憧れのCEOは一途女子を愛でる

「冴実の元カレ、また恋人と別れたらしいよ」

 仕事が終わったあと、久しぶりに彩羽と食事をしに来たら、どうでもいいけどと前置きをしながら彼女が急に加那太の話題を出した。
 彩羽は加那太の友達と今でも交流があるので、時折彼の情報が自然と耳に入ってくるらしい。

 彩羽が“また”と口にしたのは、加那太と百合菜は社会人になってからすぐに別れたからだ。今の話は、そのあとに出来た恋人のことだろう。
 私は食後に注文したアイスティーの氷をストローでくるくるとかき混ぜながら「ふぅん」と軽く相槌を打った。
 ちなみに私が加那太と会ったのはフレンチレストランで食事をした日が最後で、以降連絡は一度も取っていない。

「今回はなんで別れたの?」

「それが……彼女にほかに好きな人ができて、加那太くんがフラれたみたい」

 百合菜との交際のときも、加那太がフラれたのだと噂で聞いた。
 ふたりになにがあったかは私にわかる由もないけれど、どうやらうまくはいかなかったようだ。

「ざまあみろだよ。冴実を都合のいい女扱いして傷つけたことを私はまだ許してないからね」

「ありがとう。でももう昔の話だし、私も幼かったから」

「草食なふりして肉食だったのよ。ただの女好き。だからって、彼女の友達に手を出すなんて最低だわ。……ああ、百合菜は友達じゃなかったんだっけ」

 彩羽が腹立たしいとばかりに顔をしかめる。
 恋愛は自分ひとりががんばってもダメだと、私は加那太と付き合って思い知った。
 見たくないものに蓋をして気付かないふりをすると、いずれ限界が来ることも。
 あのとき冷静でいられたら、最初から加那太が私に本気ではないと感じ取れていたかもしれないし、二股にも気付けていたかもしれない。

 一般的に男性が浮気をする理由は、寂しさとか彼女からの愛情表現不足もあるけれど、結局は相手に不満があるからなのだとこの前読んだ雑誌に書いてあった。
 加那太は男だから、キスより先に進まない奥手な私に相当不満が募っていたのだろう。

 そんなふうに考えを巡らせていると、テーブルに置いていたスマホがメッセージの着信を告げた。
 画面に表示された“神谷朝陽”の名前を目にした途端、自動的に鼓動が速まっていく。

『今日は家族で外で食事をした。懐石料理だったんだけど、じいさんが今度は君と一緒に来たいって言ってたよ』

 メッセージにそう書かれていたので、『お疲れ様です。私も今日は友人と食事をしていました。家に帰ったら祖父を通じて話があるかもしれないですね』と返信の文章を打ち込む。

「ねぇ、冴実……彼氏できた?」

 正面に座る彩羽からニヤニヤとした笑みを向けられ、私はあわててブンブンと首を横に振る。

「できてないよ!」

「じゃあ今のは誰? すごくときめいてるみたいだけど?」

「そ、そんなことは……」

「顔が真っ赤」

 指摘をされてすぐに頬に手を当ててみたら驚くほど熱くなっていて、あわててパタパタと両手で顔に風を送る。
 自分がこれほど正直に顔に出るタイプだとは今まで気付いていなかった。

「彼氏じゃないとしても、冴実に好きな人ができてよかった」

 ホッとしたとばかりに微笑みながら胸をなでおろす彩羽を見て、私もクスリと笑みをこぼす。
 彼女は加那太にフラれて傷心したままの私をずっと案じてくれていたのだろう。

「ところでどこで知り合ったの? 会社の人?」

「そうなんだけど……実はね、社長なんだ」

「え! あのイケメン社長?」

 私が入社する前、神谷社長がインタビューを受けて掲載されたビジネス雑誌を彩羽に見せたことがある。
 雑誌の写真がとてもイケメンに写っていたから、彼女の頭の中にも強く印象に残っていたようだ。
 私は彩羽に、どうして社長とメッセージのやり取りをする関係になったのか、祖父同士が以前から友人だったことも含めてすべて話して聞かせた。

「意外なところに縁って落ちているものなんだね」

 腕組みをしながら感心したように聞き入る彩羽に対し、私は首をかしげた。

「縁があったって、私には手が届かない人だから……無理だよね」

「冴実が勇気を出して手を伸ばそうとしていないだけで、届くかもしれないよ。というか、もう好きになってるんじゃないの?」

 彩羽にそう言われ、私は社長を本気で好きにならないようにずっと気持ちを抑えていたけれど、すでに手遅れになっていると気付いた。
 社長からのメッセージひとつで胸が躍る。うれしくてたまらないのは、恋をしているからだ。

「全力で恋をするのが怖いの。私には軽い恋愛は無理だから、絶対にまた一生懸命になっちゃうし」

 私は加那太との恋愛がトラウマになり、それからずっと新しい恋をしようとは思えなかった。
 また誰かを好きなって、ひとりで空回りしてしまわないかと恐れる気持ちが根強く残っている。

「冴実はさ、全力になる相手を間違えただけだよ。一途なのは悪いことじゃない」

「そう言ってもらえると救われる」

「臆病にならずに、素直になってほしい」

 彩羽の言葉に苦笑いしながらうなずく。よく考え、しっかりと自分の気持ちと向き合おうと思った。
***

 本店の照明工事が終わるまで落ち着かないので、伊地知部長と私の歓迎会は延期にしてもらっていたのだけれど、週末の金曜である今夜それが行われることになった。
 店舗運営部は部長を含めて十名おり、男性が六名、女性が四名で構成されている。部長と私のために今日は全員参加してくれるそうだ。
 ちなみに幹事は氷室くんで、会社の近くにある大手チェーンの居酒屋の座敷席を予約してくれたらしいので、仕事を終えた私たちは全員でぞろぞろと歩いて向かった。

「乾杯~!」

 それぞれ頼んだ飲み物が到着したところで、氷室くんが音頭を取ってグラスを合わせた。
 私の左隣に座った伊地知部長が「労働のあとのビールはおいしいわね」と言いながら、いきなりジョッキの中身を半分くらい空けている。
 実は彼女はなかなかの酒豪で、泥酔した姿を私は今まで見たことがない。

「部長、お疲れ様です。香椎、飲んでるか?」

 しばらくすると氷室くんが私たちの正面に座って話しかけてきた。私とは同期なのに、彼がこんなに社交的で周りに目を配れるタイプだとは知らなかった。

「氷室くん、香椎さんはそんなにお酒が強くないから勧めすぎないでね」

 私が自己申告する前に、部長が氷室くんに忠告してくれた。
氷室くんはそれを聞き、先手を打たれたとばかりに口をへの字に曲げておどけている。

「じゃあ、酒は控えめにして、たくさん食べろよ」

 そう言うが早いか、氷室くんが唐揚げをふたつ私の取り皿に乗せる。

「この唐揚げ、衣がカリカリしているからおいしいね。今度家で作ってみようかな」

「香椎って料理が得意なの?」

「いろいろチャレンジして作るのが好きなだけ」

 加那太のために作っていたときは私の腕前もまだ未熟で、パスタやオムライスなど簡単なメニューばかりだったけれど、今ではタンドリーチキンやブイヤベースなど、洒落た料理も作れるようになった。
 
「いいよなぁ、料理上手だとモテるだろ」

「モテないよ。家族以外の誰かに振る舞う機会はないから」

 私が家で料理を作るのは、母に家事を全部押し付けたくないからで、要するに自立のためだ。
 家庭的なアピールをして男性の気を引きたいというあざとい考えは微塵もない。

「食べる係なら俺に任せてくれよ。俺の家のキッチンでよければいつでも使ってくれていいし」

「なんでそうなるのよ」

 氷室くんは酔いが回ってきたのか、いつも以上に饒舌だ。
 私と彼のやり取りを聞いていた伊地知部長がテーブルに頬杖をつきながらクスクスと笑っている。

「あ、そうそう。この件を部長に聞きたかったんです」

 部長に声をかけつつ私にも見える角度で、氷室くんがスマホを操作して画面をこちらに向けた。

「なに?」

「真凛の熱愛報道ですよ。相手の男って、どう見ても神谷社長じゃないですか?」

 氷室くんが見せたのは、ウェブ版の週刊誌記事に掲載されたスクープ写真だった。
 そこには夜の街を歩く男女の姿があり、女性のほうは真凛さんだとはっきりわかる角度で写っている。
 彼女の右隣にいる背の高い男性は、目元が黒く塗りつぶされているものの、氷室くんの言うように神谷社長で間違いないだろう。
 記事のタイトルも【真凛、イケメンスポンサー社長と高級焼肉デート】と書かれてある。

「ふたり、付き合ってるんですかね?」

 なにげない氷室くんの言葉がグサリと胸に刺さった。
 幸い、撮られた写真では腕を組んだり手を繋いではいないけれど、スタイルのいいふたりが並んでいるだけで絵になるし、どう見てもお似合いだ。
 
『冴実が勇気を出して手を伸ばそうとしていないだけで、届くかもしれないよ』

 ふと彩羽の助言が頭に浮かんだ。あの言葉で私にも望みがあるかもしれないと、うっかり真に受けるところだった。
 社長のお相手は真凛さんくらい華のある女性でなければ釣り合わないとわかっていたはずなのに。

「それは……デマじゃないかな」

 枝豆をつまみつつ、伊地知部長がフフフと笑う。

「え、付き合ってないんですか?」

「真実は知らないけど、違う気がする。社長の口から真凛さんの話は聞いたことがないからね」

「部長が言うと説得力がありますよ。社長や専務とは長い付き合いなんですよね?」

 伊地知部長がふたりにとって大学の先輩であることはジニアールでは周知されている。
 愛想笑いをしながら、部長は氷室くんに向かってコクリとうなずいた。

「私は社歴は浅いけど、あのふたりのことは十代のころから知ってる。昔は朝陽くん、五十嵐くん、って呼んでたなぁ。ふたりとも当時からイケメンだった」

 どこか遠い目をしながら、部長が懐かしそうに話してくれた。
 社長と専務が昔から女性に人気だったのはたやすく想像できる。大学ではきっと、キャンパスに存在するだけで騒がれていたに違いない。

「いいなぁ。うらやましいっす! かわいい女の子たちと遊び放題じゃないですか」

「それがね、そうでもないのよ。朝陽くんは綺麗な顔してるからすごくモテてたけど、昔から女性関係はクリーンだしね。だからこそ今回の熱愛報道も違うと思うの。いくら相手がかわいいからって、すぐに熱を上げたりしないよ」

 あんなにかわいい真凛さんですら社長の心に響かないのだとしたら、どんな女性も無理なのではないだろうか。そう考えたら自然と私は眉根を寄せてむずかしい顔になった。
 だけど“いくら相手がかわいいからって”という言い方をしていたので、もしかしたら社長は容姿以外のほうを重視しているのかもしれない。

「もったいない。俺が社長みたいなイケメンに生まれてたら、女の子をとっかえひっかえして遊びまくりますけどね。一日でいいから顔を交換してほしいくらいですよ!」

 腕組みをして力説をする氷室くんを目にして、そんな願望があるのかと思わず笑ってしまう。
 当の本人である社長は、たくさんの女性と遊びまくるようなことはしなさそうだ。

「あ、ウソ! 今のは冗談だから。本気じゃないからな!」

 なぜか氷室くんが私に向かって誤解するなとばかりにあわあわと弁解を始めた。遊び人のイメージを持たれたくないのかもしれない。

「別に氷室くんが遊んでてもいいよ。私には関係ないじゃない」

 私が静かな口調で返事をした途端、隣にいた伊地知部長がトントンと軽く机を二回叩き、アハハと大声で笑った。
 そんなにおかしなことを口にしただろうかと驚きながらふたりの様子をうかがっていたら、氷室くんは参ったとばかりにげんなりとした顔で頭を抱えていた。
 彼は酔ったのかもしれないが伊地知部長はアルコールに強いので、お酒のせいで爆笑したわけではないと思う。

「氷室くん、今のカウンターパンチは効いたね」

「部長に笑ってもらえたのが救いです」

「個人的な意見だけど、もっとわかりやすいほうがいいと思うよ。どっちなんだかよくわからない態度が一番困る」

 伊地知部長がジョッキを手にしながらアドバイスらしき言葉を贈っているけれど、私には話の内容がさっぱりわからない。
 氷室くんは若干顔を赤くしつつ納得するように小さくうなずいていた。

「結局、部長はなにについて大笑いしたんですか?」

 素朴な疑問として尋ねてみたが、部長は「いいのいいの。気にしないで」と濁して教えてはもらえなかった。
 視線を氷室くんに移すと「とにかく俺はチャラくないから」と再び力説されたので、首を縦に振っておく。

「そうだ、社長がサーフィン好きだって噂で聞いたんですけど本当ですか?」

 話を変えようとしてなのか、氷室くんがわざとらしく人差し指を立ててつつ部長に質問をした。

「それは半分当たってる。専務がサーフィン好きなのよ。社長は専務に誘われて一緒に行ってるんだと思う」

 社長の趣味はソロキャンプだと辰巳さんから聞いていたから、サーフィンのイメージはなかった。
 社長がサーフボードを持って浜辺を歩く姿はさぞかしカッコいいのだろうな、と頭の中で想像してみる。
 もしかしたらマリンスポーツもウインタースポーツも、なんでもできるすごい人なのかもしれない。

「専務もかなりモテそうですよね。でも浮いた話を聞かないのはなんでですかね? 社交的だから女の子が群がりそうなのに」

「さぁ、なんでだろうね」

 氷室くんがするのと同じように部長はおどけて首を捻っていたけれど、本当はなにか知っているような気がした。
 だけど本人のいないところで勝手にペラペラと喋るわけにいかないので誤魔化しているのだろう。

「ちなみに部長の好みのタイプってどんな男ですか?」

 めげずに前傾姿勢で尋ねる氷室くんを見て、部長は盛大にあきれた顔をする。

「それってさ、本当に聞きたい相手は私じゃなくて香椎さんでしょ? 遠回りしないで直球でいきなさいよ」

 そう言われ、氷室くんは苦笑いをしてしばし固まっていたものの、私のほうへゆっくりと視線を移した。
 部長はというと、「ごめん、はっきり言いすぎた」と氷室くんに向かって軽い調子で謝っている。