「ただいまぁ」

 麗娜が靴を揃えてペタペタと廊下を進むが、誰もいない三LDKは呼吸を止めたかのように静かだった。突き当たりの扉はリビングに続いている、無駄に広い空間には大人が八人は座れるであろうダイニングテーブルとL字のソファー、その前には巨大なテレビ、もちろんリモコン付きだ。

『赤羽のお店にいるから夕飯食べにいらっしゃい オモニ』

 ダイニングテーブルに置かれたメモ書きを見て不思議に感じた、徹底して日本語を使うのであればオモニではなくて母、もしくはお母さんが正しいのではないか、疑問に思うが問い詰めた事はない。

 両親は喫茶店を経営している、初めは小さな喫茶店を二人で切り盛りしていたが、突然やってきたブームで人手は足りなくなり、店も広い場所に移転した。

 売上は右肩上がりで二店舗、三店舗と事業を拡大して今では都内に十三店舗を構える人気店になった。今日は赤羽店にオモニがいるので食べに来いとの事だ、普段は千円札が二枚置いてあるだけで好きな物を麗娜と二人で買ってきて夕飯にしていた。

 ほんの昔、貧乏だったけど、狭くて汚いアパートだったけど、毎日オモニが作ってくれる料理が大好きだった。子供には辛い朝鮮料理も好んで食べた。お店が繁盛してるのは良いことだと理解はしている、忙しい二人に構ってもらえない寂しさを八歳の麗娜を差し置いて言う事は出来なかった。


「やったー、今日は聚楽だー」

 聚楽とは喫茶店の名前だ、麗娜は国籍不明の従業員が作ったオムライスが好きだった。あまり洋食が好きじゃない宣美はいつもカレーライスを食べている。

 夕飯までは時間があるので宿題に取り掛かる、放課後遊ぶような友人は中学生になってからは一人もいない。
 
 木下ってチョンらしいよ――。
 
 チョン、初めは意味が分からなかったがどうやら朝鮮人の事を彼らはチョンと呼称するらしい。チョン校から来た木下成美(きのしたなるみ)、あいつらはすぐに暴れるから気を付けろ、チョンは菌を持っているから近づくな。

 小学生のような低レベルな陰口に辟易したと同時に、こんなレベルの低い人間と友人になる必要性を感じなくなり常に一人で行動している。授業でのグループ作りや、二人一組になる時に多少不便なだけで学校生活自体にさほど支障はなかった、しかしわざわざ朝鮮小学校から私立の中学校に編入した理由が納得いかない。

 レベルの高い日本の私立で勉強した方がいい――。

 あぼじ(お父さん)の提案にオモニ(お母さん)は逆らわない、もちろん宣美も逆らわない、アボジに逆らう選択肢など存在しない文化で育ってきた。多少過剰な感もあるが日本でも似たような文化は継承されていた。

 麗娜は鼻歌まじりに外出していった、おそらくジェユンの所だろう、同じマンションの二つ下に住んでいる。

 麗娜はあまり賢くないから朝鮮学校で良いだろ――。

 両親を喜ばせようと必死に勉強してきたのが仇となった、仲間が大勢いた朝鮮学校は今と比べたら天国だ。

 朝鮮半島が日本の植民地にされたのは七十八年前の1910年、宣美が生まれるよりもずっと前の話、ハルモニ(祖母)ハラボジ(祖父)は日本にやってきた、いや、労働力として無理やり連れてこられたと言う方が正しいのだろう、安い賃金で重労働を課せられた上に母国語を話す事は禁止、日本語と文化を習い、日本のために、ひいては天皇陛下のために命を差し出すように洗脳される日々だったとハラボジは教えてくれた。

 どうして母国に戻らなかったのだろうか――。

 日本が第二次世界大戦で敗北した1945年に植民地から解放され、朝鮮人の多くは母国に帰国した。その一方でハラボジの様に日本に残る選択をした人も多くいる、残った朝鮮人同士、もしくは日本人と結婚して子供が生まれると在日朝鮮人の二世となる、それが宣美の両親、つまり宣美と麗娜は在日三世ということになる。

 朝鮮名と通名があり基本的に外では通名を使用する、どうしてそんな面倒な事をするのか疑問にも思わないほど自然に浸透していた。

 自分が在日朝鮮人だとなるべくバレないように通名を使用するのだと気が付いたのは、中学校で人種差別を受けるようになってからだったが結局無駄だった、木下成美なんて仮の名前を名乗った所で本質的な解決にはならないのだろう。

 だからといって行った事もない母国に帰りたいとも思わない、宣美にとっては生まれ育った国は日本であり朝鮮にはなんの愛着もない、朝鮮学校ではいかに日本人が劣悪であり朝鮮人が虐げられたかを熱弁する教師が存在した、だったら日本に住まなければ良いのに、と冷めた考えを持った三世は宣美だけではなかった。

 結局はこの国で生きていくしかない、在日朝鮮人というハンデはあるが、それは容姿が恵まれていない人、頭が悪い人、スポーツ音痴な人と同じで、ある種の個性だと割り切る事にしていた。宣美は頭脳、麗娜は容姿が良いのは不幸中の幸いと言えるだろう。