今は魔王の手も借りたい。~転生幼女のほのぼのチートスローライフ~

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 ひと呼吸置くうちに一気にヒビが水晶全体に広がり、やがて切ないほど澄んだ音を立てて砕け散った。

 先ほどレナーテが行使した魔法のように、水晶の粒がランタンの光を反射しながらきらきらと地面にこぼれ落ちていく。

 誰もが幻想的な光景に目を奪われる中、地に落ちた水晶を踏み砕くぱきりという音がした。

「……長かった」

 五人の誰でもない声は低く、抗いがたい魅力と同時に身体の芯が凍りつくような冷たさを持っていた。

「本当に、長かった」

 封じられている間はそよりとも揺れなかった銀糸の髪が、空気をはらんでなびく。

(そんな)

 無意識にエステルはフェンデルの服をきつく握りしめていた。

(だって、このセリフは)

 命令されたわけでもないのに、幼馴染たちは一斉に後ろへ下がった。

 その存在から発せられる圧倒的な力にあてられたのか、レナーテがくずおれる。

 いつもなら真っ先にレナーテを支えるディルクも、今は動けない。

「お前たちが私を解放したのか」

 ひゅっとエステルの喉が鳴る。

(魔王が復活した)

 この状況で答えられる者などいるはずもなく、意思を強く保っていたディルクが、次にレスターが、最後まで耐えようとしていたフェンデルが糸の切れた人形のように倒れ込む。

 フェンデルの腕に抱かれていたエステルは当然地面に投げ出された。

 這いつくばったまま立ち上がることもできず、全身を恐怖と絶望に震わせながら、ついに封印から解かれた魔王ゼファーラントを見上げる。

(私はゲームの流れを変えられなかった……)

 ゼファーラントは自身を見つめるエステルに視線を向け、切れ長の目を細めた。

(もう終わりだ)

 限界を感じたエステルも仲間たちに続いて意識を失う。

 視界が完全に暗転する直前、水晶の欠片を踏む音がまた響いた。

(もうだめだって思ってたんだけどなぁ)

 結論から言うと、メイナ村も幼馴染たちもエステルの知るストーリー通りの悲劇を迎えなかった。

 椅子に座ってミルクを飲んでいたエステルは、手つかずのままのもうひとつの器を持って自身のベッドの上に座る男のもとへ持っていく。

「いらないの?」

「いらん」

 素朴な家にまったく似つかわしくないこの男こそ、封印から解放された魔王ゼファーラントである。

「お前がそういう態度だと、俺たちもどう扱えばいいかわからない」

 ぴりついた空気を漂わせて言ったのはレスターだ。

 ゼファーラントはレスターの言葉を無視して、エステルをじっと見ている。

(き、気まずい)

 エステルにだってこの状況を説明できなかった。

(あの後、気づいたら村に戻ってきてた。それで……なぜか魔王がうちにいる)

 不機嫌そうな表情をしているが、ゼファーラントから敵意は感じない。

(本当なら村は滅びてるはずなのに)

 村が滅びていないから、幼馴染たちも散り散りになっていないし、魔王が世界を滅ぼすためにどこかで力を蓄えることにもならない。

 物語はたしかにプロローグ通り進んだはずだったが、今の事態は明らかに異常だ。

「私たちを助けてくれたのはあなた……?」

 おずおずと尋ねるも、ゼファーラントはエステルに答えようとしない。

 軽く鼻を鳴らしただけで、組んでいた長い足を組み直した。

「あの……あなたは何者なの?」

 思わずエステルはそう聞いていた。

(ゼファーラントの封印が解けたから村が滅びて、溢れ出た魔力のせいで魔物が活発化して、魔物と人間が争う世界になった。だからこの人は魔王になったのに、村が無事ってことはまだ魔王じゃない? だとしたら、なに?)

 ゼファーラントはエステルを冷ややかな目で見つめると、たったひと言だけ告げた。

「借りは返した」

「えっ、借りってなに?」

 再びゼファーラントが口をつぐむ。

 さすがにエステルが焦れていると、後ろからレスターにひょいっと抱き上げられた。

「エステル、後は俺が聞いておくから。お前はみんなの様子を見てきてくれ」

「でも……」

「こいつがなにかするつもりならとっくにしてるよ」

 心を見透かされたように感じ、エステルはぎょっとする。

「なにもしないってことは、ひとまず大丈夫って判断していいと思う。俺はこいつがいつまでもエステルのベッドを占領しているのが許せない」

「それは割とどうでもいいっていうか……」

 魔王が復活し、家にいることに比べたらささいなことである。

 エステルはしばらく逡巡するも、兄に引く気がないと察して家を出て行った。



 それぞれの自宅にいた幼馴染たちと合流したエステルは、当然ながら彼らに説明を求められた。

 一番説明が欲しかったのはエステルだったから、早々にまた自宅へと戻る。

 しかしそこにいるのはレスターだけで、ゼファーラントの姿はなかった。

「お兄ちゃん、あの人は?」

「どこかに行ったよ」

「もう来ない?」

「いや、そういう感じでもなかった。……とりあえずみんな集まったし、ちょっと頭を整理しないか? お茶を淹れるよ」

 レスターが言うと、幼馴染たちは困惑した様子を見せながらも椅子に腰を下ろした。

「なあ、レスター。俺たちの身になにが起きたんだ?」

「ぜんっぜんわかんねーんだよな。ダンジョンに行ったのは夢だったのか?」

「ちょっと落ち着けって」

 手早く薬草茶の用意を始めたレスターをエステルが手伝う。

 やがて五人分の茶の用意ができた頃、椅子に座ったレスターが仲間たちをひとりずつ見回した。

「あいつの名前はゼファーラント。見てわかる通り、人間じゃない。……魔族だ」

「人型の魔族が存在するなんて信じられないわ……!」

 レナーテが蒼白になって言うのも無理はない。

 魔物の中で言語を介したり、道具を扱ったりと知能を有した存在を魔族と呼ぶ。