憧れのCEOは一途女子を愛でる

 店を出た私はすぐさま伊地知部長に電話を入れ、急いで本社に戻った。
 部長も外出していたのだけれど、私とほぼ同時に帰社したので、あらためて今回の件について詳しく報告をした。

「怪我人が出なくてよかったわね」

「本当にすみませんでした。始末書を書きます」

「始末書は……そうね、そのほうがいいかな。私も書こうか」

 部長は力のない笑みを浮かべて小さく溜め息をついた。
 私がしでかしたことなのに、直属の上司というだけで部長を巻き込んでしまって心が痛い。

「社長からも電話が来たのよ。偶然あの場に居合わせたんだって?」

「はい」

「香椎さんが思い詰めそうだって心配してたわ」

 社長のやさしい笑みを思い浮かべた途端、じわりと目に涙がにじんだ。
 だけど泣いてはダメだ。社会人なのだから、きちんと仕事で挽回しなければ。

「あそこの動線は私も気になっていたし、香椎さんだけの責任じゃないからね」

 部長から思いやりのこもった言葉をもらった私は、意気消沈しながら自分のデスクに戻った。
 するとすぐに氷室くんが私のそばまで来て声をかけてくれた。

「本店は部長と香椎が担当だけど、俺にできることがあったら手伝うよ。なんでも言ってくれ」

「ありがとう」

 氷室くんは本当に気さくだし、この部署では先輩だからに頼りになる。
 私は両手でパンッと自分の頬を軽く叩き、本店の店内写真やレイアウトの図を見ながら対策を考えた。
 気付けばとっくに定時を過ぎていて、ほかの社員が続々と退勤していき、店舗運営部には私と伊地知部長だけになる。

「こんなことだと思った」

 部長がお手洗いのために席を外し、私がひとりでパソコンのキーボードを叩いているところに突然社長が現れて、思わず目を見開いた。
 社長はコーヒーショップでテイクアウトしてきたコーヒーを両手に持っていて、ひとつを私のデスクの上にそっと置く。

「お、お疲れ様です! あの……コーヒー……」

「お疲れさま。それは差し入れ。まだ帰っていない気がして」

「お気遣いいただきありがとうございます。今、始末書を書いていました」

 椅子から立ち上がったものの、すぐ隣までやってきた社長に会釈をしたまま顔を上げられないでいた。
 社長はきっといつものようにまっすぐな視線を投げかけてくれているはずだから緊張する。

「伊地知さんもまだいるの?」

 部長のデスクの上が片付いていない様子に気付き、社長がもうひとつのコーヒーをそこへ置いた。

「はい。席を外されてますけど」

「始末書は書かなくていいって伝えたんだけどな」

 その言葉を聞いた私は小刻みに首を横に振った。
 実際にあの場にいた社長がそう判断したのかもしれないが、だからといって甘えるわけにはいかない。伊地知部長もそんな私の気持ちを汲み取ってくれたのだと思う。

「今日のことは単なるアクシデントでは済まされないです。きちんと始末書を提出して自分への戒めにします」

「わかった。でも……あまり思い詰めないでほしい。君は責任感が強いし、本当によくがんばってるよ」

 慈愛に満ちたやさしい声が聞こえてきて、涙腺が一気に崩壊しそうになる。
 だけど泣いてはいけないと自分に言い聞かせ、なんとか涙がこぼれ落ちるのだけは回避した。

「ありがとうございます」

 うつむいていた顔を上げると、目力のある社長の瞳と視線がぶつかる。
 こんなときでも胸がドキドキするなんて、私は本当にどうかしている。

「あのお客様と君は友達?」

「違います」

 即座に否定をした私に、社長はもっと驚くかと思ったけれど、意外にも静かにうなずくだけだった。

「以前に彼女に言われたんです。……友達ではないと。大学は同じでしたが、卒業の少し前から完全に交流は途絶えました」

「そうか」

「……信じてくれるんですか?」

 私の主張は百合菜とは真逆だから、どちらかがウソをついているのは明白なのに、社長はとまどうことなく私の言葉を受け入れてくれた。それがうれしくて再び涙目になってしまう。

「当然だろ。俺は君を信じる」

「社長……」

「そんな顔をされたら抱きしめたくなるけど、会社の中じゃ無理だな」

 困ったようにふわりと笑う顔も、やっぱり綺麗でキラキラとまぶしい。
 社長の瞳の中に私が映っている。それだけで充分に幸せを感じた。
 だけどひとつだけどうしても気がかりなことがある。

 ――百合菜の表の顔には騙されないでほしい。

***

 ゴルフウェアの展示の件は翌週末まで検討を重ねた。
 同じ部署の社員にも意見を聞きつつ伊地知部長と相談した結果、レインウェアの展示と場所を入れ替える方向で進めることになった。

「うん、これでいいと思う。香椎さん、お疲れ様」

「みなさんに助けていただいたおかげです」

 部長のデスクのそばでパソコン画面を覗き込み、ホッとしながら頭を下げた。何度も会議を重ねたので、これで今回の問題は解決できると思う。
 吉井店長には先に部長のほうから電話で話をしてくれるそうだ。

「よかったら今夜、ご飯に行くのに付き合ってくれない?」

「はい」

 部長がにっこりと微笑むのを見て、きっと私を励ますつもりなのだろうと想像がついた。
 彼女は以前から部下へのフォローを忘れない人だから。

 定時になり、デスクの上を片付けた私たちはふたりで会社を出た。
 訪れた場所は、会社の最寄り駅からほど近くにあるオシャレな和食ダイニングのお店だ。
 全席個室になっている空間は和モダンで雰囲気がよく、お刺身や旬野菜の天ぷらなどの料理が絶品で、部長が気に入っていて私も昔からよく連れてきてもらっている。

「乾杯しましょ」

「お疲れ様です」

 細くて背の高いピルスナーグラスに注がれたビールが届き、軽くグラスを合わせた。
 グラスを持つ部長の細くて長い指が美しいなと見惚れてしまう。

「遠慮なく食べてね」

「ありがとうございます」

 続けてすぐにお刺身の三種盛りが運ばれてきて、部長が「このイカがおいしいのよ」と勧めてくれた。

「反省は忘れちゃいけないけど、落ち込むのは今日で最後にしよう」

「すみません」

「まぁ、そこも香椎さんらしいんだけどね。なんにでも一生懸命で真面目だもの」

 仕事をする上で一生懸命なのは当たり前だから、自分では特に褒められることではないと思っている。
 真面目と言ってくれた部分だって、深く落ち込みすぎるのは欠点のような気がしてならない。

「実は私、あのお客様と知り合いなんです。大学を卒業する直前にいろいろあって……正直に言うと二度と会いたくなかった人だから気持ちが沈んでいました」

「そうだったの」

「それと、彼女は対応してくれた神谷社長に対して興味を示していた気がします。恋愛では奔放な女性なので、自分勝手に社長に近づいて振り回すかもと考えたらすごく嫌で……怖くて……」

 そのあたりは社長からなにも聞いていなかったようで、部長はあご元に手をやりながら静かに耳を傾けてくれた。

「社長のことが心配?」

「……はい」

「あら、素直ね。かわいげのない私とは大違い」

 肩までの髪を耳にかけながらフフフと自虐的に笑う部長に対し、私はうなずけなくて小首をかしげた。

「部長は私みたいに不器用じゃないし、いつもスマートで完璧じゃないですか」

「そうでもないよ。プライベートでは全然ダメ。特に恋愛に関しては」

 思い返してみると、入社以来私は部下としてずっと一緒にいるのに、部長のプライベートについてはあまり知らない。
 独身でひとり暮らしをしていて仕事ひとすじ、あとは……酒豪で和食が好き。そのあたりは知っていても、恋愛事情については聞いたことがない。今は恋人はいないみたいだけれど。

「こんな私でも五年前には恋人がいたのよ」

 部長はずいぶんと控えめな言い方をしたが、大人っぽくて素敵な部長を好きになる男性はたくさんいると思う。だから過去に恋人がいたと聞いてもまったく驚かなかった。

「なんであんな人を好きになったのか自分でも不思議なくらいダメな男だった」

「そうなんですか?」

「付き合ってからは私の家によく遊びに来てたんだけど、そのうちお金を貸してほしいって言うようになってね……。最初は一万円、それが三万円になり、五万円に増えていった」

 初めて聞く部長の恋愛話なのに、なんだかこの時点で嫌な予感しかしてこない。私は下唇をギュッと噛みながら真剣に耳を傾けた。

「私もバカでね、言われるがままに何度も貸していたのよ。というか、返してもらってないから貸していたんじゃなくて“渡していた”が正解かな」

「お金の用途は……?」

「仕事を辞めて就活中だから必要だって話だったけど、本当のところはわからない。ほかの女に貢いでたかもしれないよね」

 当時の部長がどれだけ傷ついたかを想像したら、悲しくなって鼻の奥がツンとしてきた。
 どんなに無心されても渡さないほうがいいと、部長も絶対に気付いていたはずだ。だけど断ったら恋人が離れていきそうで怖かったのかもしれない。

「ずっと不安でたまらなかった。この人と私は、お金だけで繋がっている関係なのかなって考えたりしてさ……」

 ケースは違うけれど、見たくないものに蓋をして気付かないふりをしていたあの日の自分と重なった。
 部長もこのとき、純粋な愛情だけで結ばれているわけではないと心のどこかできっとわかっていたのだ。でも認めたくなくて、信じたい気持ちが強かったのだと思う。

「悩んでるときに五十嵐くんに飲みに誘われたの」

「専務に……」

「そのときベロベロに酔って恋人の愚痴を言っちゃったのよ。私は都合のいいATMじゃないぞー、とか」

 酒豪の部長が酔うなんて、どれだけの量のお酒を飲んだのか想像もつかない。そこまで精神的に追い詰められていたのだろうか。

「その発言がきっかけで、私がお金を渡してるって知った五十嵐くんが本気でキレちゃったのよ」

「え、本当ですか?」

 専務はいつも快活なイメージだけれど、私は会社で見聞きする人柄しか知らないから、さすがにこれには驚いて目をむいた。専務が短気な性格だとは到底思えない。

「先輩なにやってるんですか! って怒られ、あきれられて……情けなかった。けどね、そこからが大変だったの」

「大変?」

「その日、五十嵐くんがマンションまで送ってくれたんだけど、お金を無心しに来た彼と玄関前で鉢合わせしちゃってね。五十嵐くん、彼の胸ぐらを掴んで放さなくて……」

 部長の言葉通りだとすれば、修羅場になっているシーンしか思い浮かんでこない。
 警察を呼ぶような事態になったのではないかと嫌な展開にまで考えが及んだ。

「今すぐ金を返せ、二度と彼女に近づくな、って凄みの効いた太い声で言ったら、彼は即座にうなずいて逃げ帰ったの。それから連絡が途絶えて音信不通」

「……うわぁ」

「私としては、好きだから別れないって彼が断言しなかったのがショックだった。それ以降待っていても連絡がないし、結局愛されてなかったんだって思い知って現実を受け入れたの」


 話を聞いていたらつらい気持ちが伝染して、胸がいっぱいになった。
 当時の部長は恋人から愛されていると信じていたい反面、冷静に考えれば考えるほど疑う気持ちが湧いていたのかもしれない。
 そして、専務はグラグラとして不安定な部長を放っておけなかったのだろう。
 恋は盲目と言うけれど、光が見えないどころか進む道さえ存在しないような恋愛はやめるように、専務が引導を渡して目を覚まさせたのだ。

「そんなことがあったんですね」

「ね? 笑っちゃうくらい全然ダメでしょ? だから未だに五十嵐くんには頭が上がらないの」

「ちなみに、貸したお金のほうは……?」

 言葉にしたあとで余計な質問だったと気付き、部長に対してすみませんと軽く頭を下げる。すると部長は笑みをたたえながら小さく首を横に振った。

「当然戻ってこない。その件は五十嵐くんも気にしてたんだけど、お金を渡した私も悪いから。もういいの」

 予想通りの答えが返ってきて、どれだけつらい思いをしたのか私にも痛いほど伝わった。
 五年の月日が経っているとはいえ、部長の心は大丈夫だろうかと心配になってしまう。

「そのあとしばらくして、ジニアールに来ないかって誘われたのよ。先輩が変な男に引っかからないように俺が見張ります、だって」

 専務はただ単にやさしいのではなくて、先輩後輩という関係以上に部長を大切に思っているのだ。

「五十嵐くんね、ひどいのよ。仕事に集中してください、とか言って無茶な仕事をたくさん振ってきてね。絶対にドSだわ」

「部長が落ち込む暇もないようにと、専務の思いやりですね」

 部長もそこは当然わかっていて、本気でひどい扱いをされたとは感じていないようだ。笑顔で話しているから、ドSだなどと口にしたのはジョークだろう。
 専務としては失恋を早く忘れて立ち直ってもらいたい、その一心だったはず。

「そろそろ次の恋がしたいなぁ。香椎さんは? 社長と真凛さんの熱愛報道を知ったときにすごく悲しそうな顔をしていたし、さっき言ってた知人の件もそうだし……自分の気持ちに気付いてる?」

 伏せ目がちにうつむいていた顔を上げて素直にうなずいた。
 そういえば彩羽にも指摘されたなと思い出し、周りから見れば私はわかりやすく顔や態度に出ているのかと考えたら恥ずかしさが込み上げてくる。

「社長は私たち社員が一生懸命に仕事に取り組む姿勢をよく見てくれていますから。本当に素敵な人で、関われば関わるほどどんどん惹かれていく自分がいます」

 本心を言葉にした途端、まずいとばかりにテーブルに額がくっつきそうなほど頭をもたげた。

「私、なにを言ってるんでしょうね。身の程知らずなのはわかってるんですけど」

「不釣り合いだ、って臆してるんだとしたら違うからね。その恋心はぜひ大事にしてほしいな」

 部長がやさしく声をかけてくれて、心が慰められるのを感じた。
 ずっと片思いだろうけれど、それでもあきらめずに好きなままでいてもいいのかな。

 この気持ちを今すぐ封印することはできそうにないのだから――――