まるで俺が一目惚れをしたかのような言い方だ。だけど「それはない」とは言えなかった。
よく働いてくれそうだとか真面目そうだという正当な理由のほかに、無意識に惹かれた部分があったのかもしれない。例えば、女性として魅力的だ、とか。
「で、おじいさん同士も友達だったわけだし……こういうのってさ、なんて言うか知ってる?」
俺が無言のまま表情だけで話の続きを促すと、朔也はこちらを見ながら茶目っ気たっぷりに右手の人差し指を立てた。
「運命の出会い」
朔也の性格は知り尽くしていると思い込んでいたけれど、こんなにもロマンチストな部分を持ち合わせているのだと改めてわかり少々驚いた。
自慢げに言い切る朔也に、恥ずかしげもなくという意味を込めてクスクス笑ったものの、そのとおりだなと内心では腑に落ちていた。
「朔也、お前はどうなの?」
「なにが?」
「決着つけなくていいのか?」
今まで機嫌よく笑みをたたえていた朔也が、俺が問いかけた途端に顔を引きつらせて黙り込んだ。自身の恋愛話になると朔也はいつもこうだ。
「このままでいいんだよ。俺は脈なしだからな。期待するのはとっくに辞めた」
「前から思ってたけど、さすがに消極的すぎないか?」
第三者の俺から見ると、ただ単に告白のきっかけを失っているだけのような気がする。出会ってから現在までの年月が長いせいだ。
今まではっきりと聞いてはこなかったけれど、俺はずいぶん昔から朔也の中にある秘めた恋心に気付いていた。
なぜか朔也は大学を卒業したあとに別の女性と交際を始めたことがあったが、長くは続かなかった。忘れらない女性が心の中にいるのだから当然の結末だ。
モテるくせに実は一途で、ずっとひとりの女性だけに愛情を注いでいる。両思いになれる相手と付き合えばいいのに、ほかの人ではダメなのだろう。
本当に本気で好きなのだなと確信をしたのは五年前だった。失恋をしてボロボロになっていた伊地知さんを、朔也は必死に支えようとしていた。
それは後輩としてではなく、ひとりの男として伊地知さんを心から愛しているのだと主張しているように見て取れた。
だけど五年の月日が経った現在も、ふたりの関係は一向に進展していない。朔也は“脈なし”だと言ったが、そんなわけはないのに。
「伊地知さんはさ、俺なんか好きじゃない。だってお前のことは朝陽くんって呼ぶのに、俺はいつまで経っても“五十嵐くん”だぞ? 下の名前すら呼んでもらえないんだ」
「……は?」
何年もずっとそのことを気にしていたのかと思うと、仰天して変な声が出た。
コミュニケーション能力が高い朔也なら、下の名前で呼んでほしいとすぐに本人に言いそうなものだけれど、相手が意中の伊地知さんだとそうもいかなかったのだろうか。
「それ、もしかしたら朔也が思ってるのと逆の意味かもしれないぞ」
「逆って?」
「俺は伊地知さんがお前と距離を取ろうとしてるとは思えない。名字で呼ぶ理由は、下の名前で呼ぶと照れるからじゃないか?」
伊地知さんは俺に対しては恋愛感情が一切ないから、ナチュラルに下の名前で呼べるのだろう。
逆に朔也のことは異性として意識しているからうまく呼べないだけだと思う。伊地知さんの性格を考えたらそうに決まっている。
「いい加減、自分の気持ちを伝えろよ。伊地知さんにも、答えを用意しておいてほしいって言っといたぞ」
「マジで?!」
それはやりすぎだとばかりに朔也が目を見開いて驚いている。
伊地知さんだって長年俺たちと一緒にいるのだから、朔也の気持ちに気付かないわけがない。
朔也が三歳の年の差を埋めようとして、先輩の伊地知さんに対して徐々に敬語を使わずに話すようになったことも。
もしかしたら伊地知さんは、朔也がはっきりと告白してくるのを待っているのかもしれない。
だとしたら、わかりにくいアプローチでは絶対にダメだ。
「もし答えがノーだったら……伊地知さんはこの会社を辞めるかな?」
うつむいて頭を抱える朔也に、俺は首を横に振った。
「それはない。あの伊地知さんだぞ?」
もし告白を断ったとしてもふたりの仲が険悪になることはないだろう。だいたい、俺は朔也がフラれるとは思っていない。
「とにかく全力で行けよ。どうせ告白するなら指輪を用意してプロポーズしてみるのはどうだ?」
「アホか。無理に決まってるだろ。キスもしてない相手にいきなりプロポーズするなんて愚行でしかない」
俺の言葉に即座に突っ込む朔也がおかしくて、ついアハハと声に出して笑ってしまった。
だけど本人にとっては笑いごとではないようで、どうしたものかと顔をしかめて考え込んでいる。
俺としては心を許せる親友と先輩が付き合って、幸せになってほしい……ただそれだけだ。
「俺が言うのもなんだけど、朝陽だってちゃんと行動しなきゃ後悔する羽目になるぞ」
「わかってるよ」
氷室も香椎さんに気があるらしいと伊地知さんから聞いているし、美しい川のほとりでキスを交わしたとはいえ、悠長に構えてはいられない。
彼女を逃すわけにはいない。この世でたったひとりの、運命の相手なのだから――――
***
一週間の始まりである月曜日、会社で何度も集中力を欠きながらも、なんとか一日の業務を終えた。
私がぼんやりとしている理由は土曜日のあのことに起因している。
キャンピングカーに乗せてもらい、社長と綺麗な川のほとりで過ごして……そのあとキスをされたから。
なにが起こったのか、二日経った今でも私はよくわかっていない。
考えても答えは出ないのに、あの出来事が頭から離れなくて、今日はずっとぼうっとしがちだった。
集中できないなら早めに仕事を切り上げるほうがいい。そう判断して急ぎではない仕事は明日に回した。
こんなにも仕事が手に付かないのは初めてだ。気を抜くとすぐに眉目秀麗な社長の顔が頭に浮かんでくる。
特にあのときの社長は全身から色気があふれ出ていて、私はすっかり骨抜きにされてしまった。
今思い出してもドキドキと鼓動が早まる。一階に向かうエレベーターの機内で自分の唇にそっと触れ、誰もいないのをいいことに悶えそうになった。
もしかしたら都合のいい夢でも見たのだろうか。
たとえそうなのだとしても、胸がキュンとして最高に幸せだったのだからそれでもいいとすら思えてくる。
「香椎!」
会社の外に出ようとしたらロビーで後ろから名前を呼ばれ、振り返ると氷室くんが走り寄ってくるのが見えた。
「お疲れ様。氷室くんももう帰るの?」
「ああ。香椎こそ今日は上がるのが早いな。というか顔が赤いけどどうした? 体調悪い?」
指摘を受けた私は即座に自分の両頬に手をやり、「大丈夫」と言いつつふるふると首を横に振った。
顔が赤い原因はおとといのキスシーンを回想していたせいだ。その自覚があるため、恥ずかしくて氷室くんの顔をまともに見られなくなった。
「元気ならよかったよ。心配してたんだ」
「え?」
「始末書の件で落ち込んでただろ?」
氷室くんがやわらかい笑みを浮かべて私の顔色をうかがう。
気遣いができてやさしい人だなと感心しながら「ご心配をおかけしました」と返事をした。
「なぁ、今から飲みに行かないか? 本当は先週の金曜に誘おうと思ってたんだけど、伊地知部長に先を越された」
「私はお酒はあんまり飲めないから……」
「駅の向こう側に新しくできた焼き鳥の店、うまいらしいよ」
お酒が弱い私が相手では楽しめないだろう。それならほかの同僚も誘って何人かで行ったほうがいい。
「ふたりでだと氷室くんはつまんないでしょ。うちの部署、誰かまだ残ってたよね。声をかけてこようか」
「香椎」
踵を返してオフィスに戻ろうとしたら、氷室くんが私の手首を掴んで引き留めた。
行かなくていいという意味なのはわかったけれど、彼の表情は真剣そのもので、不自然にピンと張り詰めていた。
「つまらなくない。飲みに誘ったのだって口実だから」
「口実?」
「俺、香椎に話がある」
彼はなにか悩みごとを抱えていて私に相談したかったのだと気付いたら、自分の勘の悪さがほとほと嫌になった。
いつも氷室くんには仕事で助けてもらっているのだから、きちんと彼の話を聞いてあげたい。
「いろいろ作戦を練っても香椎に逃げられたら意味がないから……もうここで言う」
「ちょ、ちょっと待って。ここではまずいよ」
どうして早く話してしまわないと私が逃げると思っているのかはわからないけれど、この場で暴露しようとする氷室くんの腕を引っ張ってロビーの隅に移動した。
話の内容が会社や仕事に対する不満なのだとしたら、ほかの誰かに聞かれるのはまずい気がしたから、せめて人目につきにくいところでと私なりに気を利かせたのだ。
「ちゃんと聞くよ。逃げたりしない」
「そっか。よかった」
「私たち同期だし、なんでも言って?」
神妙な面持ちでかしこまる氷室くんの顔を下から見上げると、フイッと視線を逸らされた。
なぜかそのあとみるみるうちに彼の顔が真っ赤に染まっていく。
「無意識なんだろうけど、そういうことするなよ。調子が狂う」
「ごめんなさい」
彼がなにか言おうとしていたタイミングで邪魔をしてしまったのかもしれない。
小さく謝ると、氷室くんは顔をしかめながら右手で口元を覆っていた。
「好きな女から上目遣いなんかされたら心臓がもたないって」
「……え、好き?」
「そう。俺は香椎が好き。いつ告白しようか迷ってた」
予想外の話の展開にビックリして、口を半開きにしたまま固まってしまった。
てっきり仕事に関して悩みがあるのだと思っていたけれど、彼がしたかった話というのは私へ気持ちを伝えることだったのだ。
「なんでも言っていいんだろ? ていうか、ずっとアピールしてたけど気付かなかった?」
「……私って鈍いよね」
氷室くんは頼りになる同期で、社交的で、とても気さくな人柄だ。
それは誰に対しても等しく同じだと思っていた。なのに私にだけ特別な気持ちがあったとは……。
「俺と付き合ってほしいんだけど」
「氷室くん、ありがとう。でも……」
「うわぁ、その先は聞きたくないな。さすがにもうちょっと考えてよ」
私がどんな答えを出すのか、氷室くんは先読みできてしまったようだ。
それ以上言うなとばかりに両手を前に突き出してストップのジェスチャーをしている。
申し訳ない気持ちになって、いったん視線を足元に下げたものの、私は意を決して顔を上げた。
「氷室くんはやさしくていい人だよ。でも私は重い恋愛しかできない女で、めんどくさいの」
「それでもいいって言ったら?」
「ごめん。ダメなの。私の心の中には、ほかの人がいるから」
誠意を示したくて、きちんと彼の目を見て真剣に伝えた。
すると氷室くんは観念したように大きな溜め息を吐き、フフッと笑みをこぼす。
「謝らなくていいよ。フラれるだろうなってわかってた」
「氷室くん……」
「香椎は好きな男とうまくいけばいいな」
やっぱり氷室くんはやさしい人だ。最後まで嫌な言葉はひとつも口にせず、逆に私の幸せを願ってくれた。
そんな氷室くんがこの先の未来で、私よりもずっと素敵な女性と出会って幸せになれるように心から祈ろうと思う。
氷室くんとはその後も同期の同僚としてギクシャクせずに接することができている。
普通に話してくれているのは本当にありがたいし、氷室くんの人間性というか器の大きさを感じた。
そうして迎えた週末の日曜、夏用の新しい洋服がほしくなった私はひとりでショッピングモールへ出かけた。
近くにデパートがあるから、最後に地下の食品売り場に寄って夕飯のおかずを買って帰るつもりだ。
オシャレな洋服がたくさん揃っている店に足を踏み入れると、すぐに綺麗なサテンのスカートに目がいく。
ベーシックなアイボリー色だが、形が広がりすぎないセミフレアだから私の好みだ。
手に取って触ってみたところ、ギラギラとした安っぽい光沢はなくて落ち着いた風合いだった。
自分に似合うかどうかたしかめたくてスタッフの人に試着したいと伝えると、快く試着室に案内してくれた。
「あ、かわいいかも」
試着室でひとりごとを言いつつ、サイズもピッタリだったので購入を決めた。
この店はトップスもいろいろと置いてあるし、今度は彩羽を誘って一緒に買いにきてもいいかもしれない。
心をウキウキと弾ませながらその店を出て、今度は向かいにあったコスメショップの前で立ち止まる。
新発売のシートパックが大々的に展示されていて、試しに買ってみてもいいなと手に取ってパッケージを眺めていたら、バッグの中でスマホが鳴っているのに気が付いた。その場を離れて画面を確認すると、かけてきたのは母だった。
「もしもし?」
「冴実! やっと出た!」
「ごめん。買い物に夢中だった」
どうやら母は何度か電話してきていたようだが、先ほどの店のBGMが大きかったのもあって着信にはまったく気付かなかった。
しかし何度もかけてくるなんて、なにか緊急で買って帰るものでもできたのだろうか。このときはまだ、そんなふうにのん気に構えていた。
「どこにいるの?!」
「ショッピングモールの中」
「今から言う病院にすぐに来て。おじいちゃんが碁会所で倒れて、救急車で運ばれたの!」
母の言葉を聞いて頭が一瞬で真っ白になり、手にしていたスマホをうっかり落としそうになった。
祖父とは今朝リビングで会ったけれど、そのときは普段通り元気だったのにいったいなにがあったのだろう。
「倒れたって、どうして?」
「急にみぞおちのあたりが差し込むって言って、そのあと吐血したらしいわ」
口から血を吐いたシーンを想像したら怖くなって、途端に身体がブルブルと震えてきた。祖父のことが心配でたまらない。
「お母さんは病院に着いたから、今から先生に病状を聞いてくる。冴実も早く来てね」
そう言うが早いか、母は病院の名前を告げて電話を切ってしまった。
私は聞いた病院名をスマホで検索し、ショッピングモールを出たところに停車していたタクシーに乗り込んだ。
あらためて確認してみると、母のスマホからは十分おきに着信と【電話に出て】というメッセージが三件ずつ入っていた。
電話に出られなかったことが悔やまれてならない。すぐに知らせを受けていたら、もっと早く病院に駆けつけられたのに。
小刻みに震える左手を押さえるように、右手を重ねてギュッと力を込める。
吐血したと聞いてからずっと身体の震えが止まらない。祖父にもしものことがあったらどうしようと、最悪な考えまで浮かんできてしまった。
タクシーを降りた私は救急外来用の入口から病院内に入り、通りかかった看護師の女性にあわてながら祖父の居場所を尋ねた。
「落ち着いてくださいね。先ほど救急車で運ばれてきた方なら、今は点滴室にいらっしゃいますよ」