椋毘登(くらひと)は私の為を思って……」

 稚沙(ちさ)はそれを聞いてとても嬉しくなる。彼はとっさの中でも、彼女のことを守ろうとしてくれていたのだ。

「まあ、叔父上達も色々と警戒しているんだろう」

 椋毘登は少し深刻そうな表情でそう話す。彼の口調からからして、何か思い悩むことがあるのだろうか。

 また境部臣摩理勢(さかいべのまりせ)も先ほど、椋毘登に余計なことはするなと釘をさしていた。どうも蘇我一族内でも何かと対立しやすいのかもしれない。

「警戒って?それはどういことなの」

「今蘇我の最有力者は蘇我馬子だけど、他にも力のある人物がいるんだ。それで今のままいけば、恐らく摩理勢の叔父上と蝦夷が対立することになる」

「え、境部臣摩理勢と蝦夷が!でも蝦夷はそんな人には見えないけど……」

 稚沙から見れば、蘇我蝦夷はとても陽気な優しい青年で、従弟の椋毘登とでさえとても仲良くしている。

「もちろん、蝦夷自身は余り争いごとを好むやつじゃない。むしろ叔父の摩理勢の方が蝦夷に敵意を感じているんだ。蝦夷だってそうなれば穏やかではいられない。あいつは馬子の息子だからね」

 それを聞いた稚沙はとても衝撃を受ける。また椋毘登が馬子の護衛をしていることも、境部臣摩理勢からしてみれば、彼が馬子と蝦夷親子側についている構図に見えるだろう。

「うーん、何とも複雑ね。それで馬子様の護衛をしている椋毘登も、摩理勢から少し警戒されている訳なのね」

「まあ、そういう訳だ。だからお前も出来れば余りあいつらと関わらせたくはないんだ」

(椋毘登って、私の知らない所で色々と考えてるのね)

「彼は、小墾田宮(おはりだのみや)にも度々来られているから、見かけることはあるけど、今後は注意しておくことにする。特にあの2人の息子とは極力関わりたくないもの」

 稚沙は小墾田宮の女官なので、彼らに関われば自身の仕事にも支障をきたしてしまいかねない。

「まあ、確かにお前の場合はそちらの心配もあるな。とりあえず、だいぶ歩いてきたことだし、そろそろ宮に戻ることにしよう」

「えぇ、そうね。椋毘登の和歌の特訓はまた次回にする!」

「おい、稚沙。お前まだ続けるつもりなのか」

 彼女にとって蘇我の問題ごとと椋毘登の和歌の件は別問題である。こちらもまだ彼女は終わらせるつもりはないらしい。

「当たり前でしょう。和歌が詠めなくて恥をかくのは椋毘登なんだから」

「俺は別に和歌なんて出来なくても良いんだが……まぁとりあえず、今は早く馬に乗って宮に戻ろう」

 彼はそういうと、この会話をさっさと終わらせて急いで小墾田宮に彼女を送り届けることにした。