5月に入り、炊屋姫(かしきやひめ)達は宮中を上げて菟田野(うだの)薬猟(くすりがり)へ出かけることした。

 男性は鹿を狩り、女性は薬草を採取しに行くのだ。

 この時代百済(くだら)から、(くすし)博士や採薬(くすかり)師が渡来しており、寺院では多くの薬物も所蔵するようになった。その代表が飛鳥寺である。

 今日はその前日で、稚沙も薬草採取の者に加わっての参加であった。

「炊屋姫様たっての薬狩りですもんね」

(確か比羅夫(ひらぶ)の叔父様も参加するって話しよね。私は一番後ろの方だけど、顔ぐらいなら見れるかも)

 額田部比羅夫(ぬかたべのひらぶ)は、稚沙の親戚筋にあたる人物で、彼女と同じ額田部一族の有力者である。そしてまた彼は親戚筋にあたる稚沙をまるで娘のように可愛がってくれていた。

 ちなみに稚沙の父親と比羅夫が従兄弟同士という間柄である。

「私達一族は馬飼部として、日頃馬の飼育に当たってるけど、それも叔父様が額田部を背負って頑張って下さってるからに他ならない。もちろん本筋である平群が、大和で平群宇志(へぐりのうし)様を筆頭に政に携わっているのが大きいけど」

 稚沙のいる額田部は、平群氏から発生した一族である。

 過去に遡れば、額田駒宿禰(ぬかたのこまのすくね)という人物が、当時の大王に馬を献上したことで、馬工連(うまみくいのむらじ)の姓を賜り、馬の飼育について任されたという。
 また、駒宿禰が馬を養育したところが生駒の地域だったともいわれている。

「明日の薬狩りがどうか怪我人もなく、無事に終わると良いのだけど」

 そんな事を考えならいると、稚沙の目の前を2人の子供らしき少年が歩いていた。

(あ、あれは境部摩理勢の息子達だわ)

 稚沙は彼の息子2人を見て、一瞬「ゾー」とした。

 ひとまず彼らに見つからないように、ささっと回廊の柱の後に回って隠れる。

(自分よりも若い子相手に隠れるなんて、何んとも情けない…でも己の身が大事ね、ここは仕方ないわ)

 稚沙が2人の少年が早くどこかに行ってくれないかと、声を潜めていた時である。

 思いの外、彼らの会話が聞こえてきた。

「あぁ~馬子親子がいなかったら、父様が蘇我の最有力者になれてたのにな」

「まぁ、馬子の叔父上がいないと今の蘇我はないから、叔父上の次は誰が蘇我の中心になるかの方が問題だろ?」

 どうやら、彼らもそれなりに自身の父親の影響を受けているようだ。
 というより、日頃からそんな話を父親もしくは他の誰かから耳聞きしているのかもしれない。

「となると蝦夷が何か問題でも起こして失速しないかな」

(確か椋毘登の話では、兄の毛津(けつ)が14歳で、弟の阿椰(あや)が12歳って聞いたわ……でもこの子達、なんて会話をしているの!)

 稚沙も自分よりも年下の彼らの会話には驚かされてしまう。これが蘇我という一族なのだろうか。