人生においての“初めて”は、
大人になっても色褪せることのない記憶として一生残ると思っていた。
小学三年生の時に経験した初めての引越し、初めての転校、そして初めての恋のときめきは。
高校生になった今も、鮮明に覚えているから。
きっと、これから訪れるであろう、初めてのキスの瞬間もまた。
思い出の一頁に深く刻まれるものだと信じている。
だから、大事な大事な、一生に一度しか経験できないファーストキスは。
自分が自分じゃなくなるくらいに大好きな人と。
見つめ合い、心を通わせて、幸福感に包まれながらいたしたい。
それが鞠の、子供の頃からの憧れであり夢だった。
カンカンカンカン……
ガタンガタンガタン……
線路の上を電車が勢いよく通過していき、踏切の警報音が止むと通行人と車を通せんぼしていた遮断桿が、ゆっくりと上がった。
通学通勤時間真っ只中の、お日様と緑の匂いが混じる空気が心地良い春空の下。
人々は忙しなく歩き出し、次の電車通過までの間に急いで車も行き交う。
その流れに合わせて線路を横断し駅に向かうのは、真新しい制服を身に纏った一人の女子高生。
紺のブレザーと首元には紅色リボン。
グレーのチェック柄スカートは校則違反のないよう膝丈を守るも、小走りするたびにふわりと揺れる。
(急げ急げー!)
一週間前に滝谷高校の生徒となった、三石鞠、十五歳は。
胸の内にずっとひた隠しにしていた恋心を抱えながら、そのお相手と同じ高校に通える喜びを噛み締めていた。
始まったばかりの高校生活と、少し大人へ近づいた自分にも期待は高まるが。
何より、好きな人とのファーストキスを子供の頃から夢見ていた鞠は。
近々、その恋のお相手に告白したいと思うようになっていた。
改札口を通過して駅のホームにたどり着くと、先に電車を待っていた長身の背中がすぐに見つけられた。
「北斗!」
「鞠、間に合ったな」
「うん、少し走ったけど……」
遺伝なのか、はたまた中学の時にバスケを始めたからなのか。
人混みから頭一つ飛び出たその長身は誰よりも目立ち、短髪も顔立ちも爽やかで。
学生鞄とは別に大きなスポーツバッグを肩から下げる、いかにも体育系な外見の西原北斗。
彼は鞠が小学三年生の時に転校してきて以降、ずっと一緒に過ごしている近所の幼馴染。
加えて、鞠が恋心に気づいてからの三年間、ずっと想い続けているお相手でもある。
「お前、しっかりしてそうに見えて朝弱いもんな」
「う、今日はたまたまだから」
「いつか遅刻するに一票」
「そんなの投じないで……」
会話を交わすだけで、二人の仲の良さは周囲の誰もが気づく。
一週間前、親同伴で入学式を済ませたばかりの二人は、少しずつ高校生活に慣れ始めていた。
新一年生の部活動はまだ本格的に開始された時期ではない中、
北斗はバスケ部への仮入部届を先週末に提出していて、体が鈍らないようにと放課後特別に練習参加している。
そして鞠は明日のHRで決める事になる委員会への所属を悩んでいた。
加えて、残念ながら北斗と別々のクラスになった事に、少し焦りを覚えている最中だ。
中学の後半から一気に背が伸びて男らしく成長した北斗は、地元では元気な少年のイメージが根強くても。
高校の中では、もしかしてモテる部類なのでは?と心配せずにはいられなくなった。
ただ、鞠の恋心には全く勘づきもしない上に、新クラスで楽しく過ごす鈍感な男の子でもある。
おまけに部活に忙しいし、男女隔てなく付き合える精神。
そんな性格をイライラ、ハラハラせずに付き合える女の子はきっと、少ないとも考えた。
なのに入学から一週間経って気付いた。
最近の北斗が以前より、浮かれているような、幸せそうな雰囲気を纏うようになっていたから。
“いつも通り”の中にもそんな空気を醸し出して雑談する横顔を眺めながら、鞠が少し寂しい瞳を見せた時。
突然、北斗が人づてで聞いた話を切り出す。
「そういや鞠のクラスにイケメン俳優いるってほんと?」
「え? いや、いないけど」
「あれ? でもクラスの奴がそんな話を」
「……俳優のようなイケメン、ならいる」
「それだ!」
拳を手のひらに打ち付けて北斗が納得を示すと、
高校方面に向かう電車がホームに到着して、突風を起こし肩まで伸びた鞠の髪を勢いよく揺らした。
会話は一旦休み。定位置に停まった電車のドアが開くと下車する人を待った。
しかしそれはごく少人数で、鞠と北斗のように乗り込む人の方が断然多い。
さすがは上り電車。座席は既に埋まっており、鞠と北斗は吊り革を掴み並んで立っていた。
「毎日同じ混み具合だね」
「まあ、五駅先の学校まで耐えるしかないな」
「結構腕疲れるんだよ」
「で? その俳優のようなイケメンは鞠的にどうなの?」
「え! どうってどういうこと⁉︎」
さらりと話を戻された上、探りを入れてきた北斗の質問に、鞠の心臓がドキリと鳴った。
ミーハーな話や、鞠の恋の話なんて積極的にしてきたことがないのに。
今日の北斗は何だか、他人の恋愛に興味を持っているような話しぶりだった。
「好きなタイプだとか、恋愛に発展する予感ねぇの?」
「な、ないよそんなの……」
「えーせっかくの高校生ライフなのに?」
鞠が好きなのは昔から北斗なのに、こんな台詞を平気な顔して胸に突き刺してくる。
何となく自分は、ただの幼馴染であることには気づいていた。
でもそれを少しでも脱したくて、近々告白をしようと決意したばかり。
「……それに新くん、常に誰かと一緒にいるし」
「まさか女子?」
「まあ、たまにクラスの男子も混じってるけど」
「もう下の名前で呼んでんの?」
「それはみんながそう呼ぶからつい、本人の前では苗字だよ」
教室では男女グループで固まっているのをよく見るけど、その中心には決まって新がいる。
そして廊下を歩いている時に、珍しく単独行動をしてると思いきや。
後ろをついてくる女子が日替わりで必ずいたりする。
入学早々、既に人気者の新に近づくなんてこと自体、平凡な鞠には縁のないこと。
それに、幼馴染の北斗以上に心を許せる異性なんていないし、と視線を落として自分の恋の行く末を案じた。
「でもほら、鞠の願望」
「え?」
「“好きな人とのファーストキス”が遂に、高校で叶うかもしれないじゃん?」
好きな人は目の前の北斗なのだから、夢見るファーストキスの条件は北斗が相手となることだ。
それを知らずに、幼馴染である鞠の願望が叶うことを応援してくれる北斗に対して。
「はは、どうかなー?」
ガタンゴトンと揺れる車内で、そう返事をするのが精一杯だった。
それから別の高校へ進学した同級生の話や、部活の話をしているうちに。
滝谷高校前の駅に到着した二人は、電車を降りて徒歩五分の校舎に到着した。
「じゃあな鞠、頑張れよ」
「北斗もね」
生徒玄関で北斗と別れた鞠は、また一日が始まって間もないはずなのに疲れを感じていた。
鈍感な北斗の無神経な質問に苦しまされ、無理に微笑んでいた表情筋が既に怠い。
全ては自分がさっさと告白しなかったから。
それも痛いほどわかっているが、フラれた時のことを考えると慎重になるのも仕方ない。
しかし、鞠の“好きな人とのファーストキス”を叶えるためには。
北斗とそういう行為が許される関係にならなくてはいけないから。
ファーストキスはもちろん憧れている。
でも決して誰でも良いわけじゃない。
自分が心から“大好き”だと思えた男の子としか、この願望は叶わないのだ。
まずは告白方法を念入りに考えなくては、とやる気を呼び起こした鞠が急いで上履きを履いていると。
背後を通った生徒の腕に手が当たってしまった。
「ごめんなさ……⁉︎」
「おはよ、鞠ちゃん」
「お、はよ……一条くん」
振り向いて謝罪した相手があの“俳優のようなイケメン”こと、一条新だっただけで、
鞠の心臓は口から飛び出る勢いだ。
挨拶を交わして直ぐに通り過ぎていく新の背中を見つめながら、
電車内で交わした北斗との会話を訂正する。
(一条くんが一人でいるところ、初めて見た)
常に取り巻きがいて、入学してから一度も話したことがなかった。
そんな新と一週間経った今、やっと一言挨拶を交わした事に妙な感動を覚えた鞠は。
(なんていうか、街中で芸能人を発見した感覚……)
未だ心臓の鼓動がやや早い鞠は、深呼吸をしたのち。
教室へと向かって歩きながら入学当時のことを思い出していた。
* * *
入学式を終えた翌日。
新クラスとなった教室に緊張しながら足を踏み入れる鞠。
既に半分ほどの生徒が登校しており、雑談している者もいれば一人黙々と本を読んだりスマホを操作する者もいた。
(HR始まったらスマホは使っちゃダメなんだっけ……)
中学では持ち込み不可だったスマホが、今はブレザーのポケットの中にしっかり収まっている。
新しい校則にも慣れていかなちゃ!と思いながら、鞠が黒板に目を向けると。
出席番号順の座席表が貼り出されていた。
(やった窓側! けど一番前かぁ〜)
最初のうちは大体こんなもんだと、三石に生まれた宿命と思って机に鞄を置いた。
そしてちらりと教室全体を眺めてみると、知り合いが全然いない事にもため息を漏らす。
幼馴染の北斗の他にも同じ中学出身の生徒はいたはず。
なのに見事に配分されてしまって、入学早々話せる人がクラスの中にいない鞠は。
(友達……できるかな)
北斗への告白だけに留まらず、そんな悩みも浮上してしまう。
椅子に腰を下ろし、友達はどうやってできるんだっけ?と不安に駆られた表情をしたその時。
ガラッ
(へ……?)
一人の男子生徒が一組のドアを開け、悠々と教室に入ってきたのが見えた。
切れ長で黒目がくっきりとした瞳に、鼻筋の通った繊細かつ綺麗な顔立ち。
艶やかな黒髪マッシュが微かにさらりと揺れ、一瞬にして視線を奪われるクラスの女子達。
もちろん、鞠もその内の一人となってしまったが、ハッと我に返って前を向き直す。
自分は北斗が好きなのに、初めて見る究極のイケメンについ目を奪われてしまったと反省した。
しかし――。
(いや、あんな芸能人みたいなオーラを放つイケメンがいたら、仕方ないよね……)
不可抗力であることを自分の中で強調しながらも、強い印象を受けた彼を控えめに目で追ってしまう。
すると、黒板に貼り出されていた座席表を確認した“俳優のようなイケメン”は、
鞠とは真逆の廊下側の一番前席に鞄を置いた。