でも、もうなんだかすごく懐かしい感じがします。
さっき、アパートの前を車で通ったときも。
今は、私の部屋にも羽積さんの部屋にも、もう違う人が住んでるんだなと思って。
なにかこう、不思議な感じがしました。
アパートの外観も、すぐ家出する猫が塀の上で寝てるのも変わりないのに」
「羽積か。
もう会うこともないんだろうな」
「そうですね。
公安の方ですし。
痕跡も追えないでしょうしね
今度会うときは、名前も違うかも」
しんみり和香がそう言ったとき、
「あらー、和香ちゃーん」
と声がした。
振り返ると、買い物カゴを手に持った三階の主婦、富美加がやってくるところだった。
「やだもう、久しぶり~っ。
いきなり引っ越しちゃうんだもん。
羽積さんもいなくなっちゃったし。
なんか一気に寂しくなっちゃったわよ~」
と言いながら、富美加はニコニコ、耀に頭を下げている。
「また遊びに寄ってね~」
ありがとうございます、と和香は頭を下げる。
「和香ちゃん、この近くに住んでるの?
結婚したの?」
「近くに住んではいるんですけど。
結婚は……まだです」
と照れたように和香が言ったとき、富美加が言った。
「そう。
近いのなら、和香ちゃんには、また会えそうね。
羽積さんは、三つ向こうの市に住んでるみたいなんで、なかなか会えなさそうだけど」
――!?
「たまたま電車で見かけたのよね」
と富美加は軽く言うが、和香たちは衝撃を受けていた。
耀が公安の人間の痕跡、追えないんじゃなかったのかっ、という顔をして和香を見る。
「じゃあね、和香ちゃん。
またね~」
と富美加は、にこやかに手を振り、去っていった。
「……すごいですね。
富美加さんのイケメンセンサー」
「あの人、実はMI6とかじゃないのか」
耀は、もうどんな奴が身近にいても、驚かないぞ……、と呟きながら、カートをガラガラ押して歩き出す。
帰りの車で耀が言う。
「そういえば、あの主婦の人、レジに並んでるの見たら、カート押さずに両手にカゴいっぱい荷物抱えてたが」
「ああ、確か。
以前、カートを押すと買いすぎるから、買い物カゴだけで済ませるの、とか言ってましたよ」
「だが、結局、大量に買っていたようだが……」
と呟いたあとで、
「そうか、わかったぞっ」
と耀は声を上げる。
「あれで腕力をつけてるんだな。
さすがMI6!」
「いや……違うと思いますよ」