夜空へ虹の架け橋を


 泣いて、泣いて、泣き続けて、どれくらい時間が過ぎただろう。

 うずくまったまま流し続けた涙が枯れてくると、泣き疲れた体をゆっくりと持ち上げた。


「慰霊碑って……すぐそこ、だったよね……」


 泣いている間も、ずっとわたしを見つめていた黒猫に話しかけてみる。

 喉が渇いて体に力が入らない。

 地面と空がひっくり返ったみたいだ。

 倒れそうになる体を何度もガードレールで支えながら、ふらふらした足取りでなんとか慰霊碑がある場所まで歩いた。

 あの階段の向こうに、美輝と怜の名前が刻まれた慰霊碑があるのだろうか。


「いや……違う」


 涙が枯れるほど泣き続けて、辿り着いた絶望の底。

 もうこれ以上ないくらい沈み切った場所に立つと、小さな希望に気がついた。

 よく考えてみれば、わたしは時間を飛び越えたんだ。

 そのとき、バスは転落しなかった。

 軽い接触事故は起きたけれど、幸いみんな無事だった。

 葵のトンボ玉は、それがもうひとつの現実だったことを証明している。

 だとしたら……慰霊碑はないのかもしれない!

 わたしが時間を飛び越えたのは、みんなを助けるためだったとしたら……。

 そう考えると辻褄が合う。

 過去に戻って、あの恐ろしい事故を回避して未来に戻ってきたのなら、そのままそっくり過去が変わっているのではないだろうか。

 ここはきっと、美輝と怜が生きている未来へと変化しているんだ。

 そして結弦も今頃、プールで子ども達に水泳を教えているのかもしれない。

 淡い期待が、希望の光を輝かせていく。

 でも、もし変わらずに慰霊碑が建っていたら……。

 暗い考えを吹き飛ばすように、頭を何度も横に振る。

 そんなこと考えちゃ駄目だ。

 事故は起こらなかったんだもの。

 きっとわたしはみんなを助けるために、過去へ戻ることを許されたんだ。

 そうじゃなければ、なんのために過去に戻っていたのか説明がつかない。


 慰霊碑がある階段の前に立ち、震えながら一段目に足をかけた。

 そこから一歩、また一歩と、踏みしめるように階段を上っていく。

 心臓の音がうるさくて吐き気がする。

 この先にあるのは未来への希望だと言い聞かせて、ひと足毎に力を込める。

 上を見ないように視線は足元に向けたまま最後の段に足をかけると、慰霊碑がある場所へ上りきった瞬間にまぶたを閉じた。

 心を落ち着かせるために大きく息を吸い込む。

 新緑の香りを肺いっぱいに取り込んで、まぶたの裏で慰霊碑のない只の広場を想像する。


 ……お願い、神様。


 わたしはもうなにもいらない。

 美輝と怜が、ただ生きていてほしい。

 生きてもう一度会って、この七年間楽しかったよって、そう言ってほしい。

 そして結弦も、夢を叶えて幸せに暮らしていてほしい。

 みんなが元気で過ごしているなら、わたしはどうなっても構わない。

 意を決して、固く閉じたまぶたの力を緩めてゆっくりと目を開けようとしたその瞬間。


「いつまでそうしてるのよ」


 誰もいないはずのこの場所に、声が響いた。


 どこか懐かしくて、聞き覚えがある声。

 この声は……。


「葵……?」


 驚いて目を開けると、そこにはひとりの女性が立っていた。

 わたしの記憶よりも少し背が伸びていて、声は僅かに低く、化粧がされた顔はかなり大人びているけれど、きっと葵に間違いない。

 そういえば、階段を上る前に車が一台止まっていた気がする。


「はじめまして。神谷琴音さん」

「葵っ! やっぱり葵だ! よかった、未来変わったんだね!」


 葵のもとへ駆け寄り、思わず抱きついた。


「ちょ、ちょっとあなた、落ち着きなさい!」


 葵は仰け反って慌てている。

 過去の世界で出会った葵がここにいる。

 やっぱりこの世界は、あの日からちゃんと続いているんだ。

 みんなで旅行に行けた過去の延長にいるんだ。


「葵、ありがとう! あなたとわたしがここで会ってるんだから、もう間違いないよね!」


 本当に嬉しい。

 灰色の世界に戻されたと思ったけれど、ここはみんなが生きている虹色の世界だったんだ。


「ねえ葵、結弦は今どこにいるの? それに美輝は? 怜は? わたし、今すぐみんなに会いたい!」


 葵はなにも知らないだろうから、いきなりこんなことを訊かれるとおかしく思うかな。

 けれど、今はそこまで気にする余裕はない。

 それくらい心は踊り、気持ちは舞い上がっている。

 とにかくみんな無事でよかった。


「琴音さん、落ち着いて聞いてね」

「やだ、ごめん。わたしひとりで舞いあがっちゃって……」


 申しわけないと思いながらも、弾む心は静まらない。

 そんな気持ちを冷ますように、葵は冷たい言葉を口にする。


「あなたとあたしは、初対面よ」


 酷い冗談だ。

 もしもこの再会が七年振りだったとしても、そんな言い方しなくたっていいのに。


「もしかして怒ってるの? 今日ってここで待ち合わせしてたっけ? だとしたらほんとにごめんね」


 ここで待たせていた可能性も否定はできないし、よもや朝ごはんを残して以来会っていないのだとしたら、葵が怒るのも無理はない。


「そうじゃないわ……琴音さん、落ち着いてあたしの話を聞いて」


 葵は眉根を寄せて眉間にしわを作っている。

 やっぱりその顔、間違いなく怒ってるよね?


「七年前……だよね? あのときわたし、早く結弦のとこに行かなきゃって思って。朝ごはんも残しちゃったし――」

「――聞きなさいっ!」


 遠くの山にこだましそうなくらい大きく響いた声に反応して、木々から鳥達が飛び立っていく。

 わたしは思わず言葉を切った。


「……リンネ、こっちへおいで」


 落ち着いた葵の呼びかけに、さっきの黒猫がわたしの背後から駆け寄る。

 旅の途中で何度も出会った葵の猫だ。


「琴音さん、この子のこと知ってるわよね?」

「う、うん……。リンネちゃんっていうんだ」


 尋問を受けているような重い空気。

 なにも悪いことはしていないのに。

 けれど、この先はわたしにとっていやな話だと、張り詰めた空気が予感させる。


「この子だけが唯一、あの世界とあたし達の世界を行き来していたの」


 いやだ、聞きたくない。

 今すぐ耳を塞ぎたい。


「あなたには、つらい事実かもしれないけれど」


 やめて!

 それ以上言わないで!


「美輝さんも怜くんも、この世界にはいないわ」


 …………っ!


「結弦も……もうすぐ消滅してしまう」


 ――えっ?


「葵っ! ひどいっ! なんてこと言うの!」


 気づけばわたしは葵の胸ぐらを両手で掴んでいた。

 許せない!

 美輝も怜もいない?

 その上、結弦が消滅する?

 なんで?

 どうしてそんなことが言えるの?

 葵がこんな人だったなんて、信じられない!


「……落ち着いて」


 葵はわたしが掴む手を離そうとする。

 けれど、


「落ち着けるわけないじゃない! 自分がなにを言ってるかわかってるの?」


 全身の血が逆流して頭が沸騰する。

 そんなわたしとは対照的に沈黙する葵。

 その瞳にはどんどん涙が溜まっていく。


「あ、あたしだって……」


 言い訳するつもり?

 でもひどいことを言ったのはそっちだ。


「あたしだって! 平気じゃないのよ!」


 葵は溜めた涙を大粒の雫に変えて、地面に弾ませながら叫んだ。


「でもあたしが……あたしくらいはしっかりしていないと、あなたまたここから飛び降りるでしょ! そうしたら、結弦が命を賭してまでしたことが全部無駄になるじゃない!」


 わたしの煮えたぎっていた血は、葵の雄叫びで一気に冷えていった。

 それでも喉は焼けるように熱い。

 目の奥がずきずきする。

 泣きながら限界まで呼吸を我慢して、肺に空気を送り込むと、血液に乗った酸素が脳にいきわたるのを感じた。


 あぁ、そうか……。

 葵もきっとつらくて……なのにそれを見せないように我慢してるんだ。

 こんな状況でここに現れたのにもわけがあって、必死で踏ん張って立っているんだ。

 わかっていたのに憤りを怒りに変えて、それを葵にぶつけてしまった。

 ただの身勝手な八つ当たりだ。


「葵……ごめんなさい……。でも、これは一体どういうことなの?」


 冷静になったわたしを見て、葵も深く息を吸い込んでから答える。


「今言ったとおりよ……。結弦はあなたを助けるために、自分を犠牲にしたの……」

「わたしを……助けるため?」


 葵はまだ肩で息をしていて、霞に消えそうな声で続けた。


「あなた、さっきまで過去に行ってたんでしょ? そこであたしとも出会ってるってリンネから聞いたわ」


 そういえば、過去の葵も猫と話せるようなことを言っていた。


「あたしの家、天伽のお役目は聞いてる?」


 昨日お祭りの前に葵から聞いたので、よく覚えている。


「うん。未練を解消するために過去を繰り返している魂を送ってあげるっていう……」


 こくりと頷いて、葵は説明を始めた。


「まず、あなたは自分だけが過去に戻ったと思っているかもしれないけれど、実はそうじゃないの」


 たったのひと言目で、早速疑問が浮かんだ。


「ど、どういうことなの?」


 わたしは二十五歳になってから過去に戻った。

 だけど七年前に亡くなってしまっている美輝と怜は、タイムリープすらできないのではないか。

 そこまで考えてはっとする。

 天伽のお役目。もしかして――。


「結弦と美輝ちゃんと怜くん……。あの三人はね、ずっと過去を繰り返していたのよ」


 葵は目に涙を浮かべたまま、悲しげにその言葉を口にした。

 悪い予感が当たった。

 それは永久《とこしえ》の地獄だと言っていた。

 未練が解消できるまで繰り返し訪れる死。

 確かにあの事故は突然起きた。

 未練も後悔もあったかもしれない。

 それでも、呪われるほど強い未練が三人にあっただなんて……。


「三人の未練は……あなたよ」


 わたしが……三人の未練?


「うそ……そんなはず、ないよ……」


 そんなの、思い当たる節がない。

 みんなをこの世に留めてしまうほど、わたしはなにか大変なことをしでかしていたのだろうか?

 この世に強い未練を残したまま唐突な死を迎えてしまった魂は、未練を解消するまで過去を繰り返して永遠に生きる。

 それが昨日、駄菓子屋で葵に言われた言葉だ。

 そしてそれを導くのが、天伽のお役目……。


「どの時点に戻って繰り返していたのかは、本人達じゃなきゃわからないけど、おそらくあなたと出会った辺りの過去からやり直していたと思うわ」

「待って葵。あの三人にとって、わたしはどういう未練なの?」


 葵は空を見上げて、淡々と答えた。


「三人の未練は、弱いあなたをひとりにしてしまったこと。七色ダムへのバス転落事故から七年後の今日、あなたはここで自らの命を絶ってしまう。それをとめるために、彼らは過去を繰り返していたの」


 そんな……。

 みんなは何度も過去を繰り返して、その度にわたしを助けようとしてくれていたの?

 いや、なによりも――。


「湖の底に沈んでしまう恐怖や苦しみを、みんなは何度も体験していたの……?」


 本当にそうだとしたら、わたしはどう償えばいいのだろう。

 バスが落ちる感覚。

 水が迫る恐怖。

 徐々に湖底に引きずり込まれる絶望感。

 あんなの、本音を言えば人生で一度だって体験したくなかった。

 全身から血の気が引いて、顔が青ざめていくのがわかる。


「あなたの命を繋ぐために、過去に戻っては寄り添って、たくさんのことを試みた。だけど、どうしても七年後のあなたをとめることができなかったの。あなたがここから飛び降りる度に、彼らは過去に戻ってやり直していたのね」


 ――なんてことだ。
 わたしのせいだった。わたしが馬鹿なことをしたせいで、みんながずっと苦しんでいた。

 ひとり残された世界で、わたしも被害者のような顔をして生きていた。
 だけどみんなは、そんなわたしを心配してくれて、わたしを助けるために何度も何度も怖い思いをしていたんだ。

 本当の被害者はわたしじゃなくて、みんなのほうだったのに。


「それなら、事故を避けてみんなと旅行に行けた過去。あれはなんだったの?」


 でも今は冷静にならなきゃ。宣告が絶望的なときほど、人は冷静でいられると聞いたことがある。今ここで泣いて投げ出しちゃいけない。ちゃんと葵から真実を訊いて、わたしはわたしのできることをしなくちゃ。

 不思議なことがたくさん起きている。
 それならみんなを助ける糸口だって、まだ見つけられるかもしれない。

 希望を見失わないように言い聞かせて葵の返答を待っていると、葵はふいっと目を逸らして言った。


「あれは結弦が書き換えた過去の世界。そしてそれが、この世界から結弦が消えていなくなる原因」


 その言葉と同時に、わたしの頬から一筋の涙が地に落ちた。

 まだ、できることがあると思った。
 こんな不思議なことが実際に起きているのだから、まだ、助けられると思った。

 なのに、あんなに楽しかった思い出が、わたしと過ごしたあの三日間が、結弦から命を奪うというの?

 もうわけがわからない。
 どうすればいいかも全然わからない。
 わたしはどこまでも、ただみんなを苦しめることしかできないのか。

 心を置き去りにしてしまいそうなわたしを無視して、葵は淡々と説明を続ける。


「どれだけ過去を繰り返してもあなたを助けられなかった結弦は、パラレルワールドと呼ばれる平行世界の過去を書き換えて、今までになかった未来を創りだした。そこへあなたを連れていったのよ」


 パラレルワールドということは、あの三日間はこの世界とは違う世界での出来事だったのだろうか。そう考えると益々納得がいかない。


「でも、わたしは元の世界に戻って来たのに、なぜ結弦が消滅しなくちゃいけないの?」


 次々と沸いてくる疑問。
 葵はそれをひとつずつ的確に答えていく。


「平行世界には、ちゃんとその平行世界の住人がいる。あなたはそこのオリジナルじゃないもの、長くは存在できない。にも拘わらず一時的にあっちに行けたのは結弦のおかげよ。方法はわからないけど、まさに奇跡ね。けれど、あなたを別の次元に送り込んだことと、ひとつの世界を書き換えて宇宙の理をも歪めてしまった結弦は、その代償として、命だけじゃなくて存在さえも消されてしまう。もうすぐあたし達の記憶からも、結弦は消えてしまうわ」


 結弦が消える? 命だけじゃなくてその存在まで? それも、わたしを助けたために。


「結弦は自分を犠牲にしてまで、わたしを旅行に行かせたの? どうして……なんでそんな無茶を!」


 堪え切れずに、また涙を流してしまう。


「過去を繰り返して、どんなことをしてもあなたの死を防げなかったからよ。どれだけあなたがあの事故までに精神的に強くなっても、それ以来ずっと淋しさを募らせて、今日になるとここから飛び降りてしまう。死の運命を変えるなんて、過去から未来へ因果が繋がっている以上、普通はできないからね。だからあなたに最高の思い出になるような、幸せな時間を過ごさせてあげたかったのよ。それでなにかが変わると、そう信じていたんでしょうね」

「そんなの……いやだよ。そんな話信じたくない!」

「あたしの後ろにあるのが、あなたが目指していた慰霊碑よ」


 葵の後ろに目をやると、見覚えのある慰霊碑が建っていた。
 いや、本当は言われなくても気づいていた。気づいていたけれど、見えないふりをしていた。


「いやだよ葵。こんなのってないよ。せっかくみんなとまた会えたのに、本当はいないだなんて。それに結弦が消えちゃって、結弦との思い出もみんな忘れちゃうだなんて、そんなのわたしいやだ!」


 立っていられず、思わず膝から崩れ落ちた。

 涙が止まらない。

 こんなことになるくらいなら、わたしもあの事故のときに死なせてくれたらよかった。

 なぜわたしだけ生き残ってしまったんだろう?

 どうしてみんなと一緒に死なせてくれなかったんだろう?

 そんな考えが頭の中を醜くうごめいている。


「琴音さん……顔を上げて」


 葵が膝を落として、わたしの顔を覗き込む。


「そのトンボ玉、過去のあたしから貰った物でしょう?」


 葵の問いかけに、わたしは首に下げたトンボ玉を握りしめて泣きながら頷いた。


「リンネから聞いてるわ。向こうの世界のあたしも、全部わかっていたのね。だからあたしがここにいることにも、ちゃんと理由がある。天伽の巫女として、あなたの命もみんなの魂も、あたしがきっと救ってみせる」


 そう言うと、葵はわたしのトンボ玉に手を添えてなにかを唱え始めた。

 また意識が遠のいていく。

 今度はどこに行くんだろう?


 もうどこでもいい。

 このまま眠り続けていたい……。


「琴音……」


 誰かがわたしを呼んでいる。


「起きて、琴音……」


 もう、起こさないで。


「いつまで寝てんだよ、琴音……」


 わたしはこのまま、眠っていたいの。


「起きなさい、琴音……」


 聞き覚えのある声が、わたしの名前を呼び続けている。


「もう! 放っておいてよ!」


 がむしゃらに言い放って飛び起きると、そこは見覚えのある神社の境内だった。

 夏祭りの日に、みんなと屋台で買った物を食べながら花火を見た、大切な思い出の場所。

 寝ぼけた目を擦って、ゆっくりと隣を見ると美輝の笑顔が飛び込んできた。


「おはよ! 琴音」


 ……み、き?

 ……美輝!

 美輝だ!

 よかった、やっぱり生きてた!


「美輝っ! 美輝ぃ!」


 わたしに肩を貸してくれていたのだろう。わたしは美輝と後ろの境内の柵にもたれかかるように座っていて、そのまま美輝に抱きついた。

 座ったまま美輝を抱きしめて顔を上げると、立ったままわたし達を見下ろしている結弦と怜に気がついた。怜に比べて結弦が少し希薄に見えるのは、気のせいだろうか。


「ゆづ、る……」


 葵の言葉を思い出す。

 もしかして、存在が消えかけているの?

 わたしの考えを察したように、美輝が端的にここにいる理由を告げた。


「琴音、ごめんね。わたし達、最後のお別れを言いにきたんだ」


 結弦はわたしの前に腰を落とすと、わたしと美輝を優しく引き離す。


「あまり時間がないんだ。葵がもたないからね」


 結弦につられてお社に目をやると、巫女服に身を包んだ葵がこちらに釣り提灯をかざしながら苦しそうに顔を歪ませていた。


「葵! 一体なにを!」

「ここは葵がお役目を果たす空間なんだ。琴音と最後に話ができるようにって、過去の葵と未来の葵が協力して俺達を会わせてくれているんだよ」


 片膝をついた葵が、絞り出すように枯れそうな声をあげる。


「琴音……。最後にちゃんと……お別れをしなさい」


 その言葉にわたしは大きく首を振る。

 せっかくまた会えたのに、もうお別れなんてしたくない。


「いやだよ……。結弦の、みんなのいない世界なんていやだ。それに、みんなわたしのせいで過去を繰り返していたなんて、本当なの?」


 その問いかけには、誰も口を開かない。


「わたし、みんなに償い切れないほどの苦しみを与えて、今も無関係な葵まで巻き込んで……ごめんなさい。本当にごめんなさい!」


 もう一度みんなに会えて嬉しい。

 嬉しいけれど、わたしの罪は到底許されるものじゃない。

 たくさん苦しめたみんなにも、今苦しめている葵にも、どんな顔を見せればいいのかわからない。

 わたしの想いは、ただひとつだけだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……。ごめんなさい!」


 嗚咽交じりの醜い声で、必死になって何度も謝る。

 もうそれしかできない。

 それ以外、なにもしてあげられない。


「わたしのせいで……わたしがこうして生きていたから。事故のとき、わたしが死んでさえいれば……そうすればみんな、こんなに苦しまずに済んだのに」

「琴音……」


 美輝がぽつりと呟いたけれど、溢れてくる暗い想いをとめることはできずに、言葉が口から飛び出していく。


「わたしなんかと仲よくしてくれたばっかりに、結弦も消えてしまう。わたしなんて……わたしなんて生まれてこなければよかった! そうすればみんなもわたしと出会わずに済んだのに! つらい想いなんてせず、きっと幸せに生きられたのに!」


 感情に任せて言い放つと、乾いた音と共に、頬に鋭い痛みが走った。


「み……き……?」


 わたしの頬を掌で叩いた美輝が、その瞳を潤わせている。


「琴音の……ばか。どうしてそう思うの? なんでそんなこと言うのよ!」


 美輝に叩かれたことなんてなかった。
 呆然とするわたしを諭すように、結弦が続ける。


「琴音、最後だよ。俺の話を聞いて」


 美輝の平手で冷静さを取り戻したわたしは、頬を押さえたまま静かに頷いた。


「俺たちは、あの事故以来ずっと琴音を見守っていた。ひとり残してしまった琴音が心配だったんだ。だけど二〇二九年八月二十三日、二十五歳の君は慰霊碑から湖へ飛び込んで、その命を絶ってしまった。それを悔やんだ俺達は、気がつくと高校の入学式の日に戻っていた。最初はなにが起きたのかわからなかったよ。でも事故までの記憶もちゃんとあるから、神様が人生をやり直すチャンスをくれたんだって思ってた。でも、どうしても事故の運命を避けられないんだ。そして、その七年後に琴音が死ぬ。そしてまた、入学式の朝に戻る。二度目の繰り返しで、美輝も怜も同じだってことを知ったよ」


 顔を上げてふと美輝と怜を見る。ふたりの視線はどこを捉えるでもなく、地に吸い込まれていた。


「三人で色んなことを試したよ。旅行に行かなかったり、俺達が関わらないようにしたこともあった。入学式から高校三年の夏までを、気が遠くなるくらい何度も繰り返した。でもどれだけ頑張っても四人の運命は変わらなかった。バスに乗らなかったら他の方法で事故に遭ったりするんだ。当時はわかっていなかったけれど、葵が言っていた過去から未来へ繋がる因果ってやつさ。でも、たとえバス事故が止められなくても、たったひとりの命だけなら救えるんじゃないかと思った。たとえみんなで助かることができなくても、淋しさを抱えて生きている琴音だけでも、なんとか救いたいと考えたんだ」


 ――わたしを、助けるため……。

 みんなは、自分の命を諦めても、わたしを助けようとしてくれていたの?


「琴音はずっと、あの事故さえなければって言ってた。みんなであのまま旅行に行って、なにごともなく楽しく過ごしたかったって。それなら、実際にあの旅行に行ってみれば、琴音の淋しさや悔しさを、少しは和らげてあげられるんじゃないかと思ったんだ。そうすれば、琴音を救えると思った。そして繰り返す時の中で甘伽家に辿り着いた俺は、封印されていた文献を調べて因果の鎖の存在を知った。そこには因果の鎖を断ち切る方法も禁忌として書かれていたよ」

「結弦……あなたまさか、甘伽神社の蔵へ入ったの? いつの間に?」


 葵は額に汗を流しながら、苦痛に顔を歪めている。


「すまない葵。おかげで葵のお役目のことも俺は知っていたんだ。だからこそ悩む時間は無かった。葵に送られるわけにはいかなかったからね。そして、いくつも枝分かれしているパラレルワールドの中からひとつの世界を選び、禁忌の術を使ってバス事故の未来を書き換えたんだ」


 そこまで話すと、穏やかだった結弦の顔に影が差した。額には汗が滲んでいる。


「そうして因果に逆らった俺は、歴史や宇宙に嫌われたって言うのかな。代償として、俺の存在は過去からも未来からも消滅して、完全な無となる。それもちゃんと文献に載っていたよ。過去を捻じ曲げて、大きな事故を小さな事故へと変えてしまったんだからね。死んだ人が生きていたりその逆が起きると、多くの人の未来に関わるし、これからの歴史がすべて変わってしまうくらい大変なことなんだ。だからあのパラレルワールドも既に崩壊している。結果的に助けられたのは、今ここにいる琴音ひとりさ」


 結弦は苦しそうに、息を荒くしている。

 あぁ、なんて残酷過ぎる結末だろう。

 目の前に立ち塞がる運命から、思わず目を逸らしたくなる。

 あんなに楽しかったみんなとの旅行。

 わたしが幸せを望んだことで、起きなくていい悲劇が起きた。

 そう思うとやり切れない。

 感情がまた色を失くして、もう涙も流れない。

 頬に当てていた手で顔を覆うと、結弦が再び言葉を紡いだ。


「琴音、顔を上げて。琴音が気にすることはなにもないんだ。琴音を助けて消滅するか、琴音の命も諦めて甘伽に送られるか、そんなの選ぶまでも無いじゃないか。眠っていた俺なんかのために、七年間、琴音はずっとそばにいてくれた。その恩返しなんだよ」


 結弦がわたしの頬を優しく撫でてくれる。

 顔を上げるといつもと変わらない穏やかな表情がそこにあった。


「俺達の願いはたったひとつ。琴音にずっと、幸せに生きていてほしい。それだけだよ」


 結弦の眩しいくらいに透明で澄んだ瞳が、色のないわたしの心を優しく照らしているみたい。

 思わず顔を背けてしまいそうになると、美輝がわたしの肩を抱いて口を開いた。


「琴音、あの旅行ですごく強くなったよ。自分でもちゃんと気づいてるんでしょ? だからもう、大丈夫だよ」


 わたしだって、本当はそう思っていた。

 ほんのちょっとだけど、自分は変わることができたんだって……。


「結弦がしたことは、単にお前を楽しませただけじゃねえだろ? まあ、俺らは楽しかったけどな。最後に旅行なんて行けてさ。お前のお陰だよ。ありがとな、琴音」


 みんなの言葉で心に色が戻り始める。

 なのに、溢れ出す涙がわたしの言葉を滲ませてしまう。

 ごめんなさい。

 わたしが弱いばかりに、みんなを苦しめて。

 わたしが自ら命を絶ったりしなければ、みんなはきっと生まれ変わって、新しい人生を迎えていたんだね。

 結弦も消えることはなかったんだよね。

 本当に、本当に……ごめんなさい。


「みんなは……これからどうなるの?」


 声を絞り出すと、怜が元気な声で返した。


「そりゃもちろん、お前が生きていてくれるならもう未練も無くなるし、俺達は生まれ変わるんだよ! なっ、美輝!」

「……うん、そうだね」


 無理に明るい声を出している怜に比べて、美輝の返答は物悲しい。

 きっと結弦のことを気にしているんだろう。


「でも結弦は? 結弦は生まれ変われないの? 生まれ変われたなら、きっとまたどこかで会えるんでしょ? わたし、そうじゃなきゃいやだ!」


 結弦は困ったような顔をしていたけれど、その優しい目だけは相変わらず笑っていた。

 そして、その姿はさらに希薄になっていく。


「いいんだよ、琴音。こうしなきゃ琴音を救えなかった。それは誰のせいでもない。天伽にも送られずにこんなことまでしでかしてしまって……。強いて言うなら、これは俺のわがままに対する報いなんだ」


 結弦が言い終えると、美輝がぽろぽろと涙を流して、わたしの両手を強く握った。

 声を出そうとしているけれど、唇が震えて邪魔をしている。

 それでも美輝は、弱々しくわたしに語りかけてくれた。


「琴音……約束して。琴音は強くなったでしょ? ずっとそばにいて、わたしわかったよ。いつも自分の感情を抑えて一歩後ろに引いてた琴音が、自分の気持ちをたくさん話してくれたじゃん。泣いたわたしを抱きしめてくれたじゃん。わたし、全部嬉しかったよ。琴音はもう大丈夫……大丈夫だよ。だから結弦のためにも、幸せになるって、そう約束してあげて」


 涙に滲んだ美輝の声が、心に響く。 

 結弦のためにも……わたしが幸せに……?


「そうだ、琴音! 結弦のためにも、俺らのためにも、この世界を幸せに生きてくれよ。俺はバスでお前を助けるために、苦手な水泳だって頑張ったんだからよ」


 まさか、怜が陸上部から水泳部に転部したのって……。


「怜、そういうことだったの? わたしのせいで陸上辞めたの?」


 怜はバツが悪そうに頭を掻いて答えた。


「お前のせいじゃなくて、みんなのためだよ」


 ……みんなの、ため?

 怜の言葉をあと押しするように、葵がお社から苦しそうな声を上げた。


「琴音、みんなあなたを助けるために何度も命を懸けたのよ。自分達の命を諦めても、あなたのことは決して諦めなかった。みんな、あなたのために繰り返し時を越えたのよ。その想いに応えてあげて! ちゃんと結弦に、自分の言葉で約束してあげて!」


 そんなの……無理だよ。言えないよ。
 言ったらみんながいなくなっちゃう。

 わたしはやっぱり素直になんてなれない!
 もうひとりぼっちになんてなりたくない!

 この期に及んで、わたしを苦しめた七年の歳月が立ち塞がってくる。

 でもここで逃げたら、結弦のしてくれたことが全部無駄になる。

 それに結弦の存在が消えたあと、またもし美輝と怜が時を越えてしまったら、それこそ不幸が連鎖する。

 そんなこと、もう十分わかってるはずなのに!


「琴音、頑張れ!」


 美輝が叫んだ。


「勇気出せ!」


 怜もわたしに声を張り上げる。

 結弦の身体はどんどん透けていく。

 そして、葵がわたしにその言葉を投げた。


「このままじゃ結弦が無駄死によ! あなた本当にそれでいいの?」


 いやだ……いやだ……。

 そんなのいやだ!

 結弦が無駄死にだなんて、そんなの絶対にいやだ!

 葵の叫ぶ声に、わたしの心の枷が砕けた。


「結弦を無駄死になんてさせない!」


 そうだ、全部選ぶなんてできない。

 わたしが自分勝手に命を粗末にしてしまったせいで、こんなことになったんだ。

 今更それを悔やんでも、今起きていることを変えることはできないんだから。

 だったらせめて、最後くらいみんなが望んだ結末にしなくちゃ。でなきゃ誰も救われない。

 結弦が命を削ってまで連れていってくれたみんなとの旅。

 それは決して無駄なんかじゃなかった。

 誰かのために、自分のために強くなると決めた。

 その決意がきっと今試されている。

 言葉が詰まる。

 涙と嗚咽が邪魔をする。

 でも――、

 ここで言わなきゃ誰も救われないし、救えない。

 ただ後悔が残るだけだ。

 だからみんなが見てる今ここで、その約束を口にするんだ!

 喉の奥につっかえている言葉を、なんとかみんなに届くように叫んだ。


「や、約束する……!」


 もっと、もっと大きな声で!


「わたし……強くなる! みんなの分も、これからは幸せに生きていく! 絶対そうなるように約束する!」


 ――言えた!

 結弦のために、みんなのために。

 涙で視界は歪んでいる。
 だけど、それでもわたしは、その約束をちゃんと口にすることができた。

 顔を拭って、結弦を見つめる。


「ありがとう、琴音。……好きだよ。そんな琴音が、ずっと大好きだったんだ……」


 希薄になっていく結弦は、淡く光る涙を流して笑っている。


「わたしも結弦が好き! これからもずっと大好き! 結弦のこと、絶対に忘れない!」


 喉が裂けるくらい、声を張り上げて叫んだ。

 伝えたいことはまだまだあるのに、結弦の体はどんどん透けていく。

 存在が消えてしまう瞬間が、もうすぐそこまで迫っている。

 ちゃんと言わなきゃ。伝えなきゃ。

 これが本当に最後なんだから。

 もう、結弦には会えなくなってしまうのだから。

 神様なんていない。宇宙に嫌われるとかどうでもいい。歴史なんて知ったことか!

 わたしが忘れさえしなければ、きっと結弦の存在はなくならない。

 なにが正しいかなんてわからないけれど、わたしはそう信じてる。

 そうすればいつか、たとえ遠い未来でもまた巡り会える。

 今一番大切なのは、結弦を忘れないと信じる心だ。

 そのためにも精一杯、結弦へ伝えよう。

 結弦が教えてくれたこの言葉のぬくもりを、最後にわたしから届けよう。


「ありがとう! 結弦!」


 ――わたしと、出会ってくれて。

 ――わたしに、優しさをくれて。

 ――わたしに、ぬくもりをくれて。

 ――わたしに、輝きをくれて。

 ――わたしに、思い出をくれて。

 ――わたしを、愛してくれて。

 ――そしてわたしに、命をくれて……。


 最後に贈る、七つのありがとう。
 それが結弦の勇気になるよう、願いを込めて届けよう。

 結弦からもらったもの。

 それは全部、強さだったんだね。

 これだけあるなら、もう大丈夫だよ。

 だから、きっとまた会おうね。

 わたしは決して、あなたを忘れたりしないから。

 生まれ変わっても、絶対あなたと巡り会ってみせるから。

 そうしたらまた、わたしと一緒にいてね。

 おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと一緒にいようね。

 今度こそ誰にも負けないくらい、たくさん幸せになろうね。

 いつか迎える最期のときまで、ずっと手をつないで、どこまでも歩いていこうね。

 それまで、ほんのちょっぴりお別れだね。

 結弦は、最後に微笑んで言った。


「琴音……。遠い未来で、きっと……また……」


 眩い七色の光が辺りを包んでいく。

 霞み消えていく結弦の後ろで、景色と共に遠くに離れていく美輝と怜が、わたしに笑顔で手を振っている。

 もう片方の手は、互いに固く繋がれていた。

 美輝、怜、本当にお別れなんだね。

 離れていくふたりから見えるように、笑顔で大きく手を振った。

 美輝と怜も見えなくなり、七色の光はどんどん白い闇に覆われていき、わたしはまた目を閉じた……。


 ――静かだ。


 背中に感じる僅かなぬくもり。

 うっすら目を開けると、見覚えのある女性が月の光を浴びながらわたしの顔を覗き込んでいた。


「……み、き?」


 呻くように声を出す。


「……あたしよ」


 美輝じゃない。

 美輝よりも少し低くてどこか懐かしい声。

 この声は、


「……あお、い」


 七年の時を越えて再会した大切な親友は、そのまま静かに告げた。


「美輝ちゃんと怜くん、無事に送ることができたわ」


 葵に預けていた体をゆっくりと起こす。

 そうか、美輝も怜も、もういないんだね。

 これでふたりは、あの繰り返す運命から解放されたんだね。

 もうふたりには会えない。

 でも、以前のような淋しさや悲しみはない。

 寧ろようやく眠らせてあげられたことに安堵している。


「うん、送ってあげてくれて、ありがとう」


 葵がいなかったら、わたしはまたここから飛び降りていたかもしれない。

 葵のお陰で、わたしの大切な親友達を本来いるべき場所へと還すことができた。


「琴音、これからどうするの?」


 ……どうしようかな?

 美輝と怜が繋いでくれたこの命。
 わたしはこれからの人生を精一杯強く生きていくと決めたんだ。


「あ、あのさ、琴音」

「……なに? 葵」


 葵は目を逸らして、少し頬を赤らめている。

 いつも強気な態度の葵が、こんな顔するなんて珍しい。


「も、もし、家に帰るのがいやなんだったら、あ、あたしの家に住まわせてあげてもいいわよ」

「……え?」

「ほ、ほら、あたし達もう友達じゃない? 美輝ちゃんも怜くんもいなくなって淋しいだろうから、あたしがなんとかできないかなって……思って」

「ぷっ……あはははは!」


 わたしなんかよりずっと大人だと思っていたのに、意外とツンデレな葵に思わず吹き出してしまった。

 それを見て、葵が目を細めて声のトーンを落とす。


「ちょっと……失礼じゃない?」

「あははは、ごめんごめん。だって葵、いつも大人ぶってるくせに急にキャラ変わっちゃうんだもん。おっかしい」

「うっさい! せっかく心配して言ってあげたのに、もういい! 好きにしたら?」


 怒ってそっぽを向いてしまった。


「ほんとに、ごめんね……」


 背を向ける葵にそっと近づいて、後ろからぎゅっと抱きしめる。


「ちょ、ちょっとあなた、なにしてるのよ」

「少しだけ……このまま」


 今の顔は見せたくない。

 大切な親友に、これ以上心配をかけたくないから。

 美輝と怜はわたしのために、その身を何度も犠牲にして頑張ってくれた。

 その苦しみから解放できたのは、葵のお陰だ。

 葵がいなかったら、わたしはまたここから飛び降りて、ふたりはまた過去を繰り返していたかもしれない。

 だから、葵にはどれだけ感謝しても足りない。

 それに決めたんだ。

 もうわたしは友達に心配をかけるようなことはしない。

 傷ついたり悩んでいる友達を、助けてあげられるくらい強く生きるって。


「ほんと素直じゃないんだから、琴音は。そんなんじゃ、ゆづるが浮かばれないわよ」


 その言葉で抱きしめていた腕を緩めて、ふたりして顔を合わせて声を重ねる。


「「ゆづるって、誰?」」


 誰かわからないけれど、とても懐かしい響きだ。

 その名前を口にするだけで、切なさが込み上げてくる。


「なんか今、ふいに口をついて出ちゃったんだけど……」

「葵の元カレとかじゃないの? なんかいっぱい彼氏いそうだし……」

「失礼ね! いないわよ!」


 葵の元カレはひとまず置いておくとして……、ゆづるって誰なんだろう。


 でも、いい名前だな。

 弦を結ぶって書くのかな?

 それならわたしは琴の音だし、なんだか運命的だ。

 名前しかわからないその人といつか会えるような予感と期待が、わたしの胸を密かに駆け巡る。


「さあ琴音。くだらないこと言ってないで、帰る前に美輝ちゃんと怜くんに挨拶していこう」

「うん、そうだね。今までありがとうって伝えなきゃ」


 葵に促されて慰霊碑の前で腰を落とす。


「あれ?」

「どうしたの? 琴音」


 暗くて気づかなかったけれど、慰霊碑の前に白い無地の封筒が置かれている。

 宛名以外、装飾も柄も入っていないとてもシンプルな封筒。

 それを手に取り月明りを頼りに宛名を見て、わたしは目を疑った。


『――琴音へ』


 わたしに宛てた、手紙……? 手の中にある封筒を葵が横から覗き込んだ。


「なに? どういうこと?」


 この封筒に見覚えがあることに気づいたわたしは、美輝と怜に宛てた手紙を持っていたことを思い出した。

 カバンの外ポケットを確認すると、そこには間違いなく二通の封筒が入っている。その封筒は慰霊碑の前に置かれていた物と同じ物だ。そしてその宛名を確認した瞬間、わたしはまた息を詰まらせた。


「これって……」


 わたしが美輝と怜に宛てて書いた手紙が、二通ともわたし宛てに変わっていた。


「ふたりに宛てて書いた手紙が、どうして……。どういうことなの? 葵」

「あ、あたしに訊かれてもわかんないわよ。巫女だからって、おかしなことが全部わかるわけじゃないんだから」


 訝しみながら手紙に目をやるが、その手紙からいやな感じはしない。

 寧ろどこか懐かしいような温かい気持ちになるのは、三通すべて宛名の筆跡に見覚えがあるからだ。

 遠い昔……。

 みんなでテストの反省をしたとき。

 授業中、美輝から回ってきた手紙。

 わたしの家に集まって試験勉強をしたとき。

 みんなの字を何度も何度も見てきた。

 この懐かしい字を忘れるはずがない。

 わたしはその三通の中から、一通を選んで左手に持つ。

 少し丸くてかわいらしい文字。

 これは美輝の字だ。

 ためらいながらも丁寧に封を切る。

 封筒の中から手紙を取り出す手が、小さく震えた。

 溢れそうになる涙をこらえて、わたしは便箋に書かれた文字を、ゆっくりと目で追い始めた。




【やっほー琴音!

 旅行楽しかったね。

 段々変わっていく琴音には驚かされてばかりだったけど、繰り返した世界の中で、わたしの一番の思い出になりました。

 一日目の夜は泣いちゃってごめんね。

 本当はもっと、これからもずっと琴音と一緒にいたかったんだけど、そんなにうまくはいかないよね。

 わたしはひと足先に、怜と一緒に新しい世界で頑張ってきます。

 そういえばさ、入学式の日のこと覚えてる?

 わたしと琴音は初対面のはずなのに、間違えて琴音を名前で呼んじゃったんだよね。

 変な子だと思われて避けられたらどうしよう、なんて焦っちゃったよ。

 でも何度出会っても、どんな出会いかたでも、琴音は変わらずわたしの親友になってくれたよ。

 もしも生まれ変わって遠い未来でもう一度出会えたなら、そのときはまた、わたしと友達になってね。


 今までありがとう。

 七年間、淋しい想いさせてごめんね。

 これからはずっと、幸せでいてください。  巡里 美輝 】




 封筒には、古びた写真が一枚同封されていた。

 夏祭りの前に浴衣を着てふたりで撮った写真だった。

 それを見た瞬間、全身を突き抜けるような切なさが込み上げる。

 写真には、朝顔の柄の浴衣に身を包んだ美輝が笑っていた。


 朝顔柄の浴衣の意味は……『固い絆』


 美輝という素晴らしい親友がいてくれたことを、わたしはこれからも誇りに思って生きていく。

 そしてわたしが着ている浴衣には、染め上げられた蝶の柄。


 その意味は……『長寿』


 美輝……、わたしも旅行楽しかったよ。

 大好きな美輝とずっと一緒にいられて、それだけでわたしは幸せだったよ。

 入学式のあと、おかしいなと思ったのは、繰り返していた証だったんだね。

 なんだか美輝らしいね。

 そんなちょっぴりドジな美輝が、わたしはずっと大好きだったよ。

 それにいつも明るくて美人な美輝は、今でもわたしの憧れなんだ。

 こんなすてきな人がわたしの親友でいてくれたことは、わたしの一番の自慢だよ。

 いつか未来で出会えたら、もちろんまた友達になろうね。

 今度こそ一緒に大人になって、ふたりでお酒を飲んだりしようね。

 そこでまた女子会もしようね。

 それまで少しの間、わたしはこの世界で頑張ります。

 だから美輝も、わたしの知らない世界で幸せになってね。


 ――写真の中で笑っている美輝へ、わたしは心で語りかけた。


 ……涙を堪えて、次の封筒を手に持った。

 とめはねはらいがしっかりとしている力強い怜の文字。




【神谷 琴音 様

 俺は筆不精っつーか、手紙なんて書いたことねえからよ。

 こんな書き方でわりいな。

 何度も過去に戻っていろんなこと体験できて、今思い返すと全部楽しかったよ。お前のおかげで水泳の面白さにも気づけたしな。

 あ、そうだ。

 いつか言ってた俺の夢、最後に教えてやる。

 俺は水泳部ですっげえ練習して泳ぎがもっとうまくなったら、みんなまとめて助けてやりたかったんだ。

 まあ、それは叶わなかったけどよ。

 あんだけ苦労してお前だけでも助けられたなら、今は満足だ。俺には美輝もいるしな。

 最後まで言えなかったけど、美輝と友達になってくれてサンキュな。

 あいつ毎回お前と友達になれると嬉しそうに報告してくんだよ。

 それくらいお前のことが大好きだったんだろうな。

 だからさ、もうあんまり泣くんじゃねーぞ。

 これからもずっと、元気でな。  時永 怜 】




 ――怜、ありがとう

 怜の叶えたいことって、みんなの夢だったんだね。

 そのために、あんなに一生懸命練習してたんだね。

 本当にありがとう。

 わたし、もう泣かないよ。

 怜と約束する。

 ふたりがいなくても、淋しくて泣いたりなんかしないよ。

 葵もいるし、それにふたりも見守ってくれてるってわかってるから。

 だから、わたしは大丈夫だよ。

 最後まで心配かけてごめんね、怜。



 ……そして、誰だかわからないけれど、懐かしさの中に愛おしさを感じる文字。


 意を決して、最後にその手紙の封を切った。




【琴音……。

 この手紙がちゃんと届くかどうか俺にはわからないけど、届くと信じて書き残します。

 きっと琴音は、この手紙を見つけても、誰からの手紙だろうって戸惑っているよね。

 この手紙を書いている俺は、もう存在していません。

 色々説明してもきっと琴音を悩ませるだけだと思うから、今の想いだけを記します。



 ――出会ってくれて、ありがとう。

 ――笑ってくれて、ありがとう。

 ――喜びをくれて、ありがとう。

 ――愛しさをくれて、ありがとう。

 ――勇気をくれて、ありがとう。

 ――涙をくれて、ありがとう。

 ――そして最後に、生きてくれてありがとう。


 もう琴音は悲しまないで。

 思い出せなくても、悔やんではいけないよ。

 琴音は誰よりも悲しんだんだから、次は誰よりも幸せになる番なんだ。

 だから、これからの日々を鮮やかに色づけて生きてね。

 琴音のそばには、きっと葵もいてくれるから。
 
 ふたりともありがとう。

 どうか、いつまでも幸せに……。  切継 結弦 】




「ゆづ、る……」


 ぽたぽたと落ちる涙が、手紙に染みを残していく。どうして忘れていたんだろう。わたしの大切な人。わたしを愛してくれた人。そしてわたしが、たったひとり愛した人。

 忘れないと誓ったのに。絶対また巡り会うその日のために……。

 ねえ結弦、わたしはもう大丈夫だよ。わたしは結弦にもらった命を大切にして、今度こそちゃんと生きてみせるよ。

 だから結弦も、わたしのもとに帰ってきてね。

 また会えたそのときに、わたしは笑顔であなたに言うよ。

 これまでにないとびきりの笑顔で、『結弦、おかえりなさい』……と。

 悔やむことはない。こうして思い出すことが出来たということは、結弦がまだ存在している証なのだから。

 手紙を読んだ葵も、思い出したように口を開く。


「なんで? 結弦は、存在を消されてしまったはずじゃ……。でも……ゆ、づる」


 葵もそれ以上言葉を紡ぐことができず、ふたりでその場にしゃがみ込んだ。


 わたし達は互いを慰め合うように、体を預けて泣き続けた。



 顔を落として泣いていたわたし達は、ふと湖面に映る夜空の異変に気がついた。

 ふたりして泣くのをやめて、空を見上げる。


「な、なによこれ? 夜なのに……どうなってるの?」


 葵は辺りを見渡して困惑しているけれど、夜空を見上げてわたしは笑顔がこぼれていた。

 みんな、ありがとう……。

 灰色だったわたしの世界に、色が戻ってきたよ。

 わたしの長くて暗い夜が、今ようやく明けたんだ。

 夜空のキャンバスを彩っているのは、もちろん結弦と美輝と怜。そして、葵とわたしだ。

 みんなで作った虹の架け橋……。

 戸惑う葵に、わたしはそっと伝える。


「葵……これはね、夏祭りのときにみんなで作った夜空だよ。葵もリンネから渡されたでしょ?」


 笑顔で泣いているわたしを見て、葵はふっと目を細めて笑った。


「そう……。そうだったわね」


 葵と肩を並べて、夜空を見上げる。

 これはきっと、みんなの命の煌めきだ。

 これからもずっと見失わないように、失くさないように、わたし達は生きていく。


 たとえ違う世界にいても、この星空の下で、わたし達は繋がっている。

 だから、与えられた命を大切にして、毎日を生きていく。


 きっと誰もが、誰かに支えられて生きているから。

 きっと誰もが、どこかで誰かに必要とされているから。

 きっと誰もが、ひとりじゃないから……。

 それをみんなが、命を賭けて教えてくれた。


 葵が夜空を見上げて呟いた。 


「きれいなものね……。夜空に架かる虹なんて」


 わたしは、それに自信を持って答える。


「みんなで繋いだ、命の架け橋だよ」


 見上げた夜空には、わたし達を包み込むように七色の虹が架かっていた。

 遙さんが言っていた七色峡の伝説は、真実だったんだ。

 あれだけ恐ろしく感じていた七色狭へ架かる虹。

 湖が虹に包まれ、水面は七色に煌めいている。

 結弦はまるでその名のとおりに、弦を結ぶようにわたしの命を繋いでくれた。

 それならわたしも、繋がれた弦を弾いて、幸せな琴の音を奏でよう。

 幸せという七色の音を、命の限り奏で続けよう。

 もう、ひとりの夜も怖くない。

 闇だと思っていた夜空にも、七色の虹が架かったのだから。


 ――わたし達はそのまま夜が明けるまで、夜空に架かった虹を眺め続けた。