○ある暗い路地裏(夕方)

 制服を着崩し、眼鏡を胸ポケットに入れている藍生に壁に押し付けられる梨穂。

 そのまま藍生に顎を掴まれて強引に視線を合わせられる。

藍生「……この事、誰にも言うなよ。」

 そう言って不敵に笑い、意地悪そうな瞳をする藍生。

 そんな彼に梨穂は瞬きを繰り返す。

梨穂(これ、一体どういう状況……!?)



○学校(朝)

 雀が鳴く中、梨穂は大きなため息を吐いた。

梨穂(はぁ……。昨日のは何だったの……。)

 心の中でそう思いながら、ぼんやり昨日の出来事を思い出す。

梨穂(昨日は確か、学校から帰るのが遅くなって……。)

(回想)

 暗い道、小さな路地からドンッという鈍い音が聞こえる。

梨穂(ん? 何だろ……。)

 不思議に感じた梨穂は思わず、その路地を覗き込む。

 途端、見慣れた背中が。

梨穂(あの人って……もしかして、華僑君?)

 梨穂が思い描く藍生は、眼鏡をしていてきちんと制服を着こなしている。

 温厚で怒る事もない、生真面目そうな男子。

梨穂(でも今の華僑君は……いつもの華僑君じゃない、よね。)

 暗い中街灯に照らされる藍生の制服には、血みたいなものがこびりついている。

 その藍生が不意に、梨穂のほうへと向く。

梨穂(! バレたっ……!)

 まずい、と焦るもすぐに藍生に手を引かれる。

 そしてぐっと、近くの壁に押し付けられる。

 周りには小さな呻き声をあげるも、動かない人が。

藍生「どっから見てたの? 君、同じクラスの三住梨穂さんだよね?」

梨穂「あ、えと……」

梨穂(何で私のこと知ってるの……!?)

 あからさまに口ごもった梨穂に、藍生はふっと笑みを浮かべる。

藍生「……この事、誰にも言うなよ。」

 さぁぁっと、血の気が引いている梨穂。

梨穂(……まずい事になった気がする。)

(回想終了)

梨穂(これからどうやっても華僑君と顔を合わせれば……。)

 梨穂はうーんと、ぐるぐる頭を悩ませる。

梨穂(あの時は『ごめんなさい!』って言うだけ言って逃げてきちゃったし、もしかするとあっちも私だって分かっていないかもしれない。)

 そこまで考えた時、梨穂はポンッと手を打った。

梨穂(そうじゃん! あっちが私のことを覚えてなければ、きっと大丈夫なはず! というよりもあの人が華僑君だって確証はないわけだし……。)

 考えていく内に、顔に生気が戻っていく。

 よしっ!と意気込む梨穂に、次の瞬間声をかけた人物が。

音羽「おっはよー、梨穂!」

梨穂「音羽ちゃんおはようっ。」

 ポニーテールを揺らし、勢いよく梨穂の背中を叩く人物……こと、西日音羽(にしびおとは)

 音羽は梨穂の親友であり、姉御肌でリーダーシップがある女子。

 音羽は、いつもよりも落ち込んでいる梨穂に首を傾げた。

音羽「梨穂どったの? 何か今日様子変だよ?」

梨穂「へっ? そ、そんな事ないよ……!」

音羽「えぇ~、怪しい~。」

梨穂「ほ、ほんとに何もないよっ? 音羽ちゃんの気のせいじゃないかな……あはは。」

梨穂(ごめんね音羽ちゃん……例え音羽ちゃんでも、昨日の事を言うわけにはいかないの。だってもし、言ったら……)

藍生『誰にも言うなって言ったのにさぁ……どう落とし前付けてくれるわけ?』

 梨穂は想像で、自分が藍生にボコボコにされるイメージを巡らせる。

 それだけで血の気が引く思いになる。

梨穂(そんなの、すっごく怖すぎる……! 華僑君だって確証はないにしろ、そう簡単に言えるものじゃない……。)

 梨穂は一人そんな想像をして、ぶるっと身を震わせた。

○教室(朝)

梨穂(あ……華僑君……。)

 音羽と一緒に教室へと入り、横目で藍生を見る梨穂。

 今の藍生は昨日とは全く違い、どこからどう見ても優しい優等生だ。

梨穂(やっぱり華僑君と昨日の人が同一人物なわけないよね……。流石に私の考えすぎか。)

 意地でも信じたくない梨穂はそう思うようにして、自分の席に着く。

男子生徒「おーい藍生ー、宿題写させてくれ! 頼む!」

藍生「えー、自分でやってきなよ。そうじゃないと力、つかないよ?」

男子生徒「そこを何とか……! 今回の宿題出さないと留年って脅されてんの俺……!」

藍生「そこまで出してないの? まぁ、仕方ないなぁ……今回限りだよ?」

男子生徒「えっ、マジ!? さんきゅー藍生!」

 頬杖をつきながら、梨穂はその会話を盗み聞く。

梨穂(うん、絶対違うよね。華僑君は誰にでも優しいし、頭が良くて秀才だし、人当たりもいい。そんな人なんだから、昨日喧嘩してた人と同一人物なんて事はないよね……。)

 優しい柔らかな笑みを浮かべている藍生からは、喧嘩するようなオーラは出ていない。

 その時、視線が梨穂とバッチリ合った。

梨穂(わ、視線が合ってしまった……!)

 そう思いすぐ逸らそうとするも、藍生はニコッと笑顔を浮かべた。

 人懐っこい、可愛らしい笑み。

 その姿がどこか梨穂の愛犬ポメラニアン、コムギに似ていてズキュンと心臓が撃ち抜かれる。

梨穂(あんなに可愛い華僑君なんだから、絶対絶対違う人だ! 絶対に!)

 何度も絶対という言葉を繰り返し、一人でうんうん頷く。

 その直後、キーンコーンカーンコーンとホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。

担任「おーいお前らー、さっさと席つけー。」

 緩い担任の声に、クラスメイトが一斉に自分の席へと戻る。

 梨穂も頬杖をやめ、担任のほうへと視線を向けた。

梨穂(今日の授業、好きな教科ばかりだから楽しみっ……!)

 梨穂は呑気にそんな事を考える。

藍生「……もう一回口止め、しとくか。」

 藍生がぽつりと、誰にも聞こえない声量で呟いた事に気付かずに。



○昼休憩

 四限の授業が終わり、お弁当を持って梨穂の元へ駆けてくる音羽。

音羽「りーほー、一緒にご飯食べよ~。」

梨穂「うんっ。準備するねっ。」

 音羽の言葉に頷きながら、梨穂もお弁当を取り出そうとする。

 ……その時、藍生が梨穂の元へやってきた。

藍生「三住さん、今少し大丈夫かな? ちょっと話したい事があって……。」

梨穂(え? 華僑君が私に話……?)

 申し訳なさそうに眉の端を下げている藍生に、梨穂は音羽へ目で訴える。

梨穂(私、どうすればいいと思う?)

 するとそれが伝わったのか、音羽は右手の親指を立ててグーサインを出した。

音羽「梨穂、あたしのことは気にしないで行ってきな。」

梨穂「あ、ありがとう音羽ちゃん……!」

梨穂(音羽ちゃんには申し訳ないけど、今はそうさせてもらおう……! 華僑君のことを無視するわけにもいかないし。)

 梨穂はそう思いながら、藍生に向き直る。

梨穂「華僑君、私は大丈夫だよっ。」

藍生「それなら良かったよ。それじゃあ少し、ついてきてくれないかな? 二人きりで話したい事なんだ。」

梨穂「うん、分かったっ!」

 梨穂は大きく頷き、藍生の後についていく。

 この後に起こる出来事を、何も知らないまま――。


 藍生に連れてこられたのは、人気がなさそうな少しくらい非常階段の近く。

藍生「ここならいいかな……。」

梨穂「……華僑君、私に話って何?」

 藍生が足を止めたタイミングで、梨穂は話を切り出す。

梨穂(華僑君が私を呼ぶ理由って、一体何なんだろう……。)

 何も予想がつかないまま、梨穂は静かに藍生の返答を待つ。

 だけども藍生は、何も話そうとはしない。

 梨穂に背を向け、何を考えているかが読み取れない。

梨穂(……華僑君、どうしたんだろう。)

 不審に思い、もう一度尋ねてみようと口を開きかける梨穂。

 けれど遮るように、藍生は振り返った。

藍生「昨日の事……覚えてる?」

梨穂「! ……な、何の事? わ、私には分からないなぁ~……あはは。」

梨穂(まさかのそれの事!? すっかり忘れてた……。)

 藍生への疑惑が朝一番に晴れたからか、梨穂は昨日の出来事を今まで忘れてしまっていた。

 誤魔化すように、梨穂は乾いた笑みを零す。

 でも藍生は何かを確信しているように、眼鏡を外した。

 それと同時に髪をかき上げ、妖艶な笑みを浮かべる。

藍生「これでも、分からないって言い張るつもり?」

梨穂「……っ。」

藍生「見てたよね、昨日の俺。」

 突き刺さるような冷たい視線が、梨穂を刺す。

梨穂(どうしよう……これって、正直に言ったほうがいいのかな……?)

 梨穂は言おうか言わないかの間で、意識が揺れていた。

 だけどどっちに踏んでも、命はないのだと悟っていた。

梨穂(私、これから華僑君に殺されるかもしれない……。だって昨日の見たら、そうとしか思えなくなる。)

 今の藍生はさっきまでの優しそうで温厚な優等生とは一変、ガラの悪そうな不良になっている。

 梨穂はその事に驚きながらも、一歩後ずさった。

 ……けれども、藍生は距離を詰めてくる。

梨穂(う……怖い、怖すぎるよ華僑君……。さっきまでの可愛いポメラニアン華僑君はどこに行ったの!)

 そう言いたくなるも、それすらも言えない状況なのは分かっている。

 目の前の藍生は梨穂がこの世で見た何よりも怖く、心臓が嫌な音を立てている。

藍生「ねぇ、どうなの。」

梨穂「わ、私は誰にも口外してません……! なので、命だけはお許しを……!」

梨穂(何もせずに殺されるなら、とりあえず自分の無実を証明しなくては!)

 そんな一心に駆られた梨穂は、ぎゅっと目を瞑って必死に抗議する。

 大きな声で言ったからか、藍生はほんの一瞬拍子抜けしたような表情になる。

 でも本当にほんの一瞬で、今度は一気に距離を詰めてきた。

藍生「やっぱり見てたんだね。あーあ、誰にも見られてないと思ったんだけど……手が抜けてたな。」

 いつもと全く口調が違う藍生に、梨穂は恐る恐る目を開ける。

 梨穂の視界には何やら考え込むような仕草をする藍生が映り、ピコンッとある案が梨穂の頭に降ってきた。

梨穂(そうだ……この間に逃げちゃえば、この状況からは逃れられる……!)

 そう考えた梨穂は早速、行動に移そうと藍生にバレないように少しずつ体を動かす。

梨穂(よし……今ならいける……!)

 瞬時に体を縮こまらせ、藍生から逃げようと走りかける。

 ……けれどそれは、いとも簡単に遮られてしまった。

藍生「何逃げようとしてんの?」

梨穂「だって今の華僑君には殺されるかもしれないと思ったから、です……!」

藍生「……三住さんって結構、正直に言うタイプなんだね。」

梨穂「ごめんなさい……!」

藍生「いや……別に謝ってほしいわけじゃないんだけど。」

 梨穂の頭は回っていなかった。それもそうで、恐怖で何も考えられていないからだ。

梨穂(正直に言ってる、のでどうか命だけは……!)

 もう一度心の中でそう思い、震える唇でゆっくりこう伝える。

梨穂「……私、何でもするので締める事だけは……。」

梨穂(不良さんってよく気に入らない相手を『締める』って言ってるから、私も締められるかもしれないっ……。だったら私は締められない為に、華僑君の言う事を聞いたほうが良策だろう。)

 震えながらも、懇願するように言葉にする梨穂。

 ……その途端、藍生はふっと口角を上げた。

藍生「ねぇ、三住さん。」

梨穂「ひゃいっ……!」

藍生「三住さんは昨日の俺を見てる。それはつまり、俺の弱みだ。」

 低い声、でもどこか楽しそうに言う藍生。

 そして次の言葉を言う瞬間に、梨穂の左手は藍生に捕らえられてしまった。

 そのまま、梨穂は近くの壁に追いやられて背中をつけてしまう。

梨穂(これ、昨日の状況と似てる……! それって、結構まずい事なんじゃ……。)

藍生「俺の弱みを握ったって事は、三住さんは俺の奴隷?」

梨穂「へっ……?」

藍生「だって、言う事聞いてくれるんでしょ?」

梨穂(た、確かにそうは言ったけど……。)

 嫌な予感が梨穂を苛め、背中に悪寒が走る。

 いつも察しが悪いと言われる梨穂でも、これだけは分かった。

梨穂(……もしかして私、自分で墓穴を掘ってしまった?)

 冷や汗が、梨穂の額に浮かぶ。

 目の前には、意地悪そうな笑みの藍生。

藍生「それならこれからは、俺の言う事聞いてね。」

 目を細め、藍生は愉快そうな声色でそう言った。

 梨穂はこれから自分がどうなるかを予測できずに、一瞬答えられなくなる。

梨穂(逆らったら、今度こそ殺されるかもしれない……。それだけは絶対に避けなきゃ!)

 でも梨穂は総合的に考えて、大人しく首を振るしかできなかった。

 そんな梨穂に藍生は満足げに微笑む。

藍生「それじゃあこれからよろしくね。――俺の奴隷さん。」

 深みのある声で言われた言葉に、梨穂はこっそりこう思った。

梨穂(……私のこれからの生活、一体どうなるんだろう。)