そのとき、僕は分かった。
理解した。
この世界が何なのか。何の為に存在しているのか。
この世界で、僕は何をするべきなのか…その全てを理解した。
「腰抜けですか、あなたは。仲間を殺されたのに、復讐の一つもしないなんて」
「…」
「あなたも僕と同じ。人の心を持たない、冷たい…、」
「大丈夫だよ。…僕は、君を許してあげる」
「…え?」
最初にこの世界に来たとき。
空に書かれていた、「forgive me」の文字。
あの意味が、ようやく分かったよ。
僕が許すべき相手は、君だったんだね。
ハンプティ・ダンプティに「書いてあることには従え」と言われたからではない。
僕は僕の意志で、三月ウサギを許す。
…元の世界で、僕が「彼」にそうしたように。
他の誰が許さずとも、僕だけは…君を許す存在になる。
「何か理由があるんだよね。『彼』もそうだった…。君には君なりに、こうせざるを得ない理由があるんだよね」
「…それは…」
「分かってるよ。君が心からの悪人じゃないってこと」
そう、僕は知っている。
君が悪人じゃないってこと。
本当は誰より繊細で、傷つきやすい人だってこと。
人を殺す度に痛む心の傷に…気づいていながら、気づかない振りをしていたこと。
他人の悲鳴を聞きながら、同じくらい自分も悲鳴をあげていたこと。
…他人の血を浴びながら、同じくらい自分も血を流していたこと。
本当は誰よりも…殺される人よりも…誰かの助けを求めていたんだってことも。
僕は知ってる。
…だって僕は、君の親友だから。
だから僕は、君を許す。
「大丈夫だよ。僕は君の味方だから…。僕が、君を許すから…だから、怖がらなくて大丈夫」
「…」
「誰が許さなかったとしても…僕は、君の罪を許すよ。…君を、一人ぼっちにはしないよ」
…本当の君は、凄く寂しがりやだってことを知ってるからね。
…三月ウサギさんの左目から、一筋の水滴が零れ落ちた、そのとき。
「…え?」
ぱしゅんっ、と音を立てて、三月ウサギさんの姿が消えてなくなった。
「…消えちゃった…」
…これって…。
…満足したから消えた、ってこと?
つまり…僕はこの試練に合格したのだろうか?
「…あ」
三月ウサギさんが立っていた、その足元に。
例の青い封筒…お茶会の招待状…が落っこちていた。
僕は、その招待状を拾った。
…まさか、こんな風に招待状を入手することになるとは。
…本当に、不思議な世界だった。痛ましい世界だった。
だけど…後悔は何もなかった。
招待状を手にした僕を、青い光が包んだ。
―――――――…一方、こちらは。
僕は『八千歳』と共に、「白ウサギの世界」にいた。
「白ウサギの世界」と言うからには、白ウサギを取っ捕まえて、丸焼きにして食べる世界なんだろう、と思っていたのだが…。
「…ねぇ、『八千歳』」
「んー?」
「何か書いてあるよ」
「そーだね」
僕と『八千歳』は、二人で…川の前に立っていた。
…何とも不思議な光景である。
一見するとただの川だけど、しかし、これはただの川ではなかった。
川の水が渦を描き、文字が浮かび上がっていた。
自然現象では説明のつかない、奇妙な現象だ。
まぁ、ここ、普通の世界じゃないんだよね。
『不思議の国のアリス』とかいう、おとぎ話の世界らしい。
「ねぇ。『八千歳』は、『不思議の国のアリス』って知ってる?」
「さぁ?知らないねー。『八千代』は知ってるの?」
「ううん、知らない」
おとぎ話って言ったら、ジャマ王国に伝わる怪談話しか知らない。
あれとは違うのかな、やっぱり。
今のところ、化け物が出てきそうな雰囲気はないよね。
いや、さっきまで僕達を案内していた、楕円形の謎の生き物は、化け物と呼んでも差し支えなさそうだったけど。
少なくとも、襲ってきそうな雰囲気はなかった。
そして、この世界もそう。
何かが襲ってきそうな様子はない。
謎の文字が浮かび上がった、澄んだ川かあるのみ。
…しかし、この川、文字以外にも気になることがある。
「川の水、虹色だね」
「うん」
絶対、飲まない方が良い水だ。
透明なはずの川の水は、虹色に変色していた。
一体何を流したらこうなるのか。
虹色の水が流れる川。
これは元々こういう川なのか、それともおとぎ話パワーでこうなってるのか。
よく分からないけど、しかしこの水を生活用水に使用するのは、やめた方が良さそうだ。
…触ったら、手、溶けたりしない?
刺激臭は感じないけど…。
でも、この色からして…不用意に近寄らない方が良いのは確かだ。
そして、何より気になるのは…。
「…何て書いてあるのかな?あれ…」
「さぁ…。読めないね」
虹色の水が渦を巻き、浮かび上がった文字は。
「touch me」というもの。
…漢字で書いてくれれば良いのに。意味が分からないよ。
あれ、どういう意味なんだろうな…。
「さっき、卵の化け物が言ってたよね。『書いてあることに従え』って」
「言ってたねー。あれのことなのかな?」
「そうだとしても、読めないんだから意味ないね」
「全くだよ」
あれに従えば良いんだろうけど、読めないんだからしょうがない。
もしかして、凄いことが書いてあったりして。
短い文章のように見えるけど。
逆立ちして50歩歩いて、20回回転して、ついでに30回側転してジャンプしなさい、とか書いてあるんだとしたら、どうしよう。
僕達、一生この世界から出られないね。
「全く、ちゃんと翻訳してくれればいーのに…不親切だなー」
僕達みたいなジャマ王国人が、この世界にやって来る…という想定をしていないんだろう。
ぐろーばる化、っていうのが進んでないね。残念だ。
「書かれてあることに従え」と言われても、何て書いてあるのか分からないので。
結局、自分達で何とかするしかない。
指示に従わなきゃ、招待状をもらえないのだとしたら…僕達がこの指示を読めないというのは、致命的な気がするが。
しょうがないよね。読めないんだから。
それ以外の方法で、元の世界に戻る方法を考えよう。
…え?そんなのあるのかって?
分からないけど、『八千歳』と一緒だから、何とかなりそうな気がする。
一人だったら、ちょっと不安になりそうだけど。
『八千歳』と一緒だからね。
『終日組』の暗殺者集団が攻めてきても、特に不安はない。
向かうところ敵なし、って奴だ。
多分、『八千歳』も同じ気持ちなんだろう。
指示が読めないという、なかなかの危機に瀕してもなお…けろっとしていた。
まぁ、何とかなるだろう。多分。
焦るにはまだ早いってね。
「どうしたら良いのか分からないけど…。とりあえず、周囲の散策してみようか」
「そーだね。何か見つかるかも」
まずは、この「白ウサギの世界」を知るところから始めよう。
何か、面白いものが見つかるかも。
…既に、目の前の川の色が面白い。
この水って、飲めるのかな。飲んだら危なそうな色だけど。
「川の水もそうだけど…空も、変な色だね」
「うん。黄緑色の空なんて初めて見たよ」
「雲も紫色だしね」
黄緑色の空。紫色の雲。そして虹色の川。
変な世界に迷い込んでしまったものだ。
「見て、あそこに咲いてる花」
「うわ。何あれ…トランプ模様のチューリップ?」
「あんな花があるの?」
「俺は見たことない。ツキナが見たら、喜ぶかもなー」
あれも、この世界特有の植物なのかな。
「変な世界だなー。面白いけど。俺達ここで何すれば…」
僕と『八千歳』は、同時に足を止めた。
川の向こうに、白いウサギがたたたっ、と走っていくのが見えた。
…あのウサギって、もしや。
同じことを考えた僕と『八千歳』は、すぐさま行動に移した。
僕は力魔法で助走をつけ、一気に川を飛び越え。
『八千歳』は透明な糸を足場代わりに、ほとんど同時に川を飛び越えた。
…これでも、スピードには自信があるつもりだ。
僕と『八千歳』が本気になって追えば、捕まえられないものはないはずだった。
…しかし。
「…っ、足、はっや…!」
5分ほど追いかけっこしてもなお、僕達は白ウサギを捕まえることが出来なかった。
足が速い…と言うより、これは。
僕達が一定の距離まで近づいたら、強制的にワープしているような…。
そうでなければ、元『終日組』暗殺者である僕達の追跡を、こうも逃れ続けるなど有り得ない。
たかがウサギに出来る芸当ではない。
…どうやら、簡単に串焼きにはさせてくれないようだ。
…すると。
「…!これ…」
「…」
僕と『八千歳』は、追跡する足を止めた。
開けた場所に出ると、白ウサギはそこにあった、一軒の家の中に入っていった。
その家と言うのが…また不思議だった。
「…何、この家…お菓子…?」
「…みたいだね」
そこに建っていたのは、家だった。
ただの家じゃない。
お菓子の家だ。
外壁も、屋根も、窓も扉も、全てがお菓子で出来た家。
…ルーデュニア聖王国には、こんな家があるんだろうか?
見た目にはインパクトがあるけど、住むのはあんまり…実用的じゃないと思う。
虫とか寄ってきそうだし。放っといたらお菓子が腐りそうだし。
雨降ったらどうするんだろう。
いかにも、学院長が好きそう。
「食品サンプル…とかじゃないよね?」
「さぁ…。ちょっと触ってみようか」
僕と『八千歳』は、謎のお菓子の家に近づき。
試しに、窓ガラス代わりのビスケットを、軽く叩いてみた。
ビスケットが割れた。
「…」
…食品サンプルにしては、脆い。
割れたビスケットの欠片を拾って、しばしじっと見つめ。
「…もぐ」
食べてみた。
驚くなかれ。
…甘い、プリンの味がした。
「…??」
同じく、ビスケットの欠片を口に含んだ『八千歳』も、首を傾げていた。
問題なく食べられるってことは、食品サンプルではないんだろうけど…。
ビスケットなんだから、ビスケットの味がするはずなのに。
何故か、プリンの味がした。
しかもかぼちゃプリン。
…何で?
「なんかこれ…プリンの味がする」
僕の味覚がおかしくなったのかと思いきや、『八千歳』も同じだったようだ。良かった。
「不味くはないけど、変な感じだね…」
「こういうお菓子なのかなー…?」
そうかもしれない。
かぼちゃプリン味のビスケット…何だかちぐはぐだね。
すると、何を思ったか。
「よっと」
『八千歳』が、窓枠代わりの細いスティックチョコを、ポキッと折った。
これまた、簡単に折れるんだね。
「もぐもぐ」
スティックチョコを、ポキポキ音を立てて頬張る『八千歳』。
「どう?味…」
「凄い。りんごの味がするよ、これ」
と、『八千歳』が教えてくれた。
なんと。
「チョコじゃないの?」
「うん、りんごの味だ」
「…」
…もしかして。
僕は、ペンキ代わりに外壁に塗られた、白い生クリームを指ですくって、舐めてみた。
すると、あら不思議。
生クリームではなくて、カステラの味がした。
こんな味の生クリームが存在するなんて。
「ルーデュニア聖王国には、こういう珍妙なお菓子があるの?それとも…おとぎ話の不思議な力で、こんな変な味に変わってるの?」
「さぁねー。どっちでもおかしくないね」
僕達、あんまりお菓子には詳しくないもんね。
最近になって、よく学院長に食べさせてもらってるから、これでも分かるようになってきたけど。
ほんの少し前まで、甘いものはおろか、物を食べることもほとんどなかったから。
元々こういう食べ物なのか、それともこの世界に限った話なのか、分からないや。
しかし、お菓子の家というのは…あまり現実感がない。
これは、やはりおとぎ話の世界にのみ存在するのでは?
「…まーいーや。家を摘み食いしてる場合じゃない」
と、『八千歳』は食べかけのスティックチョコを、窓枠に戻した。
そうだね。
僕も、カステラ味の生クリームがついた指を拭った。
「この家に入っていったよね?あのウサギ」
「うん。そう見えたね」
「じゃ、あいつを捕まえて串焼きにしよう。そーしたら、何か分かるでしょ、多分」
僕も同意見だよ。
僕と『八千歳』は、再び臨戦態勢を取り。
白ウサギを追って、勢いよく板チョコの扉を開けた。
板チョコの扉は、意外と耐久性がなかったらしく。
開けた瞬間、バキッ、と音がしていたけれど。
今の僕達は、そんなことはどうでも良かった。
家の中も、お菓子の匂いが充満していた。
それもそのはず。
テーブルはチョコレートクッキー、椅子はプレーンクッキー。
カーテンはカスタードクリーム、クッションはシュークリームで。
天井からは、色とりどりの飴細工で作られたシャンデリアがぶら下がっていた。
本当に、お菓子の家そのものだ。
学院長は喜ぶだろうなぁ。
こんな実用性皆無な家に、どうやって住むのだろうと思うけど。
それを気にするのは、僕の仕事じゃない。
「…いた!」
瞬時に部屋の中を見渡し、白ウサギの姿を発見。
標的は、クッキーで出来た本棚の上に座って、嘲笑うようにこちらを見ていた。
僕は床を蹴り、本棚(と言っても、本の代わりに薄く切ったチョコレートが入っているから、正しくはチョコ棚)の上に飛んだ。
しかし。
白ウサギはすんでのところで、本棚から飛び降りて避けた。
…おかしい。
今のは、充分間に合ったはずだった。
更に、飛び降りた白ウサギの落下地点に、『八千歳』が大量の糸を張り巡らせた。
あの糸からは、決して逃れられないはず。
「…!?」
…それなのに、白ウサギは『八千歳』の糸を、するりと潜り抜け。
たたたっ、と別室に駆け抜けていった。
…やっぱりおかしい。
今のは、絶対逃れられないはずだった。
それを逃れたってことは、やはりあのウサギ…。
「…追おう、『八千代』」
「…うん」
『八千歳』に促され、僕は雑念を振り払った。
諦めるにはまだ早い。
隣の部屋に逃げていった白ウサギを追って、僕と『八千歳』は、隣の部屋に通じる扉…こちらはホワイトチョコの扉…の取っ手を掴み。
これまた、勢いよく扉を開けた。
バキッと悲惨な音がしたけど、気にならなかった。
こちらの部屋は、どうやら寝室のようだ。
ロールケーキのベッド、チョコブラウニーの枕。
掛け布団は、薄いクレープの生地で出来ている。
とてもじゃないけど、安眠出来なさそう。
あんな薄っぺらいクレープの皮じゃ、寒くないのかなぁ。
やっぱり、寝具はゴザが一番だよね。
すると。
「…ケケケッ」
「…」
突如として、耳障りな笑い声が聞こえた。
ウサギかと思ったが、ウサギじゃなかった。
ラングドシャクッキーのクローゼットの上に、ピンクの化け猫がこちらを見ていた。
にやにやと、人の悪そうな顔で僕達を見下ろしている。
…。
「…えい」
何だか凄くムカついたので、化け猫に向かって小刀を投擲してみた。
猫肉はあまり美味しくないが、ウサギとまとめて焼肉にしてやろうと思って。
しかし。
「…消えた…」
白ウサギ同様、化け猫もまた、すんでのところで姿を消した。
…猫肉、食べ損ねちゃった。
…猫のことも気になるけど、今は目の前のウサギに集中することにする。
白ウサギは、ロールケーキベッドの下からこちらの様子を窺っていた。
僕はベッドを一刀両断し、その下に隠れている白ウサギを取っ捕まえようとしたが。
やはり、白ウサギはすんでのところで逃げる。
『八千歳』が糸を展開して包囲しても、やはりすり抜けるようにして逃げる。
…おかしい。
いくらなんでも、これは出来過ぎだ。
光の速さで逃げるならともかく、あのウサギの細い脚で、あんな風に動けるはずがない。
つまり、これは…今僕達がどれだけ追いかけても無駄で。
これまでの童話シリーズで、しばしばそうだったように。
何か特定の条件を満たすことで、前に進める…というシステムなんじゃないだろうか。
もしかして、さっき川に浮かび上がっていた「touch me」も、そういう意味だったりするのかな?
分からないが、今ここで闇雲に追いかけても…白ウサギを捕まえることは出来なさそうだ。
…すると。
「…あ!逃げた…!」
白ウサギは、僕達を散々、弄べるだけ弄んで。
たたたっ、と窓から飛び出し、逃げていった。
…この家にもう用はない、と?
追うべきだろうか。僕達は、まだ何の条件も満たしていないけど。
「…どうしよう、『八千歳』」
僕は、傍らの相棒に意見を求めた。
「そーだな…。望みは薄そうだけど…一応、追いかけた方が良いんじゃない?」
「分かった」
見失ったら、また探すのに厄介だしね。
そもそも、あのウサギを追いかけることは正解なのだろうか?
「白ウサギの世界」だから、何となく白ウサギを追いかけてるけど。
まぁ良い。捕まえてみれば分かることだ。
家の外に逃げた白ウサギを追って、僕達も窓から外に出よう…と。
窓枠に足をかけた、そのときだった。
「こ…こりゃぁぁぁっ!何をしとるんじゃ!」
背後からいきなり怒鳴られて、ちょっとびっくりした。
…何事?