「他の人は普通に名字で呼んでるのに、なんで佐々木のばあさんは佐々木のばあさんなの?」
「まあ、あだ名みたいなもんだね。」
「あだ名。」
「うん。昔から、佐々木のばあさんって呼ばれてた。佐々木ってやつのおばあさんだったから。」
「ふうん…。」
「佐々木はね、佐々木ってあだ名だったの。で、佐々木のばあさんだから、佐々木のばあさんだね。」
「…へえ。」
私と手塚さんは、近所の焼肉店に居た。某グルメサイトでも、この街のランキング一位に君臨し続けている店だ。このあたりでは珍しく、常に人が並んでいる。ちなみにそのランキングの一位から四十位くらいまでは全部良く知っている店だったので、ああ、地元ってこういうことを言うんだな、と思った。
先日、町内会のマラソン大会があった。
「えー!私!?」
「若い人があんまり居ないのよね。軽くジョギングするみたいな気分でいいからさ、参加してよ。」
ベランダで栽培したというミニトマトを持って来てくれた、たかちゃんのお母さんにそう頼まれた。ビニール袋いっぱいに詰まったピカピカのそのトマトは、一食これだけでいい、というくらいの私の大好物でもある。
「いや、でも、全然動いてないしなあ、このところ。」
「そういう人のための大会なのよ。」
「うーん…そう?」
「そうよ、ほら、体動かして、嫌なことはもう忘れる忘れる!」
「…。」
若者はマラソン、お年寄りはウォーキングという催し物なのだそうだ。同じコースを両者は逆走して、出会ったら声をかけよう、若者とお年寄りが交流しよう、という企画だった。それで私は、まあ確かに運動不足だし、別に何かを忘れたいからじゃないけど、たかちゃんのお母さんもこう言ってるし、ということで、うん、いいよ、と返事をした。たかちゃんのお母さんは、あの人は、何だっけほら、手塚さんだっけ?あの人は出てくれないかしら、と言っていたが、そうだね、あの人は無理だと思う、と答えておいた。その週末に開催されたマラソン大会は、いざ参加してみると、近所の懐かしい人たちにもたくさん会えたし、久しぶりに運動したらすごくすっきりしたしで、とても楽しかった。
それから数日は体がみしみしいっていたが、そんな軋みも落ち着いてきた日のことだ。私は買い物帰り、これまた懐かしい近所のおばあちゃんに会った。
「あ!横島さん!?」
「まあ!久しぶりね!」
まあまあ、と近くに来てくれた横島さんは私の手を取って、本当に久しぶりね、と元気そうな笑顔を見せてくれた。
「ひろちゃんは元気にしてる?」
「うん、元気にしてるわよ。今はね、大阪の方で仕事してるのよ。」
横島さんは、私の中学の後輩、ひろちゃんのおばあさんだった。大きくなったわねえ、と横島さんはもう結構いい大人の私を見て嬉しそうに頷いていたが、
「ああ、そうだ!」
と手を打った。そして言った。
「ちょうどいいところで会った、ちょっとうちに寄ってくれる?」
「横島さんちに?」
「そう。あげたいものがあるの。」
「え?ああ、うん、分かった。」
それで私は少し来た道を戻るようにして、連れ立って横島さんの家に向かった。
「横島さん、杖?」
「これ?そうなのよ。転んで怪我してから、なかなか元には戻らなくてね。」
何も変わらないように見えるこの街にも、いろいろな変化は訪れている。
きちんと手入れされた梅の木が目印の横島さんのうちに着くと、ここでごめんね、座ってちょっと待ってて、すぐに取って来るから、と横島さんは私を玄関に座らせて、奥に入って行った。それから二、三分して横島さんは戻って来た。
「はい、お待たせ、これなんだけど。」
そう言って横島さんは私に白い封筒を手渡した。
「ん?これ何?」
「焼肉のね、食べ放題の券なんだって。ほら、何だっけ、すごく人が並んでるお店あるじゃない、たい焼き屋さんの近くの。」
「って言うと、興龍園?」
「ああ、そんな名前だったわね。」
昔から人気のある店だった。この頃は地元以外の人も多く食べに来ていると聞いた。
「うん、あの人気のお店ね。」
「そうそう、そこの焼肉食べ放題。私は食べられないから、どうぞ使ってちょうだい。」
横島さんは封筒をぐっと私に押し付けた。
「えー!?ほんとに?いや、どうして?悪いよ。」
「いいのいいの。私ももらったのよ、これ。」
「ええ!もらったって、誰に?」
ふふっと笑って横島さんは言った。
「そうなのよ…佐々木さんにね。」
名前を聞いてパッとは思い浮かばなかったが、佐々木、佐々木、と記憶を手繰ると、じわじわと佐々木の顔が浮かんで来た。
「佐々木…?ああ、あの佐々木?そんで佐々木んちの佐々木のばあさん?」
「ははは、懐かしいわね、その呼び方。まあ、うん、そうなのよ。」
「佐々木のばあさんが、どうしてこんなもの横島さんにくれたの?」
個人の感想だが、焼肉食べ放題券は、おばあさんたちの間でやり取りするものではない気がする。それねえ、と横島さんはまた肩を震わせた。
「こないだマラソン大会あったじゃない?そこで佐々木さん、お年寄り部門で優勝したんでしょ?」
「ああ、うん、そうだった!まさかこれ。」
久しぶりに身体を動かした私は、何とかゴールしたものの、そのあとの記憶は薄っすらとしか残っていないくらいエネルギーを使い果たしていた。表彰式をやっている時は確か日陰の椅子に腰掛け、たかちゃんのお母さんに背中をさすられていた。そんな中ではあったが、佐々木のばあさんの名を聞いた気がする。
「そう。その副賞らしいのよ。…私は使わないからって。」
「ええ!?それをくれたの!?」
いいよ、悪いよ、いいよ、悪いよ、と行ったり来たりしていた白い封筒は、結局私のエコバッグに収まった。
「…で、大家さんのところにこの食べ放題券が回って来た、と。」
「そうなんだよ。」
ふうん、と手塚さんは、ご飯とお肉を口いっぱいに詰め込んで、必死で冬支度をしているリスのような顔で頷いた。食べているところを見ると、手塚さんって男子なんだな、といつも思う。しかも焼肉を食べている手塚さんは、今まで見た手塚さんの中でも男子度MAXだ。焼肉ってやっぱり最強なんだな、と思う。
「そう。それでその優勝した佐々木のばあさんなんだけどさ、噂だけど、竹内さんを狙ってるらしくて。」
「狙ってるって…。そして竹内さんって?」
「元々畳屋さんだった竹内さん。今はもうやってないけどね。」
「…ん。」
手塚さんは肉を見つめて生返事だ。
「…ああ、いいよ、食べながらで。」
へへ、っと笑って手塚さんは網の上に、トングでがっさりつかんだ新規の肉を投入した。
「やっぱ美味い。こんなに人が並んでるだけのことはある。俺初めて来たけど。」
「うん、ほんと。」
大家さんも食べて、と私に促す。それから、何だっけ、それで?とドングリならぬお肉を口に詰め込みながら手塚さんは言った。
「あ、ああ、竹内さんね、確かになかなか素敵なおじいさんなんだよ。優しいし、あの年にしては若々しいしね。」
「うん。」
「おばあさんたちにも人気があるんだけど、佐々木のばあさんも狙ってるらしいんだよね。」
「まあ…何言ってるか良く分からないけど、そういうことね。」
「うん。それでね、マラソン大会でも佐々木のばあさん、すっごく頑張っててさ。あ、ウォーキングの方に参加してたんだけどね。」
「うん。」
「この焼肉食べ放題券を獲得して、竹内さんと一緒に行きたいんじゃないかってみんなが言ってたのよ。それで本当に優勝しちゃったもんだから。」
「ほう。」
「うん…だからさ、どうして今私たちが焼肉を食べてるんだろうね?」
ね、とリス男が頷いた。
「そいでさ。」
生返事のリス男に構わず、私は続けた。
「ウォーキングだっていうのにオシャレもしちゃってたし。」
「オシャレ?」
「佐々木のばあさんね。何かね、ひらひらしたシフォンっぽい素材のブラウス?着てたよ。」
お年寄りと若者の交流という、微笑ましいイベントのはずだったんだけど、ひらひらしたオシャレ着の佐々木のばあさんが、必死の形相で歩いていたのが思わずツボってしまった。
「お互い町内をぐるぐる回ってるでしょ?お年寄りのこんな顔見たことない、っていうくらい必死の佐々木のばあさんといつも同じ場所ですれ違ってさ。新澄橋のへんなんだけどさ、もう新澄橋が見えただけで、あー、また来る来るって思うと、ほんとに申し訳ないんだけど、ひとりで吹いちゃって。」
「…っ!」
手塚さんが突如むせた。
「え?だ、大丈夫、手塚さん?」
喉に肉がつかえたらしく、胸を叩いている手塚さんに慌ててウーロン茶を渡す。
「あ…うん、だ、大丈夫。」
ともう一口ウーロン茶を飲んだ手塚さんは、ふうっと大きく息をついた。そして、
「って言うか、大家さん。」
と私に向き直ると、くっくっと笑い出した。
「何?」
「いや…うん…。」
と手塚さんはひとしきり笑っていたが、腕時計を見ると、
「六時半か。さすがにまだ起きてるだろ。」
と言った。
「え?誰が?」
「横島さん。」
「横島さん?」
「よし、大家さん、もう一周行けるな。食べよう食べよう!」
「一周?」
「急いで!」
「え?あ、う、うん。…え!まだこんなに食べるの!」
食べ放題券のお礼にアイスクリームでも買っていくか、と手塚さんは言ったけど、冬だし、アイス食べるかな、と私が言うと、じゃあ駅前の和菓子屋さんにするか、と彼は言った。それで閉店間際だった和菓子屋さんにお願いして手塚さんは、いちご大福とおかきを包んでもらった。その紙袋を手に、私たちは横島さんの家に向かった。
まだ七時半を少し過ぎたくらいだったので、横島さんは起きていた。
夜に突然お邪魔してすみません、焼肉ごちそうになりましたので、お礼に、と手塚さんが和菓子の包みを渡すと、まあ、こんなのいいのに、かえって悪かったね、と横島さんは柔らかい笑顔で言った。
「ああ、ボーイフレンドと食べに行ったのね、良かった良かった。」
「え…と、ああ、その…。」
私が口ごもっていると、横から手塚さんが言った。
「この家の…裏の道、ですか?」
え、と手塚さんを見て、横島さんが聞いた。
「はい?なあに?」
「あ、急にすみません、この家の裏の道を、佐々木さんが通ってたのかな、って。」
「…え?」
「あ、はい。」
横島さんは口をあんぐり開けて手塚さんを見ていた。
手塚さんは片方の眉を持ち上げ、おどけた表情で笑った。
私はびっくりしてそんな手塚さんを見上げた。
ゆっくり振り返った私と横島さんの目が合った。
横島さんは、ぷっと吹き出した。
手塚さんも、ははは、と笑った。
わけも分からず、私も笑った。
横島さんが言った。
「まあ、良く分かったわねえ。」
「いえ、ははは。」
「そうなのよ、…ふふふ、現場をね。」
「ああ、現場をね。」
と横島さんと手塚さんは楽しそうだ。
「焼肉ね。私はそんなの要らない、って言ったんだけどね、受け取ってもらわないと困るって佐々木さんが言い張って。…でもまあ、あなたたちがたくさん食べてくれたなら良かったわ。」
「…もう段々慣れて来たけどさ。」
「ははは。」
「今度は何!」
家に戻る道を、コートのポケットに両手を突っ込んで歩く手塚さんと並んで歩いていた。
「怒るなって。いや、大家さん言ったでしょ。」
「何を?」
「佐々木のばあさんといつも新澄橋ですれ違うから、来る来るって思うとおかしくって、って」
「言ったよ。」
「変だろ、それ。」
「何が?」
手塚さんは私を覗き込むようにして言った。
「走る人と歩く人が、同じコースを逆走してるんだろ?いくら大家さんが走るのが遅かったとはいえ、佐々木のばあさんとすれ違うのは、どんどんお年寄りのスタート地点の方向にずれていくはずだ。」
「あ…。」
「それに、逆走して同じ輪の中を走っているなら、一周で二度交差することもあるはずだろ。新澄橋以外ではどうして見かけなかったのさ。」
手塚さんがまた笑った。
「…佐々木のばあさん…やりおったな。」
「横島さんは足が悪かったから、マラソン大会には参加していなかった。家にいるときに、こっそり近道をしている佐々木のばあさんを見かけたんだろう。」
そう言うと手塚さんは、あ、ちょっと冷えて来たね、と肩をすくめた。そして、それにしても、と言った。
「現場、って言ってるのが面白かった。横島さんも、『犯行』だと思ってるんだろうな。佐々木のばあさんのズルは。」
「ははは。確かに。現場って。」
「ね。」
並んで歩く手塚さんの腕が、少し私の腕に当たった。あ、ごめん、と手塚さんは言った。
こんなに近くに居るけれど、私たちは手を繋がない。
繋ぐ関係ではないからだ。
でも、繋ぎたい、と思った私がいた。
そう思ったことにびっくりした。
いや、それは嘘か。
本当は、知ってる。
そう思わないようにしていただけだ。
それで、何も気づかないふりをして、ただ手塚さんの隣に居たい。
今はただ目をつぶっていたい。
そんなのってずるいだろうか。
だけど、今は。
そうまでして優勝したかった佐々木のばあさん。活躍して自分の若々しさをアピールしたかったのかも知れないし、食べ放題券をもらったことを理由に、竹内さんをデートに誘いたかったのかも知れない。私はそんなふうに必死になれる佐々木のばあさんが、ちょっぴり羨ましかった。
それから数日後、私はまた道で会った近所の人から、通称『ミックス券』と呼ばれるものを二枚もらった。
「ミックス券って何。」
「横島さんにお礼買って行った和菓子屋さんの店内で、あんみつとか食べられるんだよ。」
「ああ、テーブル席があったね。」
「うん。そのあんみつに、白玉とかバニラアイスとか、好きなだけトッピングをミックスできる夢のチケット。」
「なるほど。」
「子どもの頃、これもらうとめっちゃ嬉しかったなー。」
私がチケットを前に考え込んでいると、
「いいんじゃない?」
とモニターの山の中から手塚さんの声がした。
「え?」
「佐々木のばあさんに、あげたいんでしょ。」
「うん…。」
「俺、そんなに甘いもの好きってわけじゃないし。」
「えー!甘いもの苦手なの?ヒマだからクッキー焼いて来たんだけど。」
「それは…ヒマそうだね。…いや、もらうよ。じゃあ、コーヒー淹れて来ようか。」
そう言って手塚さんは立ち上がると、うーん、と伸びをした。
「まあ、あだ名みたいなもんだね。」
「あだ名。」
「うん。昔から、佐々木のばあさんって呼ばれてた。佐々木ってやつのおばあさんだったから。」
「ふうん…。」
「佐々木はね、佐々木ってあだ名だったの。で、佐々木のばあさんだから、佐々木のばあさんだね。」
「…へえ。」
私と手塚さんは、近所の焼肉店に居た。某グルメサイトでも、この街のランキング一位に君臨し続けている店だ。このあたりでは珍しく、常に人が並んでいる。ちなみにそのランキングの一位から四十位くらいまでは全部良く知っている店だったので、ああ、地元ってこういうことを言うんだな、と思った。
先日、町内会のマラソン大会があった。
「えー!私!?」
「若い人があんまり居ないのよね。軽くジョギングするみたいな気分でいいからさ、参加してよ。」
ベランダで栽培したというミニトマトを持って来てくれた、たかちゃんのお母さんにそう頼まれた。ビニール袋いっぱいに詰まったピカピカのそのトマトは、一食これだけでいい、というくらいの私の大好物でもある。
「いや、でも、全然動いてないしなあ、このところ。」
「そういう人のための大会なのよ。」
「うーん…そう?」
「そうよ、ほら、体動かして、嫌なことはもう忘れる忘れる!」
「…。」
若者はマラソン、お年寄りはウォーキングという催し物なのだそうだ。同じコースを両者は逆走して、出会ったら声をかけよう、若者とお年寄りが交流しよう、という企画だった。それで私は、まあ確かに運動不足だし、別に何かを忘れたいからじゃないけど、たかちゃんのお母さんもこう言ってるし、ということで、うん、いいよ、と返事をした。たかちゃんのお母さんは、あの人は、何だっけほら、手塚さんだっけ?あの人は出てくれないかしら、と言っていたが、そうだね、あの人は無理だと思う、と答えておいた。その週末に開催されたマラソン大会は、いざ参加してみると、近所の懐かしい人たちにもたくさん会えたし、久しぶりに運動したらすごくすっきりしたしで、とても楽しかった。
それから数日は体がみしみしいっていたが、そんな軋みも落ち着いてきた日のことだ。私は買い物帰り、これまた懐かしい近所のおばあちゃんに会った。
「あ!横島さん!?」
「まあ!久しぶりね!」
まあまあ、と近くに来てくれた横島さんは私の手を取って、本当に久しぶりね、と元気そうな笑顔を見せてくれた。
「ひろちゃんは元気にしてる?」
「うん、元気にしてるわよ。今はね、大阪の方で仕事してるのよ。」
横島さんは、私の中学の後輩、ひろちゃんのおばあさんだった。大きくなったわねえ、と横島さんはもう結構いい大人の私を見て嬉しそうに頷いていたが、
「ああ、そうだ!」
と手を打った。そして言った。
「ちょうどいいところで会った、ちょっとうちに寄ってくれる?」
「横島さんちに?」
「そう。あげたいものがあるの。」
「え?ああ、うん、分かった。」
それで私は少し来た道を戻るようにして、連れ立って横島さんの家に向かった。
「横島さん、杖?」
「これ?そうなのよ。転んで怪我してから、なかなか元には戻らなくてね。」
何も変わらないように見えるこの街にも、いろいろな変化は訪れている。
きちんと手入れされた梅の木が目印の横島さんのうちに着くと、ここでごめんね、座ってちょっと待ってて、すぐに取って来るから、と横島さんは私を玄関に座らせて、奥に入って行った。それから二、三分して横島さんは戻って来た。
「はい、お待たせ、これなんだけど。」
そう言って横島さんは私に白い封筒を手渡した。
「ん?これ何?」
「焼肉のね、食べ放題の券なんだって。ほら、何だっけ、すごく人が並んでるお店あるじゃない、たい焼き屋さんの近くの。」
「って言うと、興龍園?」
「ああ、そんな名前だったわね。」
昔から人気のある店だった。この頃は地元以外の人も多く食べに来ていると聞いた。
「うん、あの人気のお店ね。」
「そうそう、そこの焼肉食べ放題。私は食べられないから、どうぞ使ってちょうだい。」
横島さんは封筒をぐっと私に押し付けた。
「えー!?ほんとに?いや、どうして?悪いよ。」
「いいのいいの。私ももらったのよ、これ。」
「ええ!もらったって、誰に?」
ふふっと笑って横島さんは言った。
「そうなのよ…佐々木さんにね。」
名前を聞いてパッとは思い浮かばなかったが、佐々木、佐々木、と記憶を手繰ると、じわじわと佐々木の顔が浮かんで来た。
「佐々木…?ああ、あの佐々木?そんで佐々木んちの佐々木のばあさん?」
「ははは、懐かしいわね、その呼び方。まあ、うん、そうなのよ。」
「佐々木のばあさんが、どうしてこんなもの横島さんにくれたの?」
個人の感想だが、焼肉食べ放題券は、おばあさんたちの間でやり取りするものではない気がする。それねえ、と横島さんはまた肩を震わせた。
「こないだマラソン大会あったじゃない?そこで佐々木さん、お年寄り部門で優勝したんでしょ?」
「ああ、うん、そうだった!まさかこれ。」
久しぶりに身体を動かした私は、何とかゴールしたものの、そのあとの記憶は薄っすらとしか残っていないくらいエネルギーを使い果たしていた。表彰式をやっている時は確か日陰の椅子に腰掛け、たかちゃんのお母さんに背中をさすられていた。そんな中ではあったが、佐々木のばあさんの名を聞いた気がする。
「そう。その副賞らしいのよ。…私は使わないからって。」
「ええ!?それをくれたの!?」
いいよ、悪いよ、いいよ、悪いよ、と行ったり来たりしていた白い封筒は、結局私のエコバッグに収まった。
「…で、大家さんのところにこの食べ放題券が回って来た、と。」
「そうなんだよ。」
ふうん、と手塚さんは、ご飯とお肉を口いっぱいに詰め込んで、必死で冬支度をしているリスのような顔で頷いた。食べているところを見ると、手塚さんって男子なんだな、といつも思う。しかも焼肉を食べている手塚さんは、今まで見た手塚さんの中でも男子度MAXだ。焼肉ってやっぱり最強なんだな、と思う。
「そう。それでその優勝した佐々木のばあさんなんだけどさ、噂だけど、竹内さんを狙ってるらしくて。」
「狙ってるって…。そして竹内さんって?」
「元々畳屋さんだった竹内さん。今はもうやってないけどね。」
「…ん。」
手塚さんは肉を見つめて生返事だ。
「…ああ、いいよ、食べながらで。」
へへ、っと笑って手塚さんは網の上に、トングでがっさりつかんだ新規の肉を投入した。
「やっぱ美味い。こんなに人が並んでるだけのことはある。俺初めて来たけど。」
「うん、ほんと。」
大家さんも食べて、と私に促す。それから、何だっけ、それで?とドングリならぬお肉を口に詰め込みながら手塚さんは言った。
「あ、ああ、竹内さんね、確かになかなか素敵なおじいさんなんだよ。優しいし、あの年にしては若々しいしね。」
「うん。」
「おばあさんたちにも人気があるんだけど、佐々木のばあさんも狙ってるらしいんだよね。」
「まあ…何言ってるか良く分からないけど、そういうことね。」
「うん。それでね、マラソン大会でも佐々木のばあさん、すっごく頑張っててさ。あ、ウォーキングの方に参加してたんだけどね。」
「うん。」
「この焼肉食べ放題券を獲得して、竹内さんと一緒に行きたいんじゃないかってみんなが言ってたのよ。それで本当に優勝しちゃったもんだから。」
「ほう。」
「うん…だからさ、どうして今私たちが焼肉を食べてるんだろうね?」
ね、とリス男が頷いた。
「そいでさ。」
生返事のリス男に構わず、私は続けた。
「ウォーキングだっていうのにオシャレもしちゃってたし。」
「オシャレ?」
「佐々木のばあさんね。何かね、ひらひらしたシフォンっぽい素材のブラウス?着てたよ。」
お年寄りと若者の交流という、微笑ましいイベントのはずだったんだけど、ひらひらしたオシャレ着の佐々木のばあさんが、必死の形相で歩いていたのが思わずツボってしまった。
「お互い町内をぐるぐる回ってるでしょ?お年寄りのこんな顔見たことない、っていうくらい必死の佐々木のばあさんといつも同じ場所ですれ違ってさ。新澄橋のへんなんだけどさ、もう新澄橋が見えただけで、あー、また来る来るって思うと、ほんとに申し訳ないんだけど、ひとりで吹いちゃって。」
「…っ!」
手塚さんが突如むせた。
「え?だ、大丈夫、手塚さん?」
喉に肉がつかえたらしく、胸を叩いている手塚さんに慌ててウーロン茶を渡す。
「あ…うん、だ、大丈夫。」
ともう一口ウーロン茶を飲んだ手塚さんは、ふうっと大きく息をついた。そして、
「って言うか、大家さん。」
と私に向き直ると、くっくっと笑い出した。
「何?」
「いや…うん…。」
と手塚さんはひとしきり笑っていたが、腕時計を見ると、
「六時半か。さすがにまだ起きてるだろ。」
と言った。
「え?誰が?」
「横島さん。」
「横島さん?」
「よし、大家さん、もう一周行けるな。食べよう食べよう!」
「一周?」
「急いで!」
「え?あ、う、うん。…え!まだこんなに食べるの!」
食べ放題券のお礼にアイスクリームでも買っていくか、と手塚さんは言ったけど、冬だし、アイス食べるかな、と私が言うと、じゃあ駅前の和菓子屋さんにするか、と彼は言った。それで閉店間際だった和菓子屋さんにお願いして手塚さんは、いちご大福とおかきを包んでもらった。その紙袋を手に、私たちは横島さんの家に向かった。
まだ七時半を少し過ぎたくらいだったので、横島さんは起きていた。
夜に突然お邪魔してすみません、焼肉ごちそうになりましたので、お礼に、と手塚さんが和菓子の包みを渡すと、まあ、こんなのいいのに、かえって悪かったね、と横島さんは柔らかい笑顔で言った。
「ああ、ボーイフレンドと食べに行ったのね、良かった良かった。」
「え…と、ああ、その…。」
私が口ごもっていると、横から手塚さんが言った。
「この家の…裏の道、ですか?」
え、と手塚さんを見て、横島さんが聞いた。
「はい?なあに?」
「あ、急にすみません、この家の裏の道を、佐々木さんが通ってたのかな、って。」
「…え?」
「あ、はい。」
横島さんは口をあんぐり開けて手塚さんを見ていた。
手塚さんは片方の眉を持ち上げ、おどけた表情で笑った。
私はびっくりしてそんな手塚さんを見上げた。
ゆっくり振り返った私と横島さんの目が合った。
横島さんは、ぷっと吹き出した。
手塚さんも、ははは、と笑った。
わけも分からず、私も笑った。
横島さんが言った。
「まあ、良く分かったわねえ。」
「いえ、ははは。」
「そうなのよ、…ふふふ、現場をね。」
「ああ、現場をね。」
と横島さんと手塚さんは楽しそうだ。
「焼肉ね。私はそんなの要らない、って言ったんだけどね、受け取ってもらわないと困るって佐々木さんが言い張って。…でもまあ、あなたたちがたくさん食べてくれたなら良かったわ。」
「…もう段々慣れて来たけどさ。」
「ははは。」
「今度は何!」
家に戻る道を、コートのポケットに両手を突っ込んで歩く手塚さんと並んで歩いていた。
「怒るなって。いや、大家さん言ったでしょ。」
「何を?」
「佐々木のばあさんといつも新澄橋ですれ違うから、来る来るって思うとおかしくって、って」
「言ったよ。」
「変だろ、それ。」
「何が?」
手塚さんは私を覗き込むようにして言った。
「走る人と歩く人が、同じコースを逆走してるんだろ?いくら大家さんが走るのが遅かったとはいえ、佐々木のばあさんとすれ違うのは、どんどんお年寄りのスタート地点の方向にずれていくはずだ。」
「あ…。」
「それに、逆走して同じ輪の中を走っているなら、一周で二度交差することもあるはずだろ。新澄橋以外ではどうして見かけなかったのさ。」
手塚さんがまた笑った。
「…佐々木のばあさん…やりおったな。」
「横島さんは足が悪かったから、マラソン大会には参加していなかった。家にいるときに、こっそり近道をしている佐々木のばあさんを見かけたんだろう。」
そう言うと手塚さんは、あ、ちょっと冷えて来たね、と肩をすくめた。そして、それにしても、と言った。
「現場、って言ってるのが面白かった。横島さんも、『犯行』だと思ってるんだろうな。佐々木のばあさんのズルは。」
「ははは。確かに。現場って。」
「ね。」
並んで歩く手塚さんの腕が、少し私の腕に当たった。あ、ごめん、と手塚さんは言った。
こんなに近くに居るけれど、私たちは手を繋がない。
繋ぐ関係ではないからだ。
でも、繋ぎたい、と思った私がいた。
そう思ったことにびっくりした。
いや、それは嘘か。
本当は、知ってる。
そう思わないようにしていただけだ。
それで、何も気づかないふりをして、ただ手塚さんの隣に居たい。
今はただ目をつぶっていたい。
そんなのってずるいだろうか。
だけど、今は。
そうまでして優勝したかった佐々木のばあさん。活躍して自分の若々しさをアピールしたかったのかも知れないし、食べ放題券をもらったことを理由に、竹内さんをデートに誘いたかったのかも知れない。私はそんなふうに必死になれる佐々木のばあさんが、ちょっぴり羨ましかった。
それから数日後、私はまた道で会った近所の人から、通称『ミックス券』と呼ばれるものを二枚もらった。
「ミックス券って何。」
「横島さんにお礼買って行った和菓子屋さんの店内で、あんみつとか食べられるんだよ。」
「ああ、テーブル席があったね。」
「うん。そのあんみつに、白玉とかバニラアイスとか、好きなだけトッピングをミックスできる夢のチケット。」
「なるほど。」
「子どもの頃、これもらうとめっちゃ嬉しかったなー。」
私がチケットを前に考え込んでいると、
「いいんじゃない?」
とモニターの山の中から手塚さんの声がした。
「え?」
「佐々木のばあさんに、あげたいんでしょ。」
「うん…。」
「俺、そんなに甘いもの好きってわけじゃないし。」
「えー!甘いもの苦手なの?ヒマだからクッキー焼いて来たんだけど。」
「それは…ヒマそうだね。…いや、もらうよ。じゃあ、コーヒー淹れて来ようか。」
そう言って手塚さんは立ち上がると、うーん、と伸びをした。