椋毘登(くらひと)摩理勢(まりせ)と呼ぶこの人物の名は、蘇我境部臣摩理勢(そがのさかいべのまりせ)という。あの蘇我馬子(そがのうまこ)の弟にあたる人物で、普段は境部臣摩理勢(さかいべのまりせ)と呼ばれることが多い。そして一緒にいる毛津(けつ)阿椰(あや)は、彼の息子たちである。

(ど、どうしよう。あの境部臣摩理勢だわ)

 稚沙(ちさ)はそんな彼らを前に恐々としてしまい、思わず椋毘登の後に隠れるようにして、この様子を見ている。彼女も小墾田宮(おはりだのみや)に仕えている女官なので、さすがに彼のことは知っていた。

 境部臣摩理勢は、蘇我一族内で蘇我馬子に次ぐ実力者だった。馬子の息子の蝦夷がまだ若い為、摩理勢の存在は蘇我一族内で今とても重要視されていた。

(でもこの人何か怖そうで、私ちょっと苦手なのよね)

 稚沙は自身の立場と、相手が以前から苦手意識のあった人物ということもあり、ただただ椋毘登の後ろで息を潜めている。

「椋毘登、どうしたんだ?刀も持たずに。それにえらく地味な服装をしているな」

「いえ、これはちょっと訳ありで」

 椋毘登も摩理勢からの指摘にいささか苦笑いしてしまう。まさか自身が女官の娘とお忍びで歌垣に参加していたとは、流石にいいずらい。

 そんな状況の中、摩理勢と同じ馬に乗っていた息子の阿椰が、ふと気になって思わず口を開いた。

「ねえ、椋毘登の後ろに女の子がいるよ。誰だろう」

「馬鹿だな、椋毘登の女だろう」

 隣の馬にのっていた兄の毛津は、好奇な目で彼女を見ながら、ケラケラと笑って答える。

「へー椋毘登ってこんな子が好みなの。これは意外だったな~」

 阿椰はそういって、椋毘登の後ろに隠れそっと息を潜めている稚沙を、まじまじと眺めてくる。

「確かに、椋毘登だったらもっと良い相手がいくらでもいるだろうに。まさかこんな子供が相手だったなんてな」

「うーん、毛津の兄様が14歳だから……12、3歳って所?だとすると僕と同じぐらいになるよ!」

 毛津と阿椰の兄弟は、そんな風にして彼女のことを面白おかしく蔑んでいる。

(ち、ちょっと待ってよ!私は年が変わって15になったのよ。あなた達よりも年上なんだから)

 稚沙はこの2人の兄弟に対して、酷く腹をたてる。だが相手は子供とはいえ蘇我の者だ。ここで下手なことはよう出来ない。彼女はそのことがとても口惜しかった。

「ふぅー、別にどんな娘を連れていようと、そんなの俺の勝手だろ。余計なお世話だ」

 一方の椋毘登は、稚沙がからかわれているにも関わらず、至って平然としている。あたかも自身は余り気にしていないといった素振りで。

「ところで、叔父上。どうしてあなたがこのような場所に?」

「あぁ、最近ここらで犯罪人の処刑が度々続いていた。そのため死者に対する、お祓いと浄めの取り決めをするためにな」

 海石榴市(つばいち)は市や歌垣だけでなく、懲罰や処刑の場としても使われている。その他には雨乞い、授戒も行われるなど、様々な機能を持ち合わせている場所だった。また摩理勢が今回それに関わっているということは、恐らく蘇我に関わる処罰があったのだろう。

(蘇我馬子も恐ろしいところあるけど、この境部臣摩理勢って人も割と残忍な人って聞くわね……)

「まあ、我々蘇我は何かと問題が起こりやすいですからね」

 椋毘登はさも平然とした調子で、摩理勢にそう話す。彼も蘇我の一族の者だ。最近蘇我であった犯罪ごとも、もしかしたら知っているのかもしれない。