【わさび小僧】を完食すると、それからはたくさん遊んだ。
お菓子も食べたしジュースも飲んだ。
結弦のお祖母さんが撮ってくれた浴衣写真を見て、怜が「グラビアみてえ」とけらけら笑ってからかっていた。
結弦はウノとオセロを持ってきていて、普段はしないことが特別な遊びみたいに思えて楽しかった。
ゲームが苦手な結弦は何度もビリになった。
だからわたしとペアを組んで、美輝、怜ペアと闘う。
ゲーム大好きなふたりのペアにはそれでもやっぱり勝てなかったけれど、夢中になって何度も挑んだ。
――辺りはしんと静まりかえり、気がつけば深夜になっていた。
「もう、こんな時間か」
結弦があくびをかみ殺して言った。
「朝までってわけにもいかねえな。今日すっげえ動いたし」
怜はキャンディーを口にしたまま、大きなあくびを惜しげもなく披露する。
美輝は半分眠っているのか、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
「美輝、そろそろ部屋に戻ろうか」
美輝の肩をとんとんと叩くと、眠そうに目を擦って小さく頷いていた。
疲れているときの美輝は小動物みたいでかわいい。
「じゃあ、そろそろお開きにしようか。明日は八時に朝食だから、頑張って起きるんだよ」
「うん、結弦も怜もおやすみ。また明日ね」
「あぁ、おやすみ」
結弦に続いて、美輝と怜も「おやすみ」と挨拶を交わす。
本当は名残惜しい。
けれど、ずっとこうしているわけにもいかない。重くなった足をなんとか踏み出して、わたし達は部屋へ戻った。
部屋に戻ると一気に眠気が押し寄せてくる。
美輝と励ましあいながらなんとか洗顔と歯磨きを終えると、そのまま布団へと倒れこんだ。
「……ねえ、琴音」
電気を消すと、布団で口を覆ったようなくぐもった声で美輝がぽつりと呼びかけてきた。
「なに?」
美輝がころんと寝がえりを打ち、上目遣いで覗き込むようにわたしを見つめてくる。
「一緒に寝ようよ」
やっぱり美輝はかわいい。
たまに見せる子どものようなあどけなさに、胸がときめく。
嬉しかった。
断る理由なんてない。
ただひとつ気になるとしたら、わたしの寝相の悪さだけだ。
「もちろんいいけど、わたし寝相悪いよ?」
くすくすと笑う美輝が、「気にしないよ」と言って布団に潜り込んでくると、わたしの背中に手を回してきた。
わたしも同じように美輝の背中に手を回す。
美輝の体はふわふわしていてまるで猫みたいだ。
美輝の吐息と体温が、わたしの中に溶けていく。
わたしの鼓動と美輝の鼓動が、重なりあって混ざりあう。
それはふたりが確かに生きて、ここにいる証だ。
美輝のぬくもりは安らぎとなり、わたしはたちまち安息の眠りに誘われていった。
眠りに堕ちるまどろみの中、意識が途切れる寸前に美輝の声が聞こえた。
「琴音……。きっと、忘れないで……」
重いまぶたを僅かに持ち上げて窓に目をやると、お祭りで取ったわたしと美輝のヨーヨーが、静かに仲よく揺れていた。
―― 二〇二二年 七月十八日 月曜日 ――
旅行最終日の早朝。
わたしは目覚ましのアラームよりも先に起きて、美輝の寝顔を眺めていた。
長いまつげ。
綺麗にとおった鼻筋。
すやすやと寝息を立てている美輝の寝顔は、アンティークドールのように整っていて美しい。
その寝顔をしばらく眺めて、わたしはそっと布団から抜けだした。
歯磨きを済ませ冷蔵庫からお茶を取り出して喉を潤す。
夜が明けきらない薄暗い空は、まるで違う世界に飛ばされたかと錯覚するような静けさに包まれている。
結弦はまだ眠っているだろうか?
スマホの画面をタップして、かけ慣れた電話番号を呼び出す。
こんな時間に迷惑かな?
でもちょっとだけ、結弦の声が聞きたいな。
少しためらいがちに通話と書かれた表示をタップした。
コールが長くなる前に切るつもりだった。
にも拘わらず、一度目のコールを終える直前。
『……もしもし』
電話越しの声に、安心と同時に緊張が襲いかかる。
寝起きだったのだろうか?
その声はいつもより少し曇っていた。
『どうしたの琴音。こんな朝早くに』
「ううん……ごめんね。なんだか声が聞きたくなって」
『そっか』という乾いた返事と共に無言の時間が訪れると、いつものように結弦から話し始めてくれた。
『……琴音』
「なに?」
『海に行かないか?』
「いいけど、今から?」
『朝日が見たいんだ』
電話していいかどうかも不安だったのに、またふたりきりになれるなんて。
「嬉しい……もちろん行きたい」
『じゃあ、今から部屋を出てきて』
「わかった。すぐに行くね」
通話終了の表示をタップし、美輝が眠っていることを確認してからそっと障子を開けて部屋をあとにすると、既に結弦は部屋の前でわたしを待ってくれていた。
皆が寝静まった館内をふたりで歩く。
大きくて暖かい手をしっかりと握り返して、なるべく足音を立てないように旅館から抜け出した。
坂道を下って海岸へ着くと、遠くの海からは朝日が顔を出し始めている。
「すてき……。ねえ結弦、きれいだね」
太陽が徐々にその姿を現して、穏やかな日差しの温もりと共に今日を運んでくる。
まるで世界の始まりみたいだ。
結弦は眩しそうに目を細めて、その光景をじっと眺めていた。
彼方ではなく、その瞳はしっかりとそこに輝く光を捉えている。
やっぱり電話してよかった。
こんな景色を結弦と見られるなんて、これ以上の贅沢はない。
瞳に映る鮮やかな情景が、わたしの幸せを称えているみたいに思えて誇らしい。
朝日に照らされてきらきらと白波が輝いている海。寄せては返す波の音に耳を澄ませていると、結弦が静かに「……本当にきれいだ」と呟いた。
「海から昇る朝日って、力強いね」
「琴音もあの朝日くらい、強くなれたかな?」
「わたしはあんなにも眩しく輝けないよ」
旅行で色々なことを経験して以前よりも前向きになれたとは思うけれど、この朝日の輝きに比べるとわたしの変化なんてとてもちっぽけだ。でも、だからこそまだまだなんだってできるような、そんな気もする。
しばらく黙って朝日を眺めていると、結弦がぽつりと言った。
「琴音にひとつだけ、約束してほしいことがあるんだ」
結弦は太陽に負けないくらい、力強い眼差しを海に向けている。
同時にその目には悲壮感が宿っているようにも思えてきて、わたしにはかける言葉も返す言葉も見つからなかった。
「この先どんなにつらいことがあっても、琴音は絶対に生きるのをやめないでくれ」
「え? ……それってどういうこと?」
急にどうしたんだろう。
でも結弦は真剣にわたしの答えを待っている。
その瞳から想いの強さが伝わってくる。
「生きるって、約束してくれ」
さっきよりも大きく、少し強い口調で結弦は言葉を口にする。
戸惑いながらもわたしはその約束に応じた。
「も、もちろんだよ、死ぬわけないよ。わたしこんなに幸せなのに、みんなを残して死んじゃったりなんかしないよ」
結弦は下唇を噛んで、徐々に空へと浮かび上がる太陽を睨みつけている。
なにかあったのだろうか?
その声と、交わした約束に、例えようのない不安を感じた。
「だったら結弦も約束してよ。わたしを残していなくなっちゃったりしたらいやだよ。ずっと一緒にいてね。一緒に生きて、わたしがおばあちゃんになっても、ずっとそばにいて……」
声が震えていた。
結弦の約束とは論点がずれているかもしれない。
だけど、訊かずにはいられなかった。
そんなわたしに、結弦はなにかを決意したようにはっきりと告げる。
「ごめん、その約束はできない……」
頭の中が真っ白になる。
今まで結弦がわたしを拒んだことなんてなかった。
たまに困らせることはあったかもしれないけれど、最後には優しく笑いかけてくれていた。
それなのに……。
「……どうして?」
戸惑いが滲んで、微かに震える唇をなんとか動かして小さな声を絞り出すと、結弦は苦しそうに顔を歪ませて言った。
「未来は……どうなるかわからない」
その言葉に、堪えていた涙が溢れ出した。
「わかるよ! わたしはずっと結弦が好き! わたしの気持ちはこれからも絶対変わらないよ! だから、そんなこと言わないでよ……」
ここで泣いたら結弦に嫌われてしまう気がして怖かったけれど、流れてしまった涙は抑制が効かず、とめることができない。
「琴音が変わらなくても、未来の俺がどうなるかなんて、わからないだろ……」
まるで鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。
急にどうしたの?
なにがあったの?
なんで?
どうしてそんなこと言うの?
こんなの、いやだ。
わからない。
納得、できないよ……。
「わたし、結弦になにかした? もしそうならちゃんと反省するから。結弦の気が済むまで謝るから……だからお願い、ひとりにしないでよ。もう困らせたりしないから、ずっとそばにいるって、そう言ってよ」
激しい感情が、涙とともにあふれ出す。
「そんなんじゃないよ。琴音が気にするようなことなんて……なにもない」
悔しそうな表情と少し投げやりな声。結弦はそのトーンを変えないまま、「でも……」と続きを口にした。
「俺はきっと、琴音のそばにいられない」
……聞きたくなかった。
結弦の声色が、氷のように冷たいその言葉が、わたしをはっきりと拒絶しているみたいだ。
天邪鬼とか照れ隠しとか、そんなんじゃない。
結弦の強い意思の言葉。
それは他でもないわたしに向けられている。
求めるほどに注がれ続けた、愛した人からの愛情。
それがこんなにも突然に途絶えるだなんて、想像もしていなかった。
わたしはたった今、愛を失ったの……?
ほんとうにもう、戻れないの……?
「あぁ……、うぅ……」
泣きながら、縋るように結弦に手を伸ばそうとするけれど、その手はきっと、もう掴んでもらえない。
「たとえ俺がいなくなっても、琴音は幸せに生きるんだ」
結弦に伸ばした手が動きを止める。
蛇のようににじり寄っていた腕は行き場を失い、だらりと岩の上に垂れた。
あぁ、そうか……。
わたしは今、結弦に振られているんだ。
ひとりになって別の幸せを探せと、そう言われているんだ。
朝日に浮かれて子どもみたいにはしゃいで、みっともなくて馬鹿みたい。
でも、思い当たるふしはある。
敵わない。
もう、どうしようもない。
――天伽葵。
やっぱり彼女のことが忘れられてなかったんだろうな。
昨日話しているのを傍から見ていても、ふたりにしかわからないなにかがあった。
わたしが割って入ることができない、なにかが。
それならもう、仕方ない。
高校一年からの付き合いのわたしなんかより、彼女のほうがずっと長く結弦といたんだから。
きっと彼女のほうがわたしなんかより結弦のことを理解している。
一緒にいた時間の長さと重さは、そう簡単に埋められるものじゃない。
瞬きもせず、折れたように垂れた腕を見つめていると、結弦との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。
わたしが結弦からもらったものって、どれくらいあったのかな?
穏やかな安らぎ、優しい時間、ぬくもりに触れる喜び、遊ぶ楽しさや人を想う心の強さ、仲間達との思い出……。
挙げるときりがないけれど、全部わたしの宝物だ。
結弦からもらった幸せな夢。
これ以上叶うことはないけれど、せめて去り際だけは潔くしたい。
思い出の中にある輝きがこれだけあるなら、きっともう十分だ。
「……わかった」
俯いていても、肌に感じる陽の温もりが鬱陶しい。
さっきと変わらないのに、すべての景色が違って見えるのが不思議だ。
優しく感じていた潮騒も、今では騒音のように喧しい。
目の前に広がる果てしない空と海は、なにも変わらずにその澄み切った青を称えている。
けれど、その青色すら煩わしい。
数分前まで心を弾ませた海が、今では荒れた砂地のようだ。
これ以上、結弦を苦しめたくない。
そう決意して右手で力強く涙を拭い、すっくと立ち上がった。
「今まで……ありがとう」
端的に告げ、海に背を向けて躊躇いなく走り出す。
背中にわたしの名を呼ぶ声が僅かに届いたけれど、振り返らずに走り続けた。
旅館に戻ると、物音を立てないように注意して部屋に入った。
眠っている美輝を起こさないよう静かに帰り支度を済ませ、書き置きを残して部屋を出た。
一階からは話し声や微かな足音が聞こえる。
誰かに見つかったらどう言いわけしようかと考えていたけれど、誰にも気づかれずに旅館から出ることができた。
夏祭りで取ってもらったヨーヨーは、窓際にぶら下げたまま持ってこなかった。
これから色をつけていくというのはこういうことだったのかと思うと、持ってくる気になんてなれない。
宿から少し離れた場所で立ち止まり、帰る方法を調べてみたが、田舎の始発がそんなに早い時間にあるはずもない。
スマホの電源を切り、行き場をなくしてあてもなく彷徨っていると、昨日来た駄菓子屋にふらりと辿り着いた。
首元のトンボ玉にそっと触れると、冷たいガラスの感触が伝う。
これの元の持ち主である葵ちゃんは、『その時がきたら会いにいく』と言った。
あれはこのことを暗示していたのだろうか?
だとしたらちょっと悔しい……。
駄菓子屋の前で足を止めて立ち尽くしていると、店のシャッターがガラガラと音を立てて開き、その音に体をびくっと震わせた。
「いらっしゃい」
シャッターを片手で支えた葵ちゃんが、まるでわたしが来ることをわかっていたかのような口調で言う。
「わたしが来たって、どうしてわかったの?」
葵ちゃんに訊いたのに、奥から見覚えのある猫が顔を出して「ナア」と返事をした。
「この子が教えてくれたのよ……。ふわあああああっ……あふぅ」
欠伸を晒して葵ちゃんが言ったこの子とは、わたし達の前に何度も姿を見せた黒猫のことだった。
わたしをからかっているのかと、すこしムッとして頬を膨らませてみせるが、葵ちゃんは気にせずに続ける。
「あ、これあたしのなんだって? ありがとう。この色すてきね、気にいったわ。琴音ちゃんが取ってくれたの?」
そう言って取り出したのは、昨夜の神社でこの黒猫に奪われたヨーヨーだった。
「それは怜が取ったもので、わたしが預かってたの。ていうか、猫の言葉わかるの?」
猫が教えてくれたなんて本気で言ってるの?
巫女は猫を使い魔にでもしているの?
それならもう巫女じゃなくて魔女じゃない。
葵ちゃんはわたしの疑問を小馬鹿にするようにくすくすと笑うと、問いかけには答えずに言った。
「そんなとこに突っ立ってても仕方ないでしょ。あがって朝ご飯でも食べていきなさいよ」
行く宛もなかったし少しばかり文句を言いたい気分にもなったので、「お邪魔します」と少々無愛想な挨拶をしてから、家の中へとあがらせてもらう。
古い家屋に田舎の部屋。六畳ほどの和室には床の間に掛け軸が飾ってある。
こんな朝早くに昨日初めて会った恋敵の家で朝ごはんをいただくなんて、わたしはなにをしているんだろう。
ふいに自分のしていることがおかしく思えた。
やっぱり変だ。
「あの、やっぱりわたし帰ろうかな。朝早くにごめんなさい」
「なに言ってんのよ。まだ電車も動いてないでしょ。それにあなたも、あたしに話があるんじゃないの?」
どきっとして台所に目を向けると、葵ちゃんはトントンと包丁を刻むリズムに乗せて鼻歌を歌い始めた。
なんて鋭い人なんだろう。
でも、考えてみるとわたしが勝手にヤキモチを妬いているだけだ。
これのなにをどう話せばいいの?
惨めで、情けなくて、かっこ悪くて、言えるわけがない。
「先に言っておくけど、結弦とはなにもないわよ」
……え? もしかして心読まれた? なにをどこまで知ってるの? これも猫が教えてくれた、なんて言うつもり?
縁側で気持ちよさそうに顎を蹴る黒猫を見て考えていると、ジューっと鉄板にたまごを落とす軽快な音が響いた。
同時にいい香りが鼻腔をくすぐってくる。
「これはあたしの想像だけど」
たまごを炒める音に負けないようにか、葵ちゃんの声はさっきより少し大きい。
「結弦はあなたに、もう一緒にいられないとか、そんなこと言ったんじゃない?」
図星だ。
どこに間違いがあろうか。
句読点でいちいち声が大きくなるのが、呆れられているみたいに聞こえて感じが悪い。
「でも、その言葉の意味をあなたはわかっていない」
なにそれ? 嫌味? わたしはちゃんとわかってる。結弦はもうわたしを好きじゃなくなったから、葵ちゃんのことが好きだと気づいたから、だからわたしに別れを告げたんでしょ。
「ちゃんとわかってるよ。あなた達がどれほど仲がよかったかなんて。昨日の見たら、わかるもん」
不貞腐れ気味な声で、ささやかな抵抗を試みる。
「ほらわかってない」
朝ごはんを運んできた葵ちゃんがお皿をテーブルに置いて、またもや呆れ気味な口調で言った。
なにが、『わかってない』なの。そっちこそわたしの気持ちをわかってない。
わたしは益々ぶすっと不貞腐れた。
「残り物でごめんね」
そして用意してくれたメニューへの謙遜。
性格がいいのか悪いのかわからない。
玉子焼きはたった今作ってくれたもので、お皿の隅にはお漬物が添えてある。
葵ちゃんはそのまま台所へ戻ると、次は具沢山のお味噌汁を持って来てくれた。
これが昨日の残り物なのかな……。
気づけば朝ごはんの話に戻っている。この子のペースに翻弄されちゃだめだ。
「あ、ありがと」
続きを聞きたいのに、次々と運ばれてくる残り物と称したおかずに言葉が詰まってなにも言えない。
里芋の煮っころがし、ふきの青煮、アジの干物、梅干しと焼きのり。……どれもおいしそう。
最後に山盛りのごはんがどんっと置かれたところで、違う疑問が湧いた。
「あの、他の御家族のかたは?」
「お父さんとお母さんは海外出張中でいないわ。おばあちゃんは畑よ。いただきまーす」
「そうなんだ……」と呟くと、わたしも両手を合わせて「いただきます」と言い、用意してくれた朱色のお箸を手に持った。
「琴音ちゃん。結弦ってさ、そんな簡単に違う子を好きになるような人だと思う?」
葵ちゃんがお箸で上手に持ち上げた里芋を、ひょいっと口に入れる。
「懐かしい幼馴染みと再会したくらいで、恋人を捨ててその子に走るような人?」
「ううん……」
首を横に振ると、玉子焼きをひと切れ口に放り込む。
わたしの家の味付けとは違い、天伽家の玉子焼きは甘かった。悲しいはずなのに、その甘くて優しい味わいに顔が綻ぶ。
「もし仮に結弦がそんな奴だとしたら、あたしは結弦を軽蔑するし、結弦もそれをわかってるわよ」
またなにも言えなくなったわたしは、ごはんを海苔で巻いて無理やり口に詰め込んだ。
お腹が膨れてくると、徐々に気持ちが上向いていくのを感じる。
「結弦に本当の理由を聞いてごらん。今ならまだ間に合うわよ」
まるで結弦がなにか隠しているような言いぶりだ。
わたしは里芋をお箸で突き刺し、口に放り込んで訊ねた。
「葵ちゃんは、なにか知ってるの?」
大きな里芋に口をもごもごさせていると、葵ちゃんはずずっとお味噌汁をすすり、ほぅっとため息をつくように息を吐いた。
「直接知ってるわけじゃないわ。でも、わたしの考えが正しければ、おそらく今日の正午がリミットなんでしょうね……」
葵ちゃんは黙々と朝ご飯を口に詰め込んでいく。
もう一度お味噌汁に口をつけてお椀を置くと、わたしのほうへ体を向け直した。
「琴音っ!」
「はいっ!」
突然強い口調で名前を呼ばれて、驚いて返事をする。
「結弦のところに行ってあげて。そしてもう一度、今度はちゃんと話を聞いて。この世界で彼の心を救ってあげられるのは、あなたしかいないの。もうあまり時間はないけど、今ならまだ間に合うわ」
わたしを睨むように言い放つ葵ちゃん。
その瞳はなにかを託すような鋭い眼光を覗かせている。
でも……。
「そんなこと言ったって、わたしは結弦に振られたんだよ。これ以上未練たらしいことしたくない」
葵ちゃんは首を垂れて、はあーっと大きなため息を吐いた。
「だ、か、ら! あなたほんとに結弦に振られたの?」
「え……?」
「あなたと別れたいとか、あなたのことが好きじゃなくなったとか、他に好きな子ができたとか、結弦は琴音にそんなことを言った?」
結弦の言葉を思い返す。
あのとき結弦は、なにがあっても生きる約束をわたしに求めた。
それを約束する代わりに、わたしも結弦に生きてそばにいることを約束してほしかった。
それを結弦は、できないと言った。
「そのときの結弦どんな顔してた? つらそうじゃなかった? それはあなたに別れを告げたから? そうじゃないとしたら、他になにか理由があった。そう思わない?」
確かに結弦は決意の奥に、苦しい表情を見せていた。
「きっと今、一番つらいのはあなたじゃないわ」
「まさか……」
一連のやりとりの不審な点に気がつくと、手に嫌な汗が滲んだ。
「もしかして結弦は、生きる約束ができなかったの? 今ならまだ間に合うって、そういうことなの?」
声が震える。
いつの間にか朝ごはんを食べ終えた葵ちゃんは、目を瞑ってお茶をすすっている。
「ねえ教えて。葵ちゃんはなにを知っているの?」
「葵でいいわよ……。そうね、こんなことをしでかした以上、もう結弦を救ってあげられるのは、あたしでも美輝ちゃんでも怜くんでもない。きっと、琴音だけなのよ。あなたさえ結弦を忘れなければ、きっと……」
葵ちゃんは悲しそうに俯いている。
その言葉を聞いたわたしは、荷物を抱えてすっくと立ち上がった。
「あーあ、こんなに残してくれちゃって」
「ごめん葵。でもわたし、行かなきゃ」
葵はふうっとため息をつくと、少し嬉しそうに言った。
「いいわよ。その代わり次会ったら奢ってね。たとえあたしが忘れていたとしても、ね」
「もちろん! 朝ごはん残しちゃったけど、おいしかったよ。ありがとう」
行け行けと言わんばかりにひらひらと手を振っている葵に、「また会いにくるね」と告げて、わたしは旅館へと元来た道を走った。