「やぁ。君の願いを叶えてあげよう」

天から声が降ってきた。見上げてみてもそこには何も無い。辺り一面ただ真っ白で果ての無い空間に、僕がぽつんと立っている。一体ここはどこなのだろう。

「しかし、タダでとはいかないよ。君にはこの器を一杯にして貰いたい」

すると突然、胸元にふわふわと光が集まり出して、そっと両手で受け止める。たくさんの光は手の中にどんどん集まり、途端に光が弾け、あとには綺麗なガラスの器が残されていた。それほど大きく無く、お椀のような形をした両手に収まるサイズだった。

「期限は一ヶ月。その間に器を幸せで満たして欲しい。それが達成された時、君の願いは叶うだろう」

僕の返事は一つも待たずに、どんどん話が進んでいく。この器を幸せで満たす? すると僕の願いが叶う? なんとも信じ難い話である。一体今僕の身に何が起こっているのだろう……まさか、これは夢?

「では、坂下(みのる)。よろしく頼んだよ」

ハッと、そこで目が覚めた。ここは……うん、僕の部屋だ。僕はベッドの中にいて、さっきのはやっぱり夢だった。変な夢だったな……この間観た映画の影響かな。

「……え?」

部屋を見渡すと、突如目に飛び込んできたそれ。なんと、机の上にそれはあった。透き通ったガラスが窓から差す朝日を浴びて、キラキラと輝いている。間違いない。それは先程まで僕の手の中にあったあの、綺麗なガラスの器。

「……夢じゃなかった」

思わずこぼれた自分の言葉を、意識の外で耳が拾い上げた。え? 夢じゃなかった? てことは、これは現実?

——トントン

「実、起きた?」
「あ、うん。何?」

部屋のドアがノックされると、僕の返事を待ってそっと開いた隙間からお母さんが顔を出した。なんだか申し訳なさそうな表情である。

「あのね、お母さん寝坊しちゃって、実のお弁当作る時間がなくて……」
「分かった。朝買ってくから大丈夫」
「ごめんね……本当にごめん!」
「いいよ、もう高校生だし。仕事忙しいんでしょ? 洗濯も取り込んどくよ」
「! 実は本当になんて優しいの……っ! いつもありがとう! 本当にありがとう!」

——カラン

「?」

あれ? 今何か音がしたような……?

それじゃあ行ってきます!と、慌ただしくお母さんが玄関へ走っていくので、僕はパジャマ姿のまま玄関まで行って見送った。お母さんはいつも元気で、いつも忙しい。

そのままリビングで朝ごはんを済ませて、制服に着替える為にもう一度部屋へと戻る。机の上にはやっぱりあのガラスの器があって……あれ? 中で何かが光ってる。

「なんだろう? 綺麗なガラス玉」

大きめの金平糖のようなサイズの丸いガラス玉が、器の中に一つだけ入っていた。さっきまで何も入ってなかったはずなのに……あ!

「まさか、これが幸せ……?」

この器を幸せで一杯にしろと、夢の中の誰かが言っていた。貯める幸せがこのガラス玉? だとしたら、今ここに幸せが一つ溜まってるという事? 起きてから今の間で幸せが貯まる様な事なんてあったかな。お母さんが寝坊した事くらいしか……あれ? そういえばさっき、カランと音が鳴っていたような。

今思えばあの音は、まるでガラスの玉が器に当たった様な音だった。あの瞬間に器に幸せが溜まったのだとしたら……そうだ! あの時はありがとうとお母さんに言われて、そしたらカランと音が鳴ったんだ!

人から感謝される様な事をしたら、ガラス玉が一つ増える。つまり、人を助けて幸せにする事で、この器は一杯になる!

繋がった答えにものすごくスッキリしたと同時に、むくむくと湧き上がってきたのは好奇心。こんなに不思議な事が起こっているのならぜひ、試してみるしかない。この器を一杯にしてみたい。

とりあえず、遅刻をする訳にはいかないので、今後どうやって貯めていくのかは一旦保留にして学校へと向かう事にした。期待に胸を膨らませる自分の足取りはとても軽やかだった。


「ただいまー」

学校から帰宅後、朝の約束通りに洗濯を取り込み自室へ戻ると、机の上にあるキラキラと輝くそれが一番に目に入った。やっぱりだ! 中身が増えている!

ガラスの器には朝の物の他に二つ、ガラス玉が増えていた。二つといえば思い当たる節がある。授業中に隣の席の子が落とした消しゴムを拾った時と、忘れ物をした友達に教科書を貸した時。その時に丁度、あの朝のカランという音が鳴ったのだ。僕にしか聞こえていないようだったけど、これはもう間違いない。あの音は器に幸せが増える音!

もしこの器が一杯になった時、一体どんな事が起こるのだろう。本当に僕の願いが叶うのだろうか。普段通りに生活して三つも増えたのだから、もっと積極的に動いたらもっとたくさん貯まるはず。明日からはどんどんありがとうを集めにいこう。この調子ならきっとすぐに一杯になるはずだ!

——と、意気揚々に次の日から動き出したはいいものの、一週間が経った今、僕は現状に満足出来ていなかった。結果はいまいち。思っていたよりガラス玉は増えなかったのである。

ありがとうと言われる機会は多くあった。返ってきた宿題のノートを配ったり、授業の後の黒板を消したり、実験の後片付けを代わったり……始めた直後は手伝う事で貰えた言葉の一つ一つにカランと音が鳴っていて、集まり具合も順調だった。でもそれが何日か経つと、急に音の鳴る回数が減ってしまったのだ。それは一体何故なのか……原因は分かってる。多分、慣れ。

最近貰うありがとうには重みが無かった。僕が手伝う事に周りが慣れていったというか、それが当たり前になっていったというか……いつの間にかありがとうが、よろしくね、くらいの意味になっていったというか。

僕はそれでも良かったけれど、ガラス玉が貯まらないという事は、相手は幸せになっていないという事。確かに、幸せだと感じているのなら自然とありがとうにも気持ちがこもるはずで、挨拶の様な気軽さでは幸せとはちょっと違う気がする。

「難しいな……」

普段から聞いているはずの言葉なのに、心からのありがとうを貰えるチャンスは少ないのだと、この機会を通じて初めて気が付いた。気持ちを貰える有り難みが身にしみる。人を幸せにするのって難しい。

貯める気満々で動いていたというのに、結果、器はまだ半分も貯まっていなかった。しかも貯まったガラス玉の半分ぐらいはお母さんからのありがとうだったから、なんだか納得がいかない。決してお母さんのありがとうが悪い訳ではないけれど、それだと僕が外では人の為になれていない様で悔しかった。

絶対にみんなを幸せにして心からのありがとうを貰ってみせる。負けてたまるかと、いつの間にか僕と知らない誰かの幸せ勝負が始まった。後三週間、やれるだけの事はやってやる。よし、今日からは放課後のグラウンドでゴミ拾いもだ!


「おまえまたやってんの? よくやんなー」

放課後になり、グラウンドの端をぐるっと一周、邪魔にならないようにゴミを拾っていると、陸上部の友達がランニング中に僕に声を掛けて通り過ぎていく。またやってんの?と言われる通り、グラウンドのゴミ拾いは今日で三日目となっていた。

「頑張れよー」
「うん、ありがとう」

……ん? ありがとう? 自分で答えてハッとした。励まされてる場合ではない。僕がありがとうと言うのでは意味が無い。ゴミ拾い部門三日目、過去二日に続いて今日も僕の負けである。

感謝されるのって難しい。人の為になるのって難しい。校舎内では色々やり尽くして来たから外に出てみたものの、この感じだとゴミ拾いは幸せ集めには向いていないのかもしれない。だとしたらこれ以上続ける意味が無いんだけど、でもありがとうって言われないから止めるっていうのもなんだか格好悪い……いや、そもそもそんな動機でやっているからありがとうと言われないのかもしれない。

「ありがとう、坂下君」

——カラン

「!」

幸せの音だ! びっくりして顔を上げると、同じく陸上部であろう女子と目が合った。知ってる。この子は隣のクラスの仲田さんだ。

「はぁ〜やっと言えた! グラウンドのお掃除ありがとうってずっと言いたかったんだ!」

明るく元気な仲田さんの笑顔はキラキラと輝いていて、じゃあねと、ランニング中の彼女は通り過ぎていく。幸せのありがとうが貰えた……と、久しぶりに貰えた心からの言葉を噛み締めながら、彼女の後ろ姿をぼうっと眺めて見送った。そして無事に一周ゴミ拾いを終えて帰宅後、ふと気が付く。

「返事をしてない!」

折角貰ったありがとうに返事もせずに、僕は帰って来てしまったのだ。なんて失礼な事をしてしまったのだろう! とても嬉しかったのに。

溜息と共にガラスの器に目をやると、器の中には今日集めた幸せの分だけガラス玉が増えていた。この中のどれが仲田さんのものだろう……今までで一番嬉しいありがとうを貰えた気がする。明日も会えるだろうか。


「あ、坂下君! 昨日はありがとう!」
「!」

——カラン

昨日の無念を引き摺りながら登校して、丁度昇降口で上履きに履き替えた所だった。びっくりして振り返ると、元気な笑顔の仲田さんが目に飛び込んできて、またびっくりした。

「今日もやるの? 放課後」
「あー、うん。そのつもり」
「そっか。じゃあまた後で、だね」

ニッコリ明るい笑顔で、じゃあねと去ろうとする彼女を咄嗟に引き留める。不思議そうに首を傾げて僕を見る視線に、なんだかすごく緊張した。でも、昨日からずっと彼女に言いたかった事がある。

「あのっさ、昨日はありがとう」
「ん? 何が?」
「あ、ありがとうって言ってくれてありがとう、というか、折角言ってくれたのに返事をして無かったなと、思いまして……」
「…………」
「うっ、嬉しかったから。本当にどうもありがとう」

昨日のお礼のお礼を今更言うなんて気恥ずかしい。そろそろと視線は外れて、話し方もぐだぐだになってしまった……情けない。でも、伝えられて良かった。本当に嬉しかったから。

——カラン

……あれ? 今、音が……

「……うん、じゃあ今日も言うね。言うから、絶対来てね。約束」
「え? うん、分かった。約束」

ニコッと笑った仲田さんは今度こそ教室へと去っていった訳だけど……僕はというと、なんだかドキドキしてしまってそれどころではなかった。

……仲田さんが気になる。

去っていく仲田さんの背中をぼんやりと眺める。その延長で、日頃からぼんやりと仲田さんの事を考える時間が増えていった。目に入る仲田さんはいつも笑顔が輝いていた。


仲田さんのありがとうには、毎回心がこもっている。それは放課後以外に会った時でもそう。例えば、今日の天気を教えた時。肩に付いた糸屑を取ってあげた時や、朝会った時に仲田さんが上履きに履き替えるのを待っていた時なんかもそう。仲田さんはいつも気持ちのこもったありがとうをくれて、その度カランと音が鳴った。

仲田さんは自分の思いを言葉に乗せて周りにお裾分けしている様な人だった。だから彼女の幸せは相手にも伝わり、結果相手も幸せになる。それは僕には思いつきもしなかった手伝う以外の人を幸せにする方法だった。

「仲田さんはすごいね」

二人で並んで教室へと向かう中、仲田さんからのおはようの眩しさに眩んで、思わずついて出た言葉だった。キョトンとした顔で、何が?と、彼女は首を傾げている。

「なんて言うか、いつも素直で何事にも誠実な人だなと。仲田さんのそういう所、尊敬する」
「きゅっ、急にどうしたの? それは坂下君でしょ。聞いたよ、いつもクラスの仕事手伝ってるんでしょ? そんな人なかなか居ないよ」
「いや、僕のは別に……自分の為にやってるだけだし。時期が来たらやめると思う」

あぁそうだったと、仲田さんの言葉ですっかり忘れていた目的を思い出した。最近は手伝う事が習慣になっていてあまり気にしていなかったけれど、期限まで残り約一週間という所まできていた。器の中身は大分貯まっている。何故ならいつも、仲田さんがたくさんのありがとうをくれるからだ。

「時期? 時期って何の?」
「うーん……僕の願いが叶ったら、というか……」
「願掛け的な事?」
「……うん、そんな感じ」

でも僕はまだ肝心の願いが決められていないので、掛ける願がない状態での願掛け中という事になる。完全に可笑しい。

「あの……どんな事を願ってるのか、聞いても良い?」

なんだか申し訳無さそうに尋ねる仲田さんに、悪い事なんて一つも無いのに、と思う。でも答えたくても願いが決まっていないのも事実。一体僕の願いってなんだろう……なんでも叶うとなると逆に難しい。何か欲しい物あったかな。こうなったら良い、みたいな事とか……

「なんちゃって! ちょっと聞いてみただけだから気にしないでね。ほら、願い事って人に言わない方が良いって言うし!」

黙り込む僕にそう言う仲田さんは笑顔だったけれど、そこには遠慮がチラリと見られた。きっと僕が考え込んだのを見て、答えたがっていないものと受け取ったのだろう。仲田さんに気を遣わせてしまった……僕に気を遣う事なんて無いのに。もっと思ってる事を言ってくれて良いし、仲田さんには話したいと思っているのに……あ、そうか。

「僕はもっと仲田さんと仲良くなりたいかな」
「……え?」
「僕の願い。仲田さんが僕に気を遣わなくなって、僕も仲田さんがくれるありがとうみたいな、そんな幸せをもっと仲田さんに返していけたらいいなって……まぁ、願掛けとは違うけど。実はまだ決まってなくて……あれ? 仲田さん?」
「……」

どうしたの?と、顔を覗き込むと、仲田さんは顔を逸らしてなんでもない、とだけ答える。なんだか様子が可笑しい。

「そ、そうだった! 今日の分の宿題がまだ残ってるんだった! 急いでやらないとだからまたね!」
「あ、うん」

矢継ぎ早に言葉を繋げると、仲田さんはパタパタと慌てた様子で教室へと向かっていったので、僕はそれを見送った。そっか、宿題忘れたの思い出したから変だったのか……大丈夫だったかまた放課後に会った時にでも聞いてみよう。

——なんて、その時の僕は暢気に考えていた。今となれば何故あの時に気が付かなかったのかと、のんびり構えていた自分に後悔しかない。何故ならその日その瞬間から、仲田さんは僕と距離を置くようになったからだ。

声を掛けても仲田さんと目が合わなくなって、仲田さんの言葉に心がこもらなくなった。いつものあの音が鳴らない。目を逸らされて、どこか上の空な返事しか返って来なくなってしまったのだ。どうしてだろう……あの日、僕が仲良くなりたいなんて言ったから? 仲田さんはそう思っていないのだとしたら、悲しいけれど納得がいく。

気がつけば、あんなにやる気に満ちていた幸せ集めに身が入らなくなっていた。だって僕が幸せを集める為に何かをした所で、もう仲田さんが笑ってくれる事は無いのだし、仲田さんを幸せにする事は出来ないのだから。仲田さんの幸せが、仲田さんのありがとうが、僕は一番嬉しかったのに……。

……あれ? ちょっと待て。仲田さんのありがとうが嬉しいって? 僕は仲田さんのありがとうが欲しくて幸せを集めていたの? そんなのまるで、仲田さんじゃなくて僕が幸せにして貰っていたみたいだ……いや、みたいだ、じゃない。正しくその通りだ。ずっと僕の方が仲田さんに幸せを貰っていたんだ。

思い返してみても、僕が仲田さんの為に出来た事なんてこれっぽっちも思い浮かばなかった。つまり、仲田さんのありがとうを通してガラス玉が貯まったのは、僕が何かをしたからではない。仲田さんが自分の幸せをありがとうにのせて分けてくれていたからで、それが僕の情けない答えだった。


もうすっかり習慣となっているクラスの手伝いとゴミ拾い。ガラス玉はこつこつ貯まって、あともう少しで器が一杯になる。今日のゴミ拾いも仲田さんはありがとうと言ってくれたけど、カランと音は鳴らなかった。分かっているのに繰り返すのは、僕がただ仲田さんに会いたいから。気まずい思いをさせてるのは分かってるのに、僕はいつまでこんな事を続けるのだろう。情けない。

帰宅後、机の上を確認すると、いつの間にか一杯になった器がキラキラと輝いていた。今日の手伝いで貯まったのだろう。これで放課後彼女に会う理由も無くなってしまうなと、心がチクリとした。

——その晩。僕はまた、あの夢を見た。

「やぁ、器が貯まったんだね」

真っ白な空間の中、ぽつりと佇む僕に天から声が降ってきた。手の中にあるガラスの器は、満杯の中身と合わさる事でより一層眩く輝いていて、この輝きの正体が幸せだとしたら、幸せとはなんて綺麗な物なのだろうと今更ながらに感動した。けれど、それとは裏腹に僕の心は晴れない。

「では、君の願いを叶えてあげよう」

ついにこの時が来た。僕の願いは? キラキラ輝く手の中の幸せを眺めながら、僕は同じくらいに輝くあの笑顔を思い浮かべていた。頭の中に浮かぶのはいつも、ありがとうと言ってくれる仲田さんの笑顔。それが、僕の幸せだった。

「人の心を変える、とかでも可能ですか?」

天に向かって声を掛けると、もちろんだと返事がある。本当に何でも叶うらしい……こんな、あり得ない願いでも。

僕は仲田さんと仲良くなりたい。あの日、彼女に告げた言葉は本心で、今でもずっと思っている。でも僕は知っている。仲田さんはそうではない。僕から離れていった仲田さんはもう、あの頃の様な言葉を僕にはくれないのだから。

もし今ここで、僕が仲田さんとの仲を取り持ってくれと願ったなら、願った通りに仲田さんと仲良くなる事が出来るのだろうか。もし僕がここで、仲田さんの特別になりたいと願ったら……仲田さんの気持ちとは関係無く、僕の思った通りの関係になる? それなら僕は……僕は、それで本当に幸せ?


器に目をやる。ここには幸せが沢山詰まっている。この輝きを見て、僕の幸せはすぐに頭に浮かんだはずだ……そうだ。僕の幸せはもう、決まっている。

「仲田さんを幸せにして下さい」

天に向かって決意と共に願いを告げた。何もうだうだ考える事など無かったのだ、すでに答えは決まっていたのだから。僕の幸せは仲田さん。幸せな笑顔の仲田さんだ。

仲田さんと出会えて、沢山の言葉を貰えて、仲田さんが僕を幸せにしてくれた。だから次は僕から仲田さんに幸せのお返しがしたい。今の避けられている僕には不可能な事でも、ここで願えば可能になる。

「それで良いんだね?」

念を推す天の声に、お願いしますと答えると、前も見えないくらいの眩い輝きが弾けると共に、僕は目を覚ました。机の上にはもうガラスの器は無くなっていて、これで全てが終わったのだと思うと、なんとなく肩の荷が降りた様な気持ちになった。

僕は、心からの言葉をくれる仲田さんが好きだ。もし僕の思う様に心を変えてしまったとして、その仲田さんがありがとうと言ってくれた時、それを本当に心からの言葉だと受け取る事が出来るのかと考えたら、そんな事をしたって虚しいだけだと気が付いた。仲田さんにはずっと、仲田さんのままでいて欲しい。

どうか仲田さんが幸せでありますように。

いつもよりまだ少し早い時間だったけれど、身支度を済ませて登校した。たまには良いだろう。今日は全てが終わった日なのだから、余韻に浸る余裕が欲しかった。

「……坂下君?」
「!」

昇降口に入ってすぐの場所。まだ早く、誰も登校していないような時間なのに、仲田さんはたった一人でそこに居た。

「仲田さん、どうしたの? 早いね」
「あ……うん。ちょっと用があって」

気まずそうにする仲田さんに、それじゃあと、僕は早々に立ち去る事に決めたけれど、待ってと静止の声が掛かる。ピタリと足を止めて彼女を見ると、僕の事を見据える瞳とバチっと目が合った。

「違うの。えっと、坂下君に用があるの」
「……僕?」

まさか僕だとは。一体何の用だろう……嬉しいけれど不安になる。もしかして夢の中で願ったせい? だとしたら仲田さんが幸せになるはずだから、気まずい僕に用があるなんて……まさか、今から絶縁宣言でもされるんじゃ……いやそうだ、絶対にそうだ。

自分の願いがこんな形で返ってくるなんて思いもしなかった。まさかそこまで嫌われていたなんて……仲田さんの幸せの為に僕は今から、仲田さんとさよならをしなければならないのか。

「あのさ、最近ごめんね。私、変な態度取っちゃってたよね」
「あ、いや、別に……大丈夫だよ」
「大丈夫なの? そっか……でも、私は大丈夫じゃなくて……」

え! 大丈夫じゃない? 思いもよらない答えとどこか落ち込む仲田さんに、もう何が何だか分からなくなる僕だったけど、彼女は切り替えた様に、「あのね、坂下君」と話を続ける。

「私ね、坂下君が優しい人だって知ってたの。だから坂下君がお手伝いを始めてから、話しかけるチャンスが来た!って嬉しくて、お礼を言えるのがすごく楽しみだったんだ」
「え? う、うん。ありがとう」
「でもね、仲良くなるうちに、本当に言いたい事はこれじゃ無いって気持ちがなんか、坂下君と会う度に溢れちゃって、ありがとうすら上手く言えなくなっちゃって……ごめんね、嫌な態度だったよね」
「……そう、だったんだ……」

ここでようやく、今が何の話で、今まで何が起こっていたのか、僕の中で辻褄が合った。仲田さんのありがとうで幸せの音が鳴らなくなったのは、他に伝えたい言葉が心に支えていたからだったのだ。それでは思いがこもらないはずだ。素直で誠実な仲田さんなのだから。

「うん。そしたら何でも言ってよ。あ、言い辛いんだっけ……僕はいつでも何でも仲田さんには言って欲しいと思ってるし、言えないで辛そうな方が悲しいけど……」
「……うん、ありがとう」

返って来たのは、ぎこちない笑顔だけだ。まだ言えない、という事だろうか。あー、僕って本当にここぞという時にちゃんとした言葉が出ない奴だ。もっと端的に、簡潔に伝えたい言葉がある。

「えっと、仲田さん。仲田さんの言葉は全部僕を幸せにしてくれてるよ。仲田さんが心からの言葉を全部僕にくれたら、それで仲田さんが幸せになるなら、それが僕の幸せなんだよ」

だから仲田さんは安心して言って下さいと、勢いのままに覚悟を決めた。これで僕達の関係も終わりかな。仲田さんが幸せならばと、諦めた僕の目の前で、仲田さんは目を一回り大きくさせて息をのむ。

「……じゃあ、幸せになる為に今、ずっと胸に引っかかってた言葉、言っても良い?」

深呼吸をした彼女の目は真剣で、僕は大きく頷いた。息を吸う音が聞こえる。

「好きです。坂下君が大好き」
「……へ?」

今、何て?

「い、言えたー、良かった! 本当はずっと心の中で言ってたんだ、ありがとうじゃなくて大好きって。ずっと口に出して言いたかったの。ただそれだけ!」
「え? あ、え?」
「あ、坂下君が私の事そういう風に思ってないの分かってるから。でももう言っちゃえ!って、なんとなくタイミングが来てさ。でも本当に良かった、偶然朝早く坂下君も来たし、なんか運命かなって……い、いやっ、それは気持ち悪いよね、ごめんね! えっと、だからその、そういう事なので!」

呆然と立ち尽くす僕に早口で捲し立てる様にいう仲田さんの顔は真っ赤で、じゃあねと急に走り出すので、ハッと我に返って慌てて追いかけた。

言い逃げなんてズルい。いや、混乱してぼんやりしてしまった僕も悪いけども、だけど! このまま逃がす訳にはいかない!

階段を駆け上がり、彼女を追いかける。陸上部の仲田さんだろうと関係ない。ここで追いつかなければ意味が無い。仲田さんを幸せにして下さい? ……違う。僕が仲田さんを幸せにしたい。それが僕の願いの答えだ!

「あのね! 仲田さん!」

僕の想いよ、君の心へ届け! そう、手を取り振り返った彼女の赤い顔を見て強く願う。

君へと届いたその時は、どこかで幸せの音が鳴っていますように。僕達の心にある幸せの器にはきっと、二つ分の綺麗な輝くガラス玉が貯まっているはずだから。

「僕も、仲田さんが大好きです!」

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