「琴音……」
誰かがわたしを呼んでいる。
「起きて、琴音……」
もう、起こさないで。
「いつまで寝てんだよ、琴音……」
わたしはこのまま、眠っていたいの。
「起きなさい、琴音……」
聞き覚えのある声が、わたしの名前を呼び続けている。
「もう! 放っておいてよ!」
がむしゃらに言い放って飛び起きると、そこは見覚えのある神社の境内だった。
夏祭りの日に、みんなと屋台で買った物を食べながら花火を見た、大切な思い出の場所。
寝ぼけた目を擦って、ゆっくりと隣を見ると美輝の笑顔が飛び込んできた。
「おはよ! 琴音」
……み、き?
……美輝!
美輝だ!
よかった、やっぱり生きてた!
「美輝っ! 美輝ぃ!」
わたしに肩を貸してくれていたのだろう。わたしは美輝と後ろの境内の柵にもたれかかるように座っていて、そのまま美輝に抱きついた。
座ったまま美輝を抱きしめて顔を上げると、立ったままわたし達を見下ろしている結弦と怜に気がついた。怜に比べて結弦が少し希薄に見えるのは、気のせいだろうか。
「ゆづ、る……」
葵の言葉を思い出す。
もしかして、存在が消えかけているの?
わたしの考えを察したように、美輝が端的にここにいる理由を告げた。
「琴音、ごめんね。わたし達、最後のお別れを言いにきたんだ」
結弦はわたしの前に腰を落とすと、わたしと美輝を優しく引き離す。
「あまり時間がないんだ。葵がもたないからね」
結弦につられてお社に目をやると、巫女服に身を包んだ葵がこちらに釣り提灯をかざしながら苦しそうに顔を歪ませていた。
「葵! 一体なにを!」
「ここは葵がお役目を果たす空間なんだ。琴音と最後に話ができるようにって、過去の葵と未来の葵が協力して俺達を会わせてくれているんだよ」
片膝をついた葵が、絞り出すように枯れそうな声をあげる。
「琴音……。最後にちゃんと……お別れをしなさい」
その言葉にわたしは大きく首を振る。
せっかくまた会えたのに、もうお別れなんてしたくない。
「いやだよ……。結弦の、みんなのいない世界なんていやだ。それに、みんなわたしのせいで過去を繰り返していたなんて、本当なの?」
その問いかけには、誰も口を開かない。
「わたし、みんなに償い切れないほどの苦しみを与えて、今も無関係な葵まで巻き込んで……ごめんなさい。本当にごめんなさい!」
もう一度みんなに会えて嬉しい。
嬉しいけれど、わたしの罪は到底許されるものじゃない。
たくさん苦しめたみんなにも、今苦しめている葵にも、どんな顔を見せればいいのかわからない。
わたしの想いは、ただひとつだけだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。ごめんなさい!」
嗚咽交じりの醜い声で、必死になって何度も謝る。
もうそれしかできない。
それ以外、なにもしてあげられない。
「わたしのせいで……わたしがこうして生きていたから。事故のとき、わたしが死んでさえいれば……そうすればみんな、こんなに苦しまずに済んだのに」
「琴音……」
美輝がぽつりと呟いたけれど、溢れてくる暗い想いをとめることはできずに、言葉が口から飛び出していく。
「わたしなんかと仲よくしてくれたばっかりに、結弦も消えてしまう。わたしなんて……わたしなんて生まれてこなければよかった! そうすればみんなもわたしと出会わずに済んだのに! つらい想いなんてせず、きっと幸せに生きられたのに!」
感情に任せて言い放つと、乾いた音と共に、頬に鋭い痛みが走った。
「み……き……?」
わたしの頬を掌で叩いた美輝が、その瞳を潤わせている。
「琴音の……ばか。どうしてそう思うの? なんでそんなこと言うのよ!」
美輝に叩かれたことなんてなかった。
呆然とするわたしを諭すように、結弦が続ける。
「琴音、最後だよ。俺の話を聞いて」
美輝の平手で冷静さを取り戻したわたしは、頬を押さえたまま静かに頷いた。
「俺たちは、あの事故以来ずっと琴音を見守っていた。ひとり残してしまった琴音が心配だったんだ。だけど二〇二九年八月二十三日、二十五歳の君は慰霊碑から湖へ飛び込んで、その命を絶ってしまった。それを悔やんだ俺達は、気がつくと高校の入学式の日に戻っていた。最初はなにが起きたのかわからなかったよ。でも事故までの記憶もちゃんとあるから、神様が人生をやり直すチャンスをくれたんだって思ってた。でも、どうしても事故の運命を避けられないんだ。そして、その七年後に琴音が死ぬ。そしてまた、入学式の朝に戻る。二度目の繰り返しで、美輝も怜も同じだってことを知ったよ」
顔を上げてふと美輝と怜を見る。ふたりの視線はどこを捉えるでもなく、地に吸い込まれていた。
「三人で色んなことを試したよ。旅行に行かなかったり、俺達が関わらないようにしたこともあった。入学式から高校三年の夏までを、気が遠くなるくらい何度も繰り返した。でもどれだけ頑張っても四人の運命は変わらなかった。バスに乗らなかったら他の方法で事故に遭ったりするんだ。当時はわかっていなかったけれど、葵が言っていた過去から未来へ繋がる因果ってやつさ。でも、たとえバス事故が止められなくても、たったひとりの命だけなら救えるんじゃないかと思った。たとえみんなで助かることができなくても、淋しさを抱えて生きている琴音だけでも、なんとか救いたいと考えたんだ」
――わたしを、助けるため……。
みんなは、自分の命を諦めても、わたしを助けようとしてくれていたの?
「琴音はずっと、あの事故さえなければって言ってた。みんなであのまま旅行に行って、なにごともなく楽しく過ごしたかったって。それなら、実際にあの旅行に行ってみれば、琴音の淋しさや悔しさを、少しは和らげてあげられるんじゃないかと思ったんだ。そうすれば、琴音を救えると思った。そして繰り返す時の中で甘伽家に辿り着いた俺は、封印されていた文献を調べて因果の鎖の存在を知った。そこには因果の鎖を断ち切る方法も禁忌として書かれていたよ」
「結弦……あなたまさか、甘伽神社の蔵へ入ったの? いつの間に?」
葵は額に汗を流しながら、苦痛に顔を歪めている。
「すまない葵。おかげで葵のお役目のことも俺は知っていたんだ。だからこそ悩む時間は無かった。葵に送られるわけにはいかなかったからね。そして、いくつも枝分かれしているパラレルワールドの中からひとつの世界を選び、禁忌の術を使ってバス事故の未来を書き換えたんだ」
そこまで話すと、穏やかだった結弦の顔に影が差した。額には汗が滲んでいる。
「そうして因果に逆らった俺は、歴史や宇宙に嫌われたって言うのかな。代償として、俺の存在は過去からも未来からも消滅して、完全な無となる。それもちゃんと文献に載っていたよ。過去を捻じ曲げて、大きな事故を小さな事故へと変えてしまったんだからね。死んだ人が生きていたりその逆が起きると、多くの人の未来に関わるし、これからの歴史がすべて変わってしまうくらい大変なことなんだ。だからあのパラレルワールドも既に崩壊している。結果的に助けられたのは、今ここにいる琴音ひとりさ」
結弦は苦しそうに、息を荒くしている。
あぁ、なんて残酷過ぎる結末だろう。
目の前に立ち塞がる運命から、思わず目を逸らしたくなる。
あんなに楽しかったみんなとの旅行。
わたしが幸せを望んだことで、起きなくていい悲劇が起きた。
そう思うとやり切れない。
感情がまた色を失くして、もう涙も流れない。
頬に当てていた手で顔を覆うと、結弦が再び言葉を紡いだ。
「琴音、顔を上げて。琴音が気にすることはなにもないんだ。琴音を助けて消滅するか、琴音の命も諦めて甘伽に送られるか、そんなの選ぶまでも無いじゃないか。眠っていた俺なんかのために、七年間、琴音はずっとそばにいてくれた。その恩返しなんだよ」
結弦がわたしの頬を優しく撫でてくれる。
顔を上げるといつもと変わらない穏やかな表情がそこにあった。
「俺達の願いはたったひとつ。琴音にずっと、幸せに生きていてほしい。それだけだよ」
結弦の眩しいくらいに透明で澄んだ瞳が、色のないわたしの心を優しく照らしているみたい。
思わず顔を背けてしまいそうになると、美輝がわたしの肩を抱いて口を開いた。
「琴音、あの旅行ですごく強くなったよ。自分でもちゃんと気づいてるんでしょ? だからもう、大丈夫だよ」
わたしだって、本当はそう思っていた。
ほんのちょっとだけど、自分は変わることができたんだって……。
「結弦がしたことは、単にお前を楽しませただけじゃねえだろ? まあ、俺らは楽しかったけどな。最後に旅行なんて行けてさ。お前のお陰だよ。ありがとな、琴音」
みんなの言葉で心に色が戻り始める。
なのに、溢れ出す涙がわたしの言葉を滲ませてしまう。
ごめんなさい。
わたしが弱いばかりに、みんなを苦しめて。
わたしが自ら命を絶ったりしなければ、みんなはきっと生まれ変わって、新しい人生を迎えていたんだね。
結弦も消えることはなかったんだよね。
本当に、本当に……ごめんなさい。
「みんなは……これからどうなるの?」
声を絞り出すと、怜が元気な声で返した。
「そりゃもちろん、お前が生きていてくれるならもう未練も無くなるし、俺達は生まれ変わるんだよ! なっ、美輝!」
「……うん、そうだね」
無理に明るい声を出している怜に比べて、美輝の返答は物悲しい。
きっと結弦のことを気にしているんだろう。
「でも結弦は? 結弦は生まれ変われないの? 生まれ変われたなら、きっとまたどこかで会えるんでしょ? わたし、そうじゃなきゃいやだ!」
結弦は困ったような顔をしていたけれど、その優しい目だけは相変わらず笑っていた。
そして、その姿はさらに希薄になっていく。
「いいんだよ、琴音。こうしなきゃ琴音を救えなかった。それは誰のせいでもない。天伽にも送られずにこんなことまでしでかしてしまって……。強いて言うなら、これは俺のわがままに対する報いなんだ」
結弦が言い終えると、美輝がぽろぽろと涙を流して、わたしの両手を強く握った。
声を出そうとしているけれど、唇が震えて邪魔をしている。
それでも美輝は、弱々しくわたしに語りかけてくれた。
「琴音……約束して。琴音は強くなったでしょ? ずっとそばにいて、わたしわかったよ。いつも自分の感情を抑えて一歩後ろに引いてた琴音が、自分の気持ちをたくさん話してくれたじゃん。泣いたわたしを抱きしめてくれたじゃん。わたし、全部嬉しかったよ。琴音はもう大丈夫……大丈夫だよ。だから結弦のためにも、幸せになるって、そう約束してあげて」
涙に滲んだ美輝の声が、心に響く。
結弦のためにも……わたしが幸せに……?
「そうだ、琴音! 結弦のためにも、俺らのためにも、この世界を幸せに生きてくれよ。俺はバスでお前を助けるために、苦手な水泳だって頑張ったんだからよ」
まさか、怜が陸上部から水泳部に転部したのって……。
「怜、そういうことだったの? わたしのせいで陸上辞めたの?」
怜はバツが悪そうに頭を掻いて答えた。
「お前のせいじゃなくて、みんなのためだよ」
……みんなの、ため?
怜の言葉をあと押しするように、葵がお社から苦しそうな声を上げた。
「琴音、みんなあなたを助けるために何度も命を懸けたのよ。自分達の命を諦めても、あなたのことは決して諦めなかった。みんな、あなたのために繰り返し時を越えたのよ。その想いに応えてあげて! ちゃんと結弦に、自分の言葉で約束してあげて!」
そんなの……無理だよ。言えないよ。
言ったらみんながいなくなっちゃう。
わたしはやっぱり素直になんてなれない!
もうひとりぼっちになんてなりたくない!
この期に及んで、わたしを苦しめた七年の歳月が立ち塞がってくる。
でもここで逃げたら、結弦のしてくれたことが全部無駄になる。
それに結弦の存在が消えたあと、またもし美輝と怜が時を越えてしまったら、それこそ不幸が連鎖する。
そんなこと、もう十分わかってるはずなのに!
「琴音、頑張れ!」
美輝が叫んだ。
「勇気出せ!」
怜もわたしに声を張り上げる。
結弦の身体はどんどん透けていく。
そして、葵がわたしにその言葉を投げた。
「このままじゃ結弦が無駄死によ! あなた本当にそれでいいの?」
いやだ……いやだ……。
そんなのいやだ!
結弦が無駄死にだなんて、そんなの絶対にいやだ!
葵の叫ぶ声に、わたしの心の枷が砕けた。
「結弦を無駄死になんてさせない!」
そうだ、全部選ぶなんてできない。
わたしが自分勝手に命を粗末にしてしまったせいで、こんなことになったんだ。
今更それを悔やんでも、今起きていることを変えることはできないんだから。
だったらせめて、最後くらいみんなが望んだ結末にしなくちゃ。でなきゃ誰も救われない。
結弦が命を削ってまで連れていってくれたみんなとの旅。
それは決して無駄なんかじゃなかった。
誰かのために、自分のために強くなると決めた。
その決意がきっと今試されている。
言葉が詰まる。
涙と嗚咽が邪魔をする。
でも――、
ここで言わなきゃ誰も救われないし、救えない。
ただ後悔が残るだけだ。
だからみんなが見てる今ここで、その約束を口にするんだ!
喉の奥につっかえている言葉を、なんとかみんなに届くように叫んだ。
「や、約束する……!」
もっと、もっと大きな声で!
「わたし……強くなる! みんなの分も、これからは幸せに生きていく! 絶対そうなるように約束する!」
――言えた!
結弦のために、みんなのために。
涙で視界は歪んでいる。
だけど、それでもわたしは、その約束をちゃんと口にすることができた。
顔を拭って、結弦を見つめる。
「ありがとう、琴音。……好きだよ。そんな琴音が、ずっと大好きだったんだ……」
希薄になっていく結弦は、淡く光る涙を流して笑っている。
「わたしも結弦が好き! これからもずっと大好き! 結弦のこと、絶対に忘れない!」
喉が裂けるくらい、声を張り上げて叫んだ。
伝えたいことはまだまだあるのに、結弦の体はどんどん透けていく。
存在が消えてしまう瞬間が、もうすぐそこまで迫っている。
ちゃんと言わなきゃ。伝えなきゃ。
これが本当に最後なんだから。
もう、結弦には会えなくなってしまうのだから。
神様なんていない。宇宙に嫌われるとかどうでもいい。歴史なんて知ったことか!
わたしが忘れさえしなければ、きっと結弦の存在はなくならない。
なにが正しいかなんてわからないけれど、わたしはそう信じてる。
そうすればいつか、たとえ遠い未来でもまた巡り会える。
今一番大切なのは、結弦を忘れないと信じる心だ。
そのためにも精一杯、結弦へ伝えよう。
結弦が教えてくれたこの言葉のぬくもりを、最後にわたしから届けよう。
「ありがとう! 結弦!」
――わたしと、出会ってくれて。
――わたしに、優しさをくれて。
――わたしに、ぬくもりをくれて。
――わたしに、輝きをくれて。
――わたしに、思い出をくれて。
――わたしを、愛してくれて。
――そしてわたしに、命をくれて……。
最後に贈る、七つのありがとう。
それが結弦の勇気になるよう、願いを込めて届けよう。
結弦からもらったもの。
それは全部、強さだったんだね。
これだけあるなら、もう大丈夫だよ。
だから、きっとまた会おうね。
わたしは決して、あなたを忘れたりしないから。
生まれ変わっても、絶対あなたと巡り会ってみせるから。
そうしたらまた、わたしと一緒にいてね。
おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと一緒にいようね。
今度こそ誰にも負けないくらい、たくさん幸せになろうね。
いつか迎える最期のときまで、ずっと手をつないで、どこまでも歩いていこうね。
それまで、ほんのちょっぴりお別れだね。
結弦は、最後に微笑んで言った。
「琴音……。遠い未来で、きっと……また……」
眩い七色の光が辺りを包んでいく。
霞み消えていく結弦の後ろで、景色と共に遠くに離れていく美輝と怜が、わたしに笑顔で手を振っている。
もう片方の手は、互いに固く繋がれていた。
美輝、怜、本当にお別れなんだね。
離れていくふたりから見えるように、笑顔で大きく手を振った。
美輝と怜も見えなくなり、七色の光はどんどん白い闇に覆われていき、わたしはまた目を閉じた……。