―― 二〇三〇年 八月二十三日 火曜日 ――


「じゃあ、今日もバイエル練習しようか」


 翔太くんは「はーい」と大きな声で返事をすると、メトロノームを自分でセットして軽やかに鍵盤を鳴らし始める。

 わたしがピアノのレッスンを始めたことは、お店の常連客の間でもいつの間にか話題になっていた。


「いい音色だねえ」

「ピアノの音なんて、何年振りかな」

「あの子は将来ピアニストになるかもね」


 毎週火曜日の十六時になると、ピアノの音色を求めて店まで訪れる人もいるらしい。

 なのでわたしはレッスンを始める三十分前にはここへ来て、自分の指を温めるためにも、二、三曲の楽曲を披露するのが恒例となっていた。


 今日も翔太くんのレッスンを終えて、遙さんとお店でコーヒーを飲みながら一週間の出来事なんかを話し合う。


「まさか翔太がピアノを習いたいなんて言うと思わなかったから、本当に助かるわ」

「わたしなんかのレッスンであれだけ弾けるようになるなんて、きっと翔太くん才能あるよ」

「そんなに謙遜しないで。琴音ちゃんの教え方が上手なのよ」


 くすくすと微笑んで褒めてくれる遙さんを前に、照れ隠しのようにコーヒーをすする。


 あれから一年が過ぎた。


 あの日、夜明けと共に葵の車で自分のアパートに戻ってくると、すぐに会社にお詫びの電話を入れて退職の手続きを済ませた。

 パワハラ課長からはねちねち嫌味を言われたが、退職後は清々しさでいっぱいだった。

 それからアパートを引き払い、しばらく葵の家でお世話になることにしたわたしは、お母さんと連絡を取りピアノの練習を再開した。

 丁度葵の実家には使われていない箱型ピアノがあった。

 かなり古かったが業者に診てもらい調律を施すと、わたしの弾く音を元気よく奏でてくれた。

 今でも実家には定期的に帰っていて、お母さんに直接ピアノを教えてもらうこともある。

 以前お母さんとの間にあった壁も、わたしがお母さんに素直に接するようになってからは随分薄くなっている。


『まさか会社辞めちゃうなんてねえ。でも、お母さんはあなたがピアノに戻ってくれて嬉しいわ』


 退職して実家を訪れたときのお母さんの言葉を、今でもたまに思い出す。

 本当に驚いていたけれど、わたしが本気だとわかると、それからは熱心に練習を見てくれた。

 これでもピアニストの娘だ。

 その自信もあってか、一年の猛練習でわたしは昔以上にピアノを理解して弾きこなせるようになっていた。


 葵の家でお世話になっていた間は、駄菓子屋と畑の手伝い、それに神社の掃除や巫女の仕事なんかも手伝っていた。

 そんなある日、いつものように神社の境内を掃除していると、結弦のお祖母さんが姿を見せた。


「いつもお掃除してて偉いわね。新しいアルバイトさん?」


 向こうの世界でお世話になった頃に比べると、腰も曲がっていて、声も少し弱々しくなっている。


「いえ、実はピアノを弾きながら天伽家に居候しているんです。でも、なかなか仕事がなくて……」


 そこまで言うと、結弦のお祖母さんは少し嬉しそうに微笑(わら)って言った。


「よかったらうちで働かない? 旅館なんだけど最近ロビーにピアノを置いたの。あなたは浴衣も似合いそうだし、若い人も少なくて困っていたのよ」


 もう少し落ち着いたら、実はこちらから訪れてみようと思っていたので、戸惑いもあったがわたしはすぐにその話を受けた。


「あ、ありがとうございます。是非働かせて下さい!」

「そんなに元気に言ってもらえると嬉しいわねえ」

「あ、あの……」


 少しためらったが、聞きたい気持ちを抑えきれない。


「ご主人や、千佳さんや井関さん、それに長谷川さんはお元気ですか?」

「え? どうしてみんなのことを……」


 やはり驚いた顔を見せられた。

 見知らぬ女がいきなり従業員の名を口にしたのだから、無理もない。


「あ、あなた、もしかして、一度うちにお手伝いに来てくれたことがあるかしら……?」


 今度はこちらが驚く番だ。

 お手伝いをさせてもらったのは、この世界ではないのだから。

 しかし、淡い期待を込めて訊いてみた。


「高校生の頃に、少し。覚えてくれていますか? あと、結弦と美輝と怜っていう同級生も一緒だったんですけど……」


 結弦のお祖母さんは、少し考え込んでから答えた。


「ごめんなさい。なんとなくイメージはあるんだけど、思い出せなくて。わたしも歳ねえ」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。あの、でもわたしのことはみなさんには伏せておいてください。気を遣わせてしまうと、わたしも心苦しいので」

「ええ、わかったわ。みんな元気よ。あなたが来てくれたら、きっと喜ぶわ」


 改めて旅館に伺う日を決めて、その日は別れた。

 結弦はわたしと葵の記憶には残ったまま、この世界から消えていた。

 長く入院していた病院にも結弦の記録はなく、卒業アルバムにさえ載っていなかった。

 結弦の実家にも行ってみたが、確かめるのが怖くなったわたし達は、インターフォンを鳴らさずにその場をあとにした。


 わたしと葵の記憶で生きている結弦は、一体どこに行ってしまったんだろうか?

 きっとわたし達とは違う、どこか遠い世界で頑張っているのだろう。