「ねえ、菊川さん」
「はい、何でしょう」

その夜、宣言通り朱里のいる和室と襖一枚隔てたところで菊川が寝ることになった。

なかなか寝つけない朱里が話し出す。

「菊川さん。私、どんどん瑛が遠い所に行ってしまうような気がするんです」

天井を見上げながら、朱里は当てもなく話を続ける。

「前はもっと、何も考えずに普通にしゃべったりふざけたり出来たのに…。最近は瑛が私に壁を作っているような気がして、なんだか寂しくて。私は、瑛と聖美さんが結婚したあとも二人と仲良くしていきたいけど、だめなのかなあ」

菊川の返事はない。
あまりに静まり返ったままで、もしや菊川は寝てしまったのかと朱里は声をかける。

「菊川さん?寝ちゃいましたか?」
「いえ、起きています」
「え?あ、そう」

だがやはりそれ以上の返事はない。

朱里がしょんぼりとため息をついた時、ようやく菊川の声がした。

「朱里さん。私の勝手な想像かもしれませんが…」
「え?いえ、どうぞ」

先を促すと、菊川はもう一度考えてから話し出す。

「朱里さんを遠くに感じているのは、瑛さんの方だと思います」
「え?どうして?」
「瑛さんにとって、普通に話が出来る親友は朱里さんだけです。でも朱里さんは違う。大学に行けば他の親友もいるし、カルテットの素晴らしい仲間もいる。皆さんと息を揃えて演奏する朱里さんの輝くような姿を見て、瑛さんは朱里さんが自分の手の届かない所にいるような気がしたのではないでしょうか。自分とは住む世界が違うと。そしてその頃、聖美さんに会うことを決められたのです」

あっ…と朱里は思い出す。

確かにそうだ。
カルテットの演奏会の数日後、皆で食事をしている時に急に瑛が聖美に会うと言い出したのだった。

「瑛さんは、自分のせいで朱里さんが危険な目に遭うことにも、とても心を痛めています。この屋敷に泥棒が入った時も、そして今日、聖美さんをかばって朱里さんが怪我をされたことも」
「そんな…。それは瑛のせいじゃないでしょう?」
「ですが、もし朱里さんが自分の隣人でなければ。もし朱里さんが、自分の友人でなければ。朱里さんは危険な目に遭わずに済んだのにと、己を責めていらっしゃるのだと思います」

先ほど真剣な表情で、俺に関わるなと言った瑛の言葉を思い出す。

朱里は、胸にやるせなさが込み上げてきた。

「菊川さん。私、瑛を救いたい。瑛を縛りつけているものから、瑛を開放してあげたい。そして何の心配もなく、聖美さんと穏やかな日々が過ごせるようにしてあげたい。親友として、助けてあげたいんです。どうすればいいですか?」
「難しいですね。私も同じように考えていますが、答えは出ません。ですが…」

そして菊川は、また言うべきかどうか悩み出す。

「なあに?」

朱里は先を促した。

「朱里さん、これは勝手な私の思い込みだと聞き流してくださいね」

そう前置きしてから話し出す。

「瑛さんは、朱里さんが誰かと結ばれることを望んでいらっしゃいます。朱里さんには、穏やかで幸せな生活を送って欲しいと。ですが私は、瑛さんが本当に望んでいることはその事ではないと思うのです。そして実際に朱里さんがそうなれば、少なからず瑛さんは苦しむことになると。瑛さんの本当の幸せは、瑛さんが自分の気持ちに正直に向き合わない限り、手に入れることは出来ません」

ですから、と最後に菊川は付け加える。

「どんなに私や朱里さんが助けたいと思っても、無理なのです。瑛さん自身が、自分の幸せが何かに気づかない限り」

朱里は言葉を失う。
瑛自身が自分の幸せに気づくには…

「菊川さん。瑛は考えるでしょうか?自分の幸せが何かを」
「いいえ。少なくとも今は、自分の気持ちすら考えようとしていません。本当はどうしたいのか、自分は何を望んでいるのか、本心から目を背けていらっしゃいます」
「そんな…」

朱里はもはや絶望的な気持ちになった。

「瑛…」

どうしてこうなってしまったのだろう。
どうすればいいのだろう。
自分に出来ることはないのだろうか。

朱里は悶々と眠れない夜を過ごした。