『――の、願いごとが叶うように……』
つぶやいた君の手のひらで、さくら色の光がきらめいた。
生まれてからずっと住んでいた東京の街から海辺の田舎町へ車で移動する道中。後部座席のシートに靴を履いたまま横に寝転がったわたしは、史上最高にふてくされていた。
「もうすぐ着くよ」
「ほら、真凛。海が見えてきた」
助手席のママがわたしを振り返り、運転席のパパがわたしの機嫌を取るように、ドアの横のボタンで操作して後部座席の窓を半分くらい開ける。
ざざーっという風の音とともに流れ込んできたのは、東京ではあまり感じなかった砂と磯の匂い。その匂いに鼻をつまみながら体を起こすと、わたしは無言で窓を閉めた。
窓の向こうに広がる深いブルーの海を恨めし気に見るわたしに、ママが困ったように肩をすくめる。
ママの反応を無視して、また、ごろんとシートに寝転がったわたしは、最近テレビで放送していたアニメーション映画の冒頭部分を思い出していた。
親の都合で引っ越しが決まって、新しい家へと移動する車の中でずっとふてくされてる主人公。
あのときは、ただなんとなく見てたけど……。今なら、あの子の気持ちがめちゃくちゃよくわかる。
親の都合に振り回されるのは、いっつも子どもなんだ。
速水 真凛、この春、中学2年生。わたしは今、両親に無言の抗議中である。
パパとママにしかめっ面で反抗しているうちに、車は細い道へと入っていく。それからしばらくして、パパが車を止めた。
「真凛、着いたよ」
パパとママが、わたしに声をかけて車を降りる。車が止まっていたのは、壁の色がはがれたぼろい民宿の前だった。
『たいようの家』
民宿の看板には、そんな文字が書かれている。
だけど、太陽なんて明るい言葉のイメージとはうらはらに。民宿の周りは、さびれてしーんとしていた。
「ここが、今日からお世話になる民宿よ」
にっこりと笑いかけてくるママに、わたしは顔をひきつらせた。
こんなところ、冗談じゃない……!
思わずそんな言葉が喉まで出かかったとき、『たいようの家』から人が出てきた。
「航一、ゆり子さん、いらっしゃい」
パパとママの名前を呼びながら歩み寄ってきたその男の人は、背が高くて、小麦色に日焼けしている。
パパと同じ年のはずだけど、若く見えるし、目元も涼やかでかっこいい。こんな人がパパだったら、参観日や運動会でちょっとクラスメートたちの目を引くだろうなって雰囲気だ。
別にイケメン好きってわけでもないけど、ちょっと観察していたら、その男の人がこっちを振り向いた。
「真凛ちゃんだよね。ひさしぶり。大きくなったね」
男の人が、わたしを見て懐かしそうに目を細める。
どうやら、男の人のほうはわたしを知っているらしい。わたしは、全然覚えがないけれど。
不審げに見ていたら、パパがわたしの肩に手をのせた。
「真凛、この人がパパの友達の芹沢太一。この、たいようの家のオーナーだよ。真凛は覚えてないと思うけど、小さいときに会ったことがあるんだ」
「ふーん」
「真凛ちゃん、来てくれてありがとう。これから、よろしくね」
太一さんが、にこりと爽やかに笑いかけてくる。
わたしは「よろしく」なんて、ぜんっぜんしたくないけど……。
パパとママの手前、いやいや、「どうも」と軽く頭を下げた。
「真凛、もっとちゃんとあいさつしなさい。ごめんなさい。最近反抗期で……」
ママが太一さんに申し訳なさそうな顔を向けながら、わたしに注意してくる。ふいっと顔をそむけると、ママは「もう……!」と、眉根を寄せた。
「はは。気にしないで、ゆり子さん。うちも似たようなものだから」
「太一さんのとこは、男の子ばかりだから大変よね」
「まあ……、そうかな。立ち話もなんだし、中に入ってよ。ちょうどお昼用意したところで、子どもたちも食堂に集まってるから。あ、荷物は? 運ぶの手伝う」
「助かる」
太一さんが車の後ろに周って、パパたちと荷物をおろしている間、わたしは『たいようの家』の周りをあらためてゆっくりと見回した。
近くに隣り合う家やマンションはなく、さっき通ってきた海沿いの道よりも少し高い場所に建っている『たいようの家』からは、海岸が見おろせる。
昨日まで住んでいた東京のマンションの周りには、大きなビルが立ち並び、近くにはコンビニやショッピングモールがあって。近くには電車も走っていた。
だけど――。ここにはなにもない。
あるのは、見た目のぼろい民宿と、空と海。それだけ。
わたし、これからほんとうにここで暮らすの――?
服やコスメや、可愛い雑貨を買いに行ける店は近くにあるのかな……。
本屋は? コンビニは? 美味しいスイーツが食べられるお店は?
太陽の光に反射してチカチカ光る海を見つめながら軽く絶望していると、ママに呼ばれた。
「真凛ー、早くおいで」
外に突っ立ってても、仕方ない。
わたしはため息を吐くと、民宿のドアを開けて待っているママのほうに歩み寄った。
お客さん用の大きな靴箱がある玄関で靴を脱いで、太一さんが出してくれた緑のスリッパに履き替える。
上のところに消えかけた金の文字で『たいようの家』って書いてあるスリッパは、つま先部分のビニールの革が破れかかっていた。
玄関から入ってすぐのロビーには、謎の模様の入ったエンジ色の絨毯が敷かれていて。民宿の外観ほどはぼろくないけど、壁に飾られてる絵や写真、内装が全体的に古臭い。
今はまだ4月になったばかりで、海に遊びに来るには時期が早いのか。それとも、わたし達が来るから今日は定休日なのかはわからないけど……。宿泊のお客さんがいるような気配はない。
だけど、もしわたしが旅行で泊まるところを探すお客さんの立場だったら……。たとえ夏でも、こんな古そうな民宿は選ばないと思う。
「俺たちが生活スペースに使ってるのは本館の横の離れ。一階に共同の食堂やお風呂があって、二階と三階が部屋になってる。二階の部屋はうちの子どもたちに占拠されてるから、航一たちは三階を自由に使って。トイレは各階にあるよ」
先頭に立った太一さんが、説明しながらわたし達を案内してくれる。
離れは、たいようの家の本館から渡り廊下でつながっていて。わたし達は、これから生活することになる部屋へと案内された。
離れの三階には、トイレと小さめの洗面所と個室が三部屋。多少の大小はあるけど、全て和室。
どの部屋からも、ちょっとカビ臭い畳の匂いがしている。わたしが顔をしかめて立っていると、
「真凛は、どこの部屋にする?」
とママに聞かれた。