「そんなことないよ。いつかあなたにもお礼をさせてね」
やがて橙色の夕日が海を照らし始めた頃、ふたりはラズと別れて城下町へ戻った。
「お前がいるなんて聞いてないぞ」
騎士団でみっちりしごかれたレスターは、エステルと合流して開口一番ゼファーに文句を言う。
「心配して見に来てくれたんだって。だからそんな言い方しないであげて」
エステルがゼファーを庇うと、レスターが口を閉ざす。
ほっとしたエステルだったが、こういうときのゼファーは空気を読まない。
「人間の心配などするものか」
「細かいことは気にしないでいいの」
そう言ってから、エステルは改めてレスターと向き合う。
「いっぱい訓練した?」
「ああ、それはもう。だけど一日ちょっと教えてもらったくらいじゃだめだな。もっと時間をかけて学べば、村のみんなにも俺から伝えられるようになると思う。それでエステルに提案なんだけど」
レスターは少し悩んだ様子を見せてから言った。
「予定より滞在時間を増やしたいんだ。魔物や盗賊から村を守るためには、設備だけじゃどうしようもないだろ。戦える人数を増やすためにも、俺の方で知識と経験を手に入れたい」
それはエステルにとって願ってもない提案だった。
(なんだか今日はうまくいきすぎてる一日だなぁ)
ラズとの邂逅を思い出したエステルは、レスターの言葉にうなずく。
「お兄ちゃんがそれでいいなら。私は街で情報収集する予定だったけど、ゼファーも来てくれたし、新しいことも増えそうだから村に帰ろうと思う」
「新しいこと?」
「うん、詳しくは省略するけど……」
エステルから海での話を聞いたレスターは、当然ながら目を丸くした。
「魔物と取引? 大丈夫なのか?」
「大丈夫そうだったよ。むしろすごくよくしてくれそうで申し訳ないくらい」
「村で専用の担当者を決めたほうがいいかもしれないな。毎回、違う人とやり取りするのはそのラズさんって魔物も困るだろうし」
「うん、そうだね。ラズ以外のセイレンも来そうだったし、いっそ交易を行うための建物を作ってもいいのかも」
「冬までにまたやることが増えたな……」
エステルがレスターの言葉に深くうなずく。
「お兄ちゃんが村に戻ってくるまでに、前に作った親子丼よりもっとおいしいものを作っておくから楽しみにしてて!」
「エステルが作ってくれるならなんでもおいしいよ」
妹に向けて笑みを浮かべたレスターは、少し離れた場所で会話が終わるのを待っているゼファーのほうを見た。
「ゼファー。俺がいない間、エステルをよろしく」
ゼファーは壁にもたれて腕を組んだまま、軽く鼻を鳴らした。
「話が終わったのなら帰る」
そう言うと、ゼファーはエステルを抱き上げた。
エステルにとっては魔法で運ばれるのも、直接抱き上げられるのも変わらない。
いつものことだと慣れていたためおとなしくしていたが、その様子を見たレスターが思い切り顔をしかめた。
「エステルを抱っこしていいなんて言ってない!」
「運びやすい持ち方をしているだけだが」
「俺の妹を荷物扱いするな」
「お兄ちゃん、落ち着いて」
ゼファーの腕に座りながら、エステルが苦笑いする。
「帰ってきたらお兄ちゃんも抱っこしてね」
「今でもいいよ。おいで、エステル」
一瞬で気の抜けた笑みになったレスターが手を伸ばすも、指先がエステルに触れる前にゼファーが身を引く。
「おい」
「これ以上は時間の無駄だ」
また憤慨しているレスターを尻目に、ゼファーはエステルに視線を落とした。
「……あんまりお兄ちゃんをいじめないで」
ゼファーはエステルだけでなく、文句を言うレスターもきれいに無視した。
レスターよりひと足早く村に戻ってきたエステルは、思いついた仕事から着手を始めた。
まずはセイレンの一族との交易について村人に伝え、興味を持った者と村から送る物品の精査を行った。
海にはないものがいいだろうということで、エステルが以前フェンデルと作ったベリーの果汁を乾燥させただけの菓子や、試行錯誤の末に完成したベリーの酒が主なものとしてあがった。
ほかには石窯パンや干し肉、普段から村で食されている野菜も一応用意し、いずれやってくるラズに選んでもらう形で話が落ち着いた。
レスターがいない間、畑の世話をするのはエステルだけだ。
相変わらず成長が早すぎる作物を収穫して家に戻ると、珍しくゼファーが中にいる。
「なにしてるの?」
収穫した作物から形のいいものを選別して分けるエステルだったが、ゼファーからの返事はない。
尋ねはしたものの、特になにかをしている様子はなかった。
どうやらいつものようにエステルを観察しているようだ。
(お兄ちゃんがいないから家にいるんだったりして)
エステルの予想は正しかったらしく、その夜、ゼファーは初めてエステルとともに屋根の下で過ごした。
食事を取らず、眠る素振りも見せないが、エステルがベッドに潜り込むとなぜか枕もとまでやってくる。
「一緒に寝る?」
「いや」
「じゃあ、おしゃべりする?」
「寝ろ」
エステルは毛布の中から手を伸ばし、ゼファーの手を握った。
「眠らないで過ごすには、夜って長すぎると思う」
「慣れた」
ゼファーはエステルに手を握られたまま、彼女のほうを見ずにつぶやく。
「食事を取らずにいるのも、眠らずに過ごすのも、もう慣れた」
もう一度言うのを聞き、エステルの胸が少し痛む。
「それは……封印されていたせい?」
「そうだな」
「……そっか」
エステルにはもうなにも言えなかった。
(そういえば、封印されている間も意識があったって……)