「葵っ! ひどいっ! なんてこと言うの!」


 気づけばわたしは葵の胸ぐらを両手で掴んでいた。

 許せない!

 美輝も怜もいない?

 その上、結弦が消滅する?

 なんで?

 どうしてそんなことが言えるの?

 葵がこんな人だったなんて、信じられない!


「……落ち着いて」


 葵はわたしが掴む手を離そうとする。

 けれど、


「落ち着けるわけないじゃない! 自分がなにを言ってるかわかってるの?」


 全身の血が逆流して頭が沸騰する。

 そんなわたしとは対照的に沈黙する葵。

 その瞳にはどんどん涙が溜まっていく。


「あ、あたしだって……」


 言い訳するつもり?

 でもひどいことを言ったのはそっちだ。


「あたしだって! 平気じゃないのよ!」


 葵は溜めた涙を大粒の雫に変えて、地面に弾ませながら叫んだ。


「でもあたしが……あたしくらいはしっかりしていないと、あなたまたここから飛び降りるでしょ! そうしたら、結弦が命を賭してまでしたことが全部無駄になるじゃない!」


 わたしの煮えたぎっていた血は、葵の雄叫びで一気に冷えていった。

 それでも喉は焼けるように熱い。

 目の奥がずきずきする。

 泣きながら限界まで呼吸を我慢して、肺に空気を送り込むと、血液に乗った酸素が脳にいきわたるのを感じた。


 あぁ、そうか……。

 葵もきっとつらくて……なのにそれを見せないように我慢してるんだ。

 こんな状況でここに現れたのにもわけがあって、必死で踏ん張って立っているんだ。

 わかっていたのに憤りを怒りに変えて、それを葵にぶつけてしまった。

 ただの身勝手な八つ当たりだ。


「葵……ごめんなさい……。でも、これは一体どういうことなの?」


 冷静になったわたしを見て、葵も深く息を吸い込んでから答える。


「今言ったとおりよ……。結弦はあなたを助けるために、自分を犠牲にしたの……」

「わたしを……助けるため?」


 葵はまだ肩で息をしていて、霞に消えそうな声で続けた。


「あなた、さっきまで過去に行ってたんでしょ? そこであたしとも出会ってるってリンネから聞いたわ」


 そういえば、過去の葵も猫と話せるようなことを言っていた。


「あたしの家、天伽のお役目は聞いてる?」


 昨日お祭りの前に葵から聞いたので、よく覚えている。


「うん。未練を解消するために過去を繰り返している魂を送ってあげるっていう……」


 こくりと頷いて、葵は説明を始めた。


「まず、あなたは自分だけが過去に戻ったと思っているかもしれないけれど、実はそうじゃないの」


 たったのひと言目で、早速疑問が浮かんだ。


「ど、どういうことなの?」


 わたしは二十五歳になってから過去に戻った。

 だけど七年前に亡くなってしまっている美輝と怜は、タイムリープすらできないのではないか。

 そこまで考えてはっとする。

 天伽のお役目。もしかして――。


「結弦と美輝ちゃんと怜くん……。あの三人はね、ずっと過去を繰り返していたのよ」


 葵は目に涙を浮かべたまま、悲しげにその言葉を口にした。

 悪い予感が当たった。

 それは永久《とこしえ》の地獄だと言っていた。

 未練が解消できるまで繰り返し訪れる死。

 確かにあの事故は突然起きた。

 未練も後悔もあったかもしれない。

 それでも、呪われるほど強い未練が三人にあっただなんて……。


「三人の未練は……あなたよ」


 わたしが……三人の未練?


「うそ……そんなはず、ないよ……」


 そんなの、思い当たる節がない。

 みんなをこの世に留めてしまうほど、わたしはなにか大変なことをしでかしていたのだろうか?

 この世に強い未練を残したまま唐突な死を迎えてしまった魂は、未練を解消するまで過去を繰り返して永遠に生きる。

 それが昨日、駄菓子屋で葵に言われた言葉だ。

 そしてそれを導くのが、天伽のお役目……。


「どの時点に戻って繰り返していたのかは、本人達じゃなきゃわからないけど、おそらくあなたと出会った辺りの過去からやり直していたと思うわ」

「待って葵。あの三人にとって、わたしはどういう未練なの?」


 葵は空を見上げて、淡々と答えた。


「三人の未練は、弱いあなたをひとりにしてしまったこと。七色ダムへのバス転落事故から七年後の今日、あなたはここで自らの命を絶ってしまう。それをとめるために、彼らは過去を繰り返していたの」


 そんな……。

 みんなは何度も過去を繰り返して、その度にわたしを助けようとしてくれていたの?

 いや、なによりも――。


「湖の底に沈んでしまう恐怖や苦しみを、みんなは何度も体験していたの……?」


 本当にそうだとしたら、わたしはどう償えばいいのだろう。

 バスが落ちる感覚。

 水が迫る恐怖。

 徐々に湖底に引きずり込まれる絶望感。

 あんなの、本音を言えば人生で一度だって体験したくなかった。

 全身から血の気が引いて、顔が青ざめていくのがわかる。


「あなたの命を繋ぐために、過去に戻っては寄り添って、たくさんのことを試みた。だけど、どうしても七年後のあなたをとめることができなかったの。あなたがここから飛び降りる度に、彼らは過去に戻ってやり直していたのね」


 ――なんてことだ。
 わたしのせいだった。わたしが馬鹿なことをしたせいで、みんながずっと苦しんでいた。

 ひとり残された世界で、わたしも被害者のような顔をして生きていた。
 だけどみんなは、そんなわたしを心配してくれて、わたしを助けるために何度も何度も怖い思いをしていたんだ。

 本当の被害者はわたしじゃなくて、みんなのほうだったのに。


「それなら、事故を避けてみんなと旅行に行けた過去。あれはなんだったの?」


 でも今は冷静にならなきゃ。宣告が絶望的なときほど、人は冷静でいられると聞いたことがある。今ここで泣いて投げ出しちゃいけない。ちゃんと葵から真実を訊いて、わたしはわたしのできることをしなくちゃ。

 不思議なことがたくさん起きている。
 それならみんなを助ける糸口だって、まだ見つけられるかもしれない。

 希望を見失わないように言い聞かせて葵の返答を待っていると、葵はふいっと目を逸らして言った。


「あれは結弦が書き換えた過去の世界。そしてそれが、この世界から結弦が消えていなくなる原因」


 その言葉と同時に、わたしの頬から一筋の涙が地に落ちた。

 まだ、できることがあると思った。
 こんな不思議なことが実際に起きているのだから、まだ、助けられると思った。

 なのに、あんなに楽しかった思い出が、わたしと過ごしたあの三日間が、結弦から命を奪うというの?

 もうわけがわからない。
 どうすればいいかも全然わからない。
 わたしはどこまでも、ただみんなを苦しめることしかできないのか。

 心を置き去りにしてしまいそうなわたしを無視して、葵は淡々と説明を続ける。


「どれだけ過去を繰り返してもあなたを助けられなかった結弦は、パラレルワールドと呼ばれる平行世界の過去を書き換えて、今までになかった未来を創りだした。そこへあなたを連れていったのよ」


 パラレルワールドということは、あの三日間はこの世界とは違う世界での出来事だったのだろうか。そう考えると益々納得がいかない。


「でも、わたしは元の世界に戻って来たのに、なぜ結弦が消滅しなくちゃいけないの?」


 次々と沸いてくる疑問。
 葵はそれをひとつずつ的確に答えていく。


「平行世界には、ちゃんとその平行世界の住人がいる。あなたはそこのオリジナルじゃないもの、長くは存在できない。にも拘わらず一時的にあっちに行けたのは結弦のおかげよ。方法はわからないけど、まさに奇跡ね。けれど、あなたを別の次元に送り込んだことと、ひとつの世界を書き換えて宇宙の理をも歪めてしまった結弦は、その代償として、命だけじゃなくて存在さえも消されてしまう。もうすぐあたし達の記憶からも、結弦は消えてしまうわ」


 結弦が消える? 命だけじゃなくてその存在まで? それも、わたしを助けたために。


「結弦は自分を犠牲にしてまで、わたしを旅行に行かせたの? どうして……なんでそんな無茶を!」


 堪え切れずに、また涙を流してしまう。


「過去を繰り返して、どんなことをしてもあなたの死を防げなかったからよ。どれだけあなたがあの事故までに精神的に強くなっても、それ以来ずっと淋しさを募らせて、今日になるとここから飛び降りてしまう。死の運命を変えるなんて、過去から未来へ因果が繋がっている以上、普通はできないからね。だからあなたに最高の思い出になるような、幸せな時間を過ごさせてあげたかったのよ。それでなにかが変わると、そう信じていたんでしょうね」

「そんなの……いやだよ。そんな話信じたくない!」

「あたしの後ろにあるのが、あなたが目指していた慰霊碑よ」


 葵の後ろに目をやると、見覚えのある慰霊碑が建っていた。
 いや、本当は言われなくても気づいていた。気づいていたけれど、見えないふりをしていた。


「いやだよ葵。こんなのってないよ。せっかくみんなとまた会えたのに、本当はいないだなんて。それに結弦が消えちゃって、結弦との思い出もみんな忘れちゃうだなんて、そんなのわたしいやだ!」


 立っていられず、思わず膝から崩れ落ちた。

 涙が止まらない。

 こんなことになるくらいなら、わたしもあの事故のときに死なせてくれたらよかった。

 なぜわたしだけ生き残ってしまったんだろう?

 どうしてみんなと一緒に死なせてくれなかったんだろう?

 そんな考えが頭の中を醜くうごめいている。


「琴音さん……顔を上げて」


 葵が膝を落として、わたしの顔を覗き込む。


「そのトンボ玉、過去のあたしから貰った物でしょう?」


 葵の問いかけに、わたしは首に下げたトンボ玉を握りしめて泣きながら頷いた。


「リンネから聞いてるわ。向こうの世界のあたしも、全部わかっていたのね。だからあたしがここにいることにも、ちゃんと理由がある。天伽の巫女として、あなたの命もみんなの魂も、あたしがきっと救ってみせる」


 そう言うと、葵はわたしのトンボ玉に手を添えてなにかを唱え始めた。

 また意識が遠のいていく。

 今度はどこに行くんだろう?


 もうどこでもいい。

 このまま眠り続けていたい……。