稚沙は先日の椋毘登とのことを思い出す。彼は自分一人を見てくれるといっていた。

 彼の自分に向けられたあの優しさは、己の立場を守りたいからといった理由とは、到底考えられるものではない。

 「く、椋毘登はそのようなこと...」 

 稚沙は境部摩理勢を前にして、上手く言葉が出てこない。そしてどうして良いか分からず、震える手を握りしめて、何とかその場に立っている。

 (椋毘登はそんな人じゃない、でもこの人は彼の親戚の人、私の知らないことだって知ってるかもしれない)

 「私は彼と知り合って日が浅いので、まだ彼のことを全て知ってるとは思いません。ただ、それでも彼が自身の身を守る為に、私と一緒にいてくれているとは考えられないです」

 境部摩理勢はまだ稚沙を少し睨んだまま、さらに言葉を浴びせてくる。

 「ふん、お前も豪族の娘なら、余り口を出さない方が良いぞ。我々の手にかかれば、お前1人ぐらいどうにでも出来るからな」

 「そ、そんな」

 すとる摩理勢は腰の刀を抜き、彼女の前に突きつけた。

 「いちいち口答えする娘だ!俺がその気になれば、今すぐここできさまの息の根をとめることだって出来るんだ」

 そして彼は稚沙をそう罵ると、ゲラゲラと笑った。この人物はやはり気性の荒い性格のように思える。

(これまでは遠くから見掛けるだけで、それでも怖そうな人とは思っていたけど、こうやってまじかで見ると、凄い威圧感を感じる人だ)

 椋毘登は以前に、稚沙に境部摩理勢達とは余り関わらせたくないといっていた。その意味が少し分かったような気がした。

 前に椋毘登が境部摩理勢に話している時も、彼は少し普段と違っていて、意味深な笑みを浮かべていた。 
 あれはもしかすると、彼の警戒の表れだったのかもしれない。
 
「俺自身、兄の馬子を敵に回すつまりはないが、それ以外は邪魔なら始末するまで、そもそも蘇我は敵が多いからな」

 この人は蘇我馬子以上に、人を軽く見ており、平気で人を貶めることが出来るのだろう。

 それから境部摩理勢は、気がおさまったのか、刀を稚沙から離して鞘にしまった。

「わ、私は、あなたの全てを否定するつもりはありません...ただ、椋毘登自身の考えは別にあると思っております」

 稚沙は震える体を必死で抑え、酷く弱々しい声であるものの、自分の意志をはっきりと伝えた。

「これだけ脅しをかけて話しているのに、自身の意見をのべるとは、何とも勇敢な娘だな」

 だが摩理勢の声には余り感情が感じられず、とても低い声だった。そしてもう稚沙の顔すら見ていなかった。

「お前がいずれ蘇我の身内に入ることになれば、なかなか面白いかもしれん。だがそれも全ては椋毘登の出かた次第だ」

 彼はそういうと、稚沙に背を向けてその場から静かに離れていった。


 それから暫くして、稚沙はフラフラとその場に座り込んでしまった。

「こ、怖かった、本当にもう駄目かと思った」

 彼女は緊張の糸が切れたのか、目からたくさんの涙を流す。そして体を両手で抱きしめてから、その場で声を出して泣いた。

(蘇我は本当に恐ろしい一族なのかもしれない。でも椋毘登は絶対に負けたりなんかしない...)

 稚沙は初めて、いかに椋毘登が微妙な立場でいるのかを身を持って理解することが出来た。そしてこれは今後も続いていくことになるのだろう。