二人は小墾田宮を出ると飛鳥川ぞいに、南方に向かって馬を走らせた。椋毘登曰く、彼はいつもこの道を通って、自身の家に帰っているとのことだ。

 そしてさらに走っていくと、蘇我の住居近くまで彼らはやってくる。飛鳥寺は小墾田宮から割と近い所にあるが、住居の方は飛鳥川の近くに建てられていた。

「一旦、蘇我の住居に馬をおいていこう」

 椋毘登はそういうなり、稚沙を住居のそばに待たせてから、厩に馬を戻しにいく。そしてその後は二人で歩いて川沿いへと向かった。

 今は夕方過ぎているからか、辺りの空気も少しひんやりしていた。また辺りからは、初夏に吹く草木の匂いがただよってきている。

「風も吹いてきて、凄く心地が良い」

「ああ、そうだな。蛍は暗くなるまではどこかに息を潜めているから、もう少し待たないといけない」

 今日は帰りが遅くなることを考え、彼は蘇我の自宅に戻ったときに、松明を持ち出してきていた。これなら暗さもしのげるだろう。

「それに天気も良いから、蛍もきっとたくさん見られるわ」

 稚沙も蛍が見られることにとてもウキウキしていた。そしてそんな彼女の様子を、椋毘登も優しく見つめている。

 そして辺りはだんだんと薄暗くなり、夜の景色へと変わはじめた。
 2人には川を流れる波音と、草木にいる虫の声だけが聞こえてくる。

 すると椋毘登がふと稚沙の手を握ってきた。手からは彼自身の温もりがじかに伝わってくる。本人は何も話さないが、きっと辺りが暗くなってきたので、彼女と離れないようにしたかったのだろう。

(でも、こうやって手を握っていると、何だか安心する...)

 稚沙は彼の肩に少しもたれかかって、辺りを見渡した。こんな変わりばえのない物静かな風景でも、2人でいると何とも素敵に思えてくる。

 そんなふうに稚沙が思いに浸っていると、横から椋毘登が静かに口を開いた。

「ひさかたの、月てらすのは、夜の衣、我と見つめる、恋しかるべき」

(月が照らす夜の景色は永遠だ。それを一緒に見るつめる人は、愛しい人に違いない)

(え?)

 稚沙は思わず椋毘登の顔を見上げた。すると椋毘登は少々照れくさいのか、思わず顔を横に向けて話す。

「こういう時ぐらいは歌の一つでも詠めたら、稚沙が喜ぶかと思って、ちょっと考えてみたんだ」

「椋毘登が、私のために...」

 椋毘登のそんな計らいを知って、稚沙は嬉しさのあまり彼の胸に抱きついた。これは彼女にとって、単なる練習ではなく、初めて彼から貰えたちゃんとした歌だ。

「ありがとう、椋毘登。私凄く嬉しい!」

 そんな稚沙に対して、彼は自身の照れを見せながらも、彼女の頭を優しく撫でてくれた。その優しさが彼女には泣きたいぐらいに嬉しかった。


 2人がそんなやりとりをしていると、いよいよ周りが暗闇に包まれ始めた。

『稚沙、周りを見てごらん』

 椋毘登は突然、彼女の耳元でそう静かにささやいた。

 彼にそういわれて、稚沙はふと辺りを見渡す。
 するとあちらこちらから、ふわっと黄緑色の光が現れはじめた。

「あ、蛍だわ」

 彼女はその蛍の輝き見て、ふいに興奮しそうになる気持ちを何とか抑えて、静かに眺める。

(本当にすごく綺麗...)

 一方の椋毘登も稚沙の肩にそっと腕を回し、そのまま彼女を自身に引き寄せてきた。

(たまにはこういうのも良いかも。えへへ) 

 蛍も2人の周りをビュンビュンと飛んでいて、何とも幻想的な光景である。

(あ、そうだ。せっかく椋毘登といるんだし、この間のことを話してみようかしら)

「ねぇ、椋毘登、ちょっと話したいことがあるんだけど」

「うん?」

「実は先日、摩理勢様と偶然会って、それでいわれたんだけど」

「は、叔父上!?」

「うん。椋毘登は、いつもどうすれば自分の立場を守れるかを考えていると。そして私を手に入れたら、馬飼としての額田部と繋がりが持てるって」