○ある暗い路地裏(夕方)
制服を着崩し、眼鏡を胸ポケットに入れている藍生に壁に押し付けられる梨穂。
そのまま藍生に顎を掴まれて強引に視線を合わせられる。
藍生「……この事、誰にも言うなよ。」
そう言って不敵に笑い、意地悪そうな瞳をする藍生。
そんな彼に梨穂は瞬きを繰り返す。
梨穂(これ、一体どういう状況……!?)
○学校(朝)
雀が鳴く中、梨穂は大きなため息を吐いた。
梨穂(はぁ……。昨日のは何だったの……。)
心の中でそう思いながら、ぼんやり昨日の出来事を思い出す。
梨穂(昨日は確か、学校から帰るのが遅くなって……。)
(回想)
暗い道、小さな路地からドンッという鈍い音が聞こえる。
梨穂(ん? 何だろ……。)
不思議に感じた梨穂は思わず、その路地を覗き込む。
途端、見慣れた背中が。
梨穂(あの人って……もしかして、華僑君?)
梨穂が思い描く藍生は、眼鏡をしていてきちんと制服を着こなしている。
温厚で怒る事もない、生真面目そうな男子。
梨穂(でも今の華僑君は……いつもの華僑君じゃない、よね。)
暗い中街灯に照らされる藍生の制服には、血みたいなものがこびりついている。
その藍生が不意に、梨穂のほうへと向く。
梨穂(! バレたっ……!)
まずい、と焦るもすぐに藍生に手を引かれる。
そしてぐっと、近くの壁に押し付けられる。
周りには小さな呻き声をあげるも、動かない人が。
藍生「どっから見てたの? 君、同じクラスの三住梨穂さんだよね?」
梨穂「あ、えと……」
梨穂(何で私のこと知ってるの……!?)
あからさまに口ごもった梨穂に、藍生はふっと笑みを浮かべる。
藍生「……この事、誰にも言うなよ。」
さぁぁっと、血の気が引いている梨穂。
梨穂(……まずい事になった気がする。)
(回想終了)
梨穂(これからどうやっても華僑君と顔を合わせれば……。)
梨穂はうーんと、ぐるぐる頭を悩ませる。
梨穂(あの時は『ごめんなさい!』って言うだけ言って逃げてきちゃったし、もしかするとあっちも私だって分かっていないかもしれない。)
そこまで考えた時、梨穂はポンッと手を打った。
梨穂(そうじゃん! あっちが私のことを覚えてなければ、きっと大丈夫なはず! というよりもあの人が華僑君だって確証はないわけだし……。)
考えていく内に、顔に生気が戻っていく。
よしっ!と意気込む梨穂に、次の瞬間声をかけた人物が。
音羽「おっはよー、梨穂!」
梨穂「音羽ちゃんおはようっ。」
ポニーテールを揺らし、勢いよく梨穂の背中を叩く人物……こと、西日音羽。
音羽は梨穂の親友であり、姉御肌でリーダーシップがある女子。
音羽は、いつもよりも落ち込んでいる梨穂に首を傾げた。
音羽「梨穂どったの? 何か今日様子変だよ?」
梨穂「へっ? そ、そんな事ないよ……!」
音羽「えぇ~、怪しい~。」
梨穂「ほ、ほんとに何もないよっ? 音羽ちゃんの気のせいじゃないかな……あはは。」
梨穂(ごめんね音羽ちゃん……例え音羽ちゃんでも、昨日の事を言うわけにはいかないの。だってもし、言ったら……)
藍生『誰にも言うなって言ったのにさぁ……どう落とし前付けてくれるわけ?』
梨穂は想像で、自分が藍生にボコボコにされるイメージを巡らせる。
それだけで血の気が引く思いになる。
梨穂(そんなの、すっごく怖すぎる……! 華僑君だって確証はないにしろ、そう簡単に言えるものじゃない……。)
梨穂は一人そんな想像をして、ぶるっと身を震わせた。
○教室(朝)
梨穂(あ……華僑君……。)
音羽と一緒に教室へと入り、横目で藍生を見る梨穂。
今の藍生は昨日とは全く違い、どこからどう見ても優しい優等生だ。
梨穂(やっぱり華僑君と昨日の人が同一人物なわけないよね……。流石に私の考えすぎか。)
意地でも信じたくない梨穂はそう思うようにして、自分の席に着く。
男子生徒「おーい藍生ー、宿題写させてくれ! 頼む!」
藍生「えー、自分でやってきなよ。そうじゃないと力、つかないよ?」
男子生徒「そこを何とか……! 今回の宿題出さないと留年って脅されてんの俺……!」
藍生「そこまで出してないの? まぁ、仕方ないなぁ……今回限りだよ?」
男子生徒「えっ、マジ!? さんきゅー藍生!」
頬杖をつきながら、梨穂はその会話を盗み聞く。
梨穂(うん、絶対違うよね。華僑君は誰にでも優しいし、頭が良くて秀才だし、人当たりもいい。そんな人なんだから、昨日喧嘩してた人と同一人物なんて事はないよね……。)
優しい柔らかな笑みを浮かべている藍生からは、喧嘩するようなオーラは出ていない。
その時、視線が梨穂とバッチリ合った。
梨穂(わ、視線が合ってしまった……!)
そう思いすぐ逸らそうとするも、藍生はニコッと笑顔を浮かべた。
人懐っこい、可愛らしい笑み。
その姿がどこか梨穂の愛犬ポメラニアン、コムギに似ていてズキュンと心臓が撃ち抜かれる。
梨穂(あんなに可愛い華僑君なんだから、絶対絶対違う人だ! 絶対に!)
何度も絶対という言葉を繰り返し、一人でうんうん頷く。
その直後、キーンコーンカーンコーンとホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。
担任「おーいお前らー、さっさと席つけー。」
緩い担任の声に、クラスメイトが一斉に自分の席へと戻る。
梨穂も頬杖をやめ、担任のほうへと視線を向けた。
梨穂(今日の授業、好きな教科ばかりだから楽しみっ……!)
梨穂は呑気にそんな事を考える。
藍生「……もう一回口止め、しとくか。」
藍生がぽつりと、誰にも聞こえない声量で呟いた事に気付かずに。
○昼休憩
四限の授業が終わり、お弁当を持って梨穂の元へ駆けてくる音羽。
音羽「りーほー、一緒にご飯食べよ~。」
梨穂「うんっ。準備するねっ。」
音羽の言葉に頷きながら、梨穂もお弁当を取り出そうとする。
……その時、藍生が梨穂の元へやってきた。
藍生「三住さん、今少し大丈夫かな? ちょっと話したい事があって……。」
梨穂(え? 華僑君が私に話……?)
申し訳なさそうに眉の端を下げている藍生に、梨穂は音羽へ目で訴える。
梨穂(私、どうすればいいと思う?)
するとそれが伝わったのか、音羽は右手の親指を立ててグーサインを出した。
音羽「梨穂、あたしのことは気にしないで行ってきな。」
梨穂「あ、ありがとう音羽ちゃん……!」
梨穂(音羽ちゃんには申し訳ないけど、今はそうさせてもらおう……! 華僑君のことを無視するわけにもいかないし。)
梨穂はそう思いながら、藍生に向き直る。
梨穂「華僑君、私は大丈夫だよっ。」
藍生「それなら良かったよ。それじゃあ少し、ついてきてくれないかな? 二人きりで話したい事なんだ。」
梨穂「うん、分かったっ!」
梨穂は大きく頷き、藍生の後についていく。
この後に起こる出来事を、何も知らないまま――。
藍生に連れてこられたのは、人気がなさそうな少しくらい非常階段の近く。
藍生「ここならいいかな……。」
梨穂「……華僑君、私に話って何?」
藍生が足を止めたタイミングで、梨穂は話を切り出す。
梨穂(華僑君が私を呼ぶ理由って、一体何なんだろう……。)
何も予想がつかないまま、梨穂は静かに藍生の返答を待つ。
だけども藍生は、何も話そうとはしない。
梨穂に背を向け、何を考えているかが読み取れない。
梨穂(……華僑君、どうしたんだろう。)
不審に思い、もう一度尋ねてみようと口を開きかける梨穂。
けれど遮るように、藍生は振り返った。
藍生「昨日の事……覚えてる?」
梨穂「! ……な、何の事? わ、私には分からないなぁ~……あはは。」
梨穂(まさかのそれの事!? すっかり忘れてた……。)
藍生への疑惑が朝一番に晴れたからか、梨穂は昨日の出来事を今まで忘れてしまっていた。
誤魔化すように、梨穂は乾いた笑みを零す。
でも藍生は何かを確信しているように、眼鏡を外した。
それと同時に髪をかき上げ、妖艶な笑みを浮かべる。
藍生「これでも、分からないって言い張るつもり?」
梨穂「……っ。」
藍生「見てたよね、昨日の俺。」
突き刺さるような冷たい視線が、梨穂を刺す。
梨穂(どうしよう……これって、正直に言ったほうがいいのかな……?)
梨穂は言おうか言わないかの間で、意識が揺れていた。
だけどどっちに踏んでも、命はないのだと悟っていた。
梨穂(私、これから華僑君に殺されるかもしれない……。だって昨日の見たら、そうとしか思えなくなる。)
今の藍生はさっきまでの優しそうで温厚な優等生とは一変、ガラの悪そうな不良になっている。
梨穂はその事に驚きながらも、一歩後ずさった。
……けれども、藍生は距離を詰めてくる。
梨穂(う……怖い、怖すぎるよ華僑君……。さっきまでの可愛いポメラニアン華僑君はどこに行ったの!)
そう言いたくなるも、それすらも言えない状況なのは分かっている。
目の前の藍生は梨穂がこの世で見た何よりも怖く、心臓が嫌な音を立てている。
藍生「ねぇ、どうなの。」
梨穂「わ、私は誰にも口外してません……! なので、命だけはお許しを……!」
梨穂(何もせずに殺されるなら、とりあえず自分の無実を証明しなくては!)
そんな一心に駆られた梨穂は、ぎゅっと目を瞑って必死に抗議する。
大きな声で言ったからか、藍生はほんの一瞬拍子抜けしたような表情になる。
でも本当にほんの一瞬で、今度は一気に距離を詰めてきた。
藍生「やっぱり見てたんだね。あーあ、誰にも見られてないと思ったんだけど……手が抜けてたな。」
いつもと全く口調が違う藍生に、梨穂は恐る恐る目を開ける。
梨穂の視界には何やら考え込むような仕草をする藍生が映り、ピコンッとある案が梨穂の頭に降ってきた。
梨穂(そうだ……この間に逃げちゃえば、この状況からは逃れられる……!)
そう考えた梨穂は早速、行動に移そうと藍生にバレないように少しずつ体を動かす。
梨穂(よし……今ならいける……!)
瞬時に体を縮こまらせ、藍生から逃げようと走りかける。
……けれどそれは、いとも簡単に遮られてしまった。
藍生「何逃げようとしてんの?」
梨穂「だって今の華僑君には殺されるかもしれないと思ったから、です……!」
藍生「……三住さんって結構、正直に言うタイプなんだね。」
梨穂「ごめんなさい……!」
藍生「いや……別に謝ってほしいわけじゃないんだけど。」
梨穂の頭は回っていなかった。それもそうで、恐怖で何も考えられていないからだ。
梨穂(正直に言ってる、のでどうか命だけは……!)
もう一度心の中でそう思い、震える唇でゆっくりこう伝える。
梨穂「……私、何でもするので締める事だけは……。」
梨穂(不良さんってよく気に入らない相手を『締める』って言ってるから、私も締められるかもしれないっ……。だったら私は締められない為に、華僑君の言う事を聞いたほうが良策だろう。)
震えながらも、懇願するように言葉にする梨穂。
……その途端、藍生はふっと口角を上げた。
藍生「ねぇ、三住さん。」
梨穂「ひゃいっ……!」
藍生「三住さんは昨日の俺を見てる。それはつまり、俺の弱みだ。」
低い声、でもどこか楽しそうに言う藍生。
そして次の言葉を言う瞬間に、梨穂の左手は藍生に捕らえられてしまった。
そのまま、梨穂は近くの壁に追いやられて背中をつけてしまう。
梨穂(これ、昨日の状況と似てる……! それって、結構まずい事なんじゃ……。)
藍生「俺の弱みを握ったって事は、三住さんは俺の奴隷?」
梨穂「へっ……?」
藍生「だって、言う事聞いてくれるんでしょ?」
梨穂(た、確かにそうは言ったけど……。)
嫌な予感が梨穂を苛め、背中に悪寒が走る。
いつも察しが悪いと言われる梨穂でも、これだけは分かった。
梨穂(……もしかして私、自分で墓穴を掘ってしまった?)
冷や汗が、梨穂の額に浮かぶ。
目の前には、意地悪そうな笑みの藍生。
藍生「それならこれからは、俺の言う事聞いてね。」
目を細め、藍生は愉快そうな声色でそう言った。
梨穂はこれから自分がどうなるかを予測できずに、一瞬答えられなくなる。
梨穂(逆らったら、今度こそ殺されるかもしれない……。それだけは絶対に避けなきゃ!)
でも梨穂は総合的に考えて、大人しく首を振るしかできなかった。
そんな梨穂に藍生は満足げに微笑む。
藍生「それじゃあこれからよろしくね。――俺の奴隷さん。」
深みのある声で言われた言葉に、梨穂はこっそりこう思った。
梨穂(……私のこれからの生活、一体どうなるんだろう。)
制服を着崩し、眼鏡を胸ポケットに入れている藍生に壁に押し付けられる梨穂。
そのまま藍生に顎を掴まれて強引に視線を合わせられる。
藍生「……この事、誰にも言うなよ。」
そう言って不敵に笑い、意地悪そうな瞳をする藍生。
そんな彼に梨穂は瞬きを繰り返す。
梨穂(これ、一体どういう状況……!?)
○学校(朝)
雀が鳴く中、梨穂は大きなため息を吐いた。
梨穂(はぁ……。昨日のは何だったの……。)
心の中でそう思いながら、ぼんやり昨日の出来事を思い出す。
梨穂(昨日は確か、学校から帰るのが遅くなって……。)
(回想)
暗い道、小さな路地からドンッという鈍い音が聞こえる。
梨穂(ん? 何だろ……。)
不思議に感じた梨穂は思わず、その路地を覗き込む。
途端、見慣れた背中が。
梨穂(あの人って……もしかして、華僑君?)
梨穂が思い描く藍生は、眼鏡をしていてきちんと制服を着こなしている。
温厚で怒る事もない、生真面目そうな男子。
梨穂(でも今の華僑君は……いつもの華僑君じゃない、よね。)
暗い中街灯に照らされる藍生の制服には、血みたいなものがこびりついている。
その藍生が不意に、梨穂のほうへと向く。
梨穂(! バレたっ……!)
まずい、と焦るもすぐに藍生に手を引かれる。
そしてぐっと、近くの壁に押し付けられる。
周りには小さな呻き声をあげるも、動かない人が。
藍生「どっから見てたの? 君、同じクラスの三住梨穂さんだよね?」
梨穂「あ、えと……」
梨穂(何で私のこと知ってるの……!?)
あからさまに口ごもった梨穂に、藍生はふっと笑みを浮かべる。
藍生「……この事、誰にも言うなよ。」
さぁぁっと、血の気が引いている梨穂。
梨穂(……まずい事になった気がする。)
(回想終了)
梨穂(これからどうやっても華僑君と顔を合わせれば……。)
梨穂はうーんと、ぐるぐる頭を悩ませる。
梨穂(あの時は『ごめんなさい!』って言うだけ言って逃げてきちゃったし、もしかするとあっちも私だって分かっていないかもしれない。)
そこまで考えた時、梨穂はポンッと手を打った。
梨穂(そうじゃん! あっちが私のことを覚えてなければ、きっと大丈夫なはず! というよりもあの人が華僑君だって確証はないわけだし……。)
考えていく内に、顔に生気が戻っていく。
よしっ!と意気込む梨穂に、次の瞬間声をかけた人物が。
音羽「おっはよー、梨穂!」
梨穂「音羽ちゃんおはようっ。」
ポニーテールを揺らし、勢いよく梨穂の背中を叩く人物……こと、西日音羽。
音羽は梨穂の親友であり、姉御肌でリーダーシップがある女子。
音羽は、いつもよりも落ち込んでいる梨穂に首を傾げた。
音羽「梨穂どったの? 何か今日様子変だよ?」
梨穂「へっ? そ、そんな事ないよ……!」
音羽「えぇ~、怪しい~。」
梨穂「ほ、ほんとに何もないよっ? 音羽ちゃんの気のせいじゃないかな……あはは。」
梨穂(ごめんね音羽ちゃん……例え音羽ちゃんでも、昨日の事を言うわけにはいかないの。だってもし、言ったら……)
藍生『誰にも言うなって言ったのにさぁ……どう落とし前付けてくれるわけ?』
梨穂は想像で、自分が藍生にボコボコにされるイメージを巡らせる。
それだけで血の気が引く思いになる。
梨穂(そんなの、すっごく怖すぎる……! 華僑君だって確証はないにしろ、そう簡単に言えるものじゃない……。)
梨穂は一人そんな想像をして、ぶるっと身を震わせた。
○教室(朝)
梨穂(あ……華僑君……。)
音羽と一緒に教室へと入り、横目で藍生を見る梨穂。
今の藍生は昨日とは全く違い、どこからどう見ても優しい優等生だ。
梨穂(やっぱり華僑君と昨日の人が同一人物なわけないよね……。流石に私の考えすぎか。)
意地でも信じたくない梨穂はそう思うようにして、自分の席に着く。
男子生徒「おーい藍生ー、宿題写させてくれ! 頼む!」
藍生「えー、自分でやってきなよ。そうじゃないと力、つかないよ?」
男子生徒「そこを何とか……! 今回の宿題出さないと留年って脅されてんの俺……!」
藍生「そこまで出してないの? まぁ、仕方ないなぁ……今回限りだよ?」
男子生徒「えっ、マジ!? さんきゅー藍生!」
頬杖をつきながら、梨穂はその会話を盗み聞く。
梨穂(うん、絶対違うよね。華僑君は誰にでも優しいし、頭が良くて秀才だし、人当たりもいい。そんな人なんだから、昨日喧嘩してた人と同一人物なんて事はないよね……。)
優しい柔らかな笑みを浮かべている藍生からは、喧嘩するようなオーラは出ていない。
その時、視線が梨穂とバッチリ合った。
梨穂(わ、視線が合ってしまった……!)
そう思いすぐ逸らそうとするも、藍生はニコッと笑顔を浮かべた。
人懐っこい、可愛らしい笑み。
その姿がどこか梨穂の愛犬ポメラニアン、コムギに似ていてズキュンと心臓が撃ち抜かれる。
梨穂(あんなに可愛い華僑君なんだから、絶対絶対違う人だ! 絶対に!)
何度も絶対という言葉を繰り返し、一人でうんうん頷く。
その直後、キーンコーンカーンコーンとホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。
担任「おーいお前らー、さっさと席つけー。」
緩い担任の声に、クラスメイトが一斉に自分の席へと戻る。
梨穂も頬杖をやめ、担任のほうへと視線を向けた。
梨穂(今日の授業、好きな教科ばかりだから楽しみっ……!)
梨穂は呑気にそんな事を考える。
藍生「……もう一回口止め、しとくか。」
藍生がぽつりと、誰にも聞こえない声量で呟いた事に気付かずに。
○昼休憩
四限の授業が終わり、お弁当を持って梨穂の元へ駆けてくる音羽。
音羽「りーほー、一緒にご飯食べよ~。」
梨穂「うんっ。準備するねっ。」
音羽の言葉に頷きながら、梨穂もお弁当を取り出そうとする。
……その時、藍生が梨穂の元へやってきた。
藍生「三住さん、今少し大丈夫かな? ちょっと話したい事があって……。」
梨穂(え? 華僑君が私に話……?)
申し訳なさそうに眉の端を下げている藍生に、梨穂は音羽へ目で訴える。
梨穂(私、どうすればいいと思う?)
するとそれが伝わったのか、音羽は右手の親指を立ててグーサインを出した。
音羽「梨穂、あたしのことは気にしないで行ってきな。」
梨穂「あ、ありがとう音羽ちゃん……!」
梨穂(音羽ちゃんには申し訳ないけど、今はそうさせてもらおう……! 華僑君のことを無視するわけにもいかないし。)
梨穂はそう思いながら、藍生に向き直る。
梨穂「華僑君、私は大丈夫だよっ。」
藍生「それなら良かったよ。それじゃあ少し、ついてきてくれないかな? 二人きりで話したい事なんだ。」
梨穂「うん、分かったっ!」
梨穂は大きく頷き、藍生の後についていく。
この後に起こる出来事を、何も知らないまま――。
藍生に連れてこられたのは、人気がなさそうな少しくらい非常階段の近く。
藍生「ここならいいかな……。」
梨穂「……華僑君、私に話って何?」
藍生が足を止めたタイミングで、梨穂は話を切り出す。
梨穂(華僑君が私を呼ぶ理由って、一体何なんだろう……。)
何も予想がつかないまま、梨穂は静かに藍生の返答を待つ。
だけども藍生は、何も話そうとはしない。
梨穂に背を向け、何を考えているかが読み取れない。
梨穂(……華僑君、どうしたんだろう。)
不審に思い、もう一度尋ねてみようと口を開きかける梨穂。
けれど遮るように、藍生は振り返った。
藍生「昨日の事……覚えてる?」
梨穂「! ……な、何の事? わ、私には分からないなぁ~……あはは。」
梨穂(まさかのそれの事!? すっかり忘れてた……。)
藍生への疑惑が朝一番に晴れたからか、梨穂は昨日の出来事を今まで忘れてしまっていた。
誤魔化すように、梨穂は乾いた笑みを零す。
でも藍生は何かを確信しているように、眼鏡を外した。
それと同時に髪をかき上げ、妖艶な笑みを浮かべる。
藍生「これでも、分からないって言い張るつもり?」
梨穂「……っ。」
藍生「見てたよね、昨日の俺。」
突き刺さるような冷たい視線が、梨穂を刺す。
梨穂(どうしよう……これって、正直に言ったほうがいいのかな……?)
梨穂は言おうか言わないかの間で、意識が揺れていた。
だけどどっちに踏んでも、命はないのだと悟っていた。
梨穂(私、これから華僑君に殺されるかもしれない……。だって昨日の見たら、そうとしか思えなくなる。)
今の藍生はさっきまでの優しそうで温厚な優等生とは一変、ガラの悪そうな不良になっている。
梨穂はその事に驚きながらも、一歩後ずさった。
……けれども、藍生は距離を詰めてくる。
梨穂(う……怖い、怖すぎるよ華僑君……。さっきまでの可愛いポメラニアン華僑君はどこに行ったの!)
そう言いたくなるも、それすらも言えない状況なのは分かっている。
目の前の藍生は梨穂がこの世で見た何よりも怖く、心臓が嫌な音を立てている。
藍生「ねぇ、どうなの。」
梨穂「わ、私は誰にも口外してません……! なので、命だけはお許しを……!」
梨穂(何もせずに殺されるなら、とりあえず自分の無実を証明しなくては!)
そんな一心に駆られた梨穂は、ぎゅっと目を瞑って必死に抗議する。
大きな声で言ったからか、藍生はほんの一瞬拍子抜けしたような表情になる。
でも本当にほんの一瞬で、今度は一気に距離を詰めてきた。
藍生「やっぱり見てたんだね。あーあ、誰にも見られてないと思ったんだけど……手が抜けてたな。」
いつもと全く口調が違う藍生に、梨穂は恐る恐る目を開ける。
梨穂の視界には何やら考え込むような仕草をする藍生が映り、ピコンッとある案が梨穂の頭に降ってきた。
梨穂(そうだ……この間に逃げちゃえば、この状況からは逃れられる……!)
そう考えた梨穂は早速、行動に移そうと藍生にバレないように少しずつ体を動かす。
梨穂(よし……今ならいける……!)
瞬時に体を縮こまらせ、藍生から逃げようと走りかける。
……けれどそれは、いとも簡単に遮られてしまった。
藍生「何逃げようとしてんの?」
梨穂「だって今の華僑君には殺されるかもしれないと思ったから、です……!」
藍生「……三住さんって結構、正直に言うタイプなんだね。」
梨穂「ごめんなさい……!」
藍生「いや……別に謝ってほしいわけじゃないんだけど。」
梨穂の頭は回っていなかった。それもそうで、恐怖で何も考えられていないからだ。
梨穂(正直に言ってる、のでどうか命だけは……!)
もう一度心の中でそう思い、震える唇でゆっくりこう伝える。
梨穂「……私、何でもするので締める事だけは……。」
梨穂(不良さんってよく気に入らない相手を『締める』って言ってるから、私も締められるかもしれないっ……。だったら私は締められない為に、華僑君の言う事を聞いたほうが良策だろう。)
震えながらも、懇願するように言葉にする梨穂。
……その途端、藍生はふっと口角を上げた。
藍生「ねぇ、三住さん。」
梨穂「ひゃいっ……!」
藍生「三住さんは昨日の俺を見てる。それはつまり、俺の弱みだ。」
低い声、でもどこか楽しそうに言う藍生。
そして次の言葉を言う瞬間に、梨穂の左手は藍生に捕らえられてしまった。
そのまま、梨穂は近くの壁に追いやられて背中をつけてしまう。
梨穂(これ、昨日の状況と似てる……! それって、結構まずい事なんじゃ……。)
藍生「俺の弱みを握ったって事は、三住さんは俺の奴隷?」
梨穂「へっ……?」
藍生「だって、言う事聞いてくれるんでしょ?」
梨穂(た、確かにそうは言ったけど……。)
嫌な予感が梨穂を苛め、背中に悪寒が走る。
いつも察しが悪いと言われる梨穂でも、これだけは分かった。
梨穂(……もしかして私、自分で墓穴を掘ってしまった?)
冷や汗が、梨穂の額に浮かぶ。
目の前には、意地悪そうな笑みの藍生。
藍生「それならこれからは、俺の言う事聞いてね。」
目を細め、藍生は愉快そうな声色でそう言った。
梨穂はこれから自分がどうなるかを予測できずに、一瞬答えられなくなる。
梨穂(逆らったら、今度こそ殺されるかもしれない……。それだけは絶対に避けなきゃ!)
でも梨穂は総合的に考えて、大人しく首を振るしかできなかった。
そんな梨穂に藍生は満足げに微笑む。
藍生「それじゃあこれからよろしくね。――俺の奴隷さん。」
深みのある声で言われた言葉に、梨穂はこっそりこう思った。
梨穂(……私のこれからの生活、一体どうなるんだろう。)