今日は稚沙(ちさ)椋毘登(くらひと)と一緒に、蛍を見にいく約束した日である。本来であればとても心をおどらせ、浮き立つ思いに駆られることだろう。

 だが先日の境部摩理勢(さかいべのまりせ)とのやり取りがあったばかりなのため、彼女は今釈然としない心持ちでいる。

 (椋毘登には、境部摩理勢と会ったことはまだ話してない)

 あんな恐ろしい思いをしたことなど、できることなら彼には話したくない。
 もし実際に話してしまえば、彼は自身を追い詰めてしまうかもしれないと、稚沙は思った。

 だがそれとは別に、この日を楽しみにしていたのも本心で、この件で余りクヨクヨもしたくなかった。

「こら稚沙、いつまでも悩んでいても仕方ないでしょ!ちゃんと気持ちを切り替えないと!!」

 彼女は自信を奮い立たせるため、両手を思いっきりグーにして声を上げた。ここは己に喝を入れて、一刻も早く立ち直りたいものである。


 今日は椋毘登が小墾田宮(おはりだのみや)まで、稚沙を迎えにやってくる手筈になっている。
 なのでそんな彼がくるのを、彼女は今か今かと待ちわびていた。

「でも椋毘登って、本当に遅刻することが少ないのよね。私なんて待ち合わせの場所にはよく遅れてくるから....」

 これは本人曰く、自身が遅刻して稚沙を不安にさせたくないとのことだった。

 それは過去に、彼女が厩戸皇子(うまやどのみこ)との待ち合わせで、皇子がこられなくなった時のこと。彼女は危うく柄の悪い男たちに連れて行かれそうになった。
 なので待ち合わせ場所も、小墾田宮の外では絶対にしないよう決められていた。

「椋毘登って、変なところで心配性なのよね」

 稚沙がそんなことをぼやいている時だった。彼女の目の前に、3歳ぐらいの小さい男の子がなぜか1人できょろきょろと歩いているのが見える。

(あれ、もしかして迷子かな?)

 稚沙はその小さな男の子の様子がどうも気になり、思わずそばにかけよると、ふと声をかけてみた。

「きみ、どうしたの?」

「おっとうが、いなくなっちゃった」

「え、お父さんが?」

 稚沙はそれを聞いて、慌ててあたりを見渡してみる。だがまわりで子供を探していそうな大人の男性は見当たらない。

(うーん、宮の中に子供も置いてきぼりにするとも考えにくい。きっとこの子の父親も、どこかで必死で探しているはず)

「ねぇ、きみのお父さんって、どんな感じの人?」

「うーんとね、体がすごい大きくて、いっぱい荷物を持ってるよ」

「今日は仕事できているの?」

「うん」

 それから男の子は稚沙を相手に、少ないことば数で、何とか必死に今日ここにきた理由を説明してくれた。

 どうやら父親は自身が仕えている主の使いで、今日は小墾田宮にきているようだ。
 そして自身の妻の出産が近いため、それでこの男の子を連れ立っているとのこと。

(この男の子わりと元気そうだし、子育てに不慣れな父親が、うっかり目を離した隙に、動きまわってしまったのかも)

 これは稚沙自身も経験のあることだった。彼女がもっと幼かったころ、父親が馬の納品のために、本人を連れて小墾田宮にきたことがあった。

 だが彼女は宮にくるのはこの時が初めてだっため、ついつい浮かれてしまい、うっかり父親とはぐれてしまったのだ。

 そして背中に荷物を背負ったまま、この付近をさんざん泣いて歩きまわっていた。

(あの時も『とうさま、とうさま』とすごい泣き叫んでいたっけ...)

 稚沙もこの男の子の、不安や心細さは痛いほど理解できる。なのでここは何とかして、彼の父親を見つけてあげたいと思った。