神殺しのクロノスタシスⅤ〜前編〜

それじゃ、もう一つ質問。

「…君が、三月ウサギさん?」

僕は今、『不思議の国のアリス』によって生み出された、「三月ウサギの世界」にいる。

「三月ウサギの世界」と言うからには、この世界の何処かにいるのだろう。

気の狂った、三月ウサギさんが。

そして今、僕の目の前にいるのが…そうなのだろう。

僕の探している、三月ウサギさん。

「っていうことは…アリスの招待状を持っているのは、君なの?」

僕が元の世界に戻る為のキーアイテム。

アリスの招待状を持っているのが誰なのか、僕はこの世界に来てからというもの、ずっと気にしていたけど。

これまでのところ、何の手がかりもなかった。

恐らく、この『殺戮の堕天使』…三月ウサギさん…が、招待状に繋がるヒントを持っているのだろう。

と言うか、そうじゃないと困る。

僕に残された時間は、もうそれほど長くないだろうから。

「招待状、くれないかな?僕は元の世界に帰りたいんだ」

僕は、『殺戮の堕天使』…改め。

三月ウサギさんに、そう頼んだ。

今ここで、三月ウサギさんと争うつもりはなかった。

復讐しようとか、仇を討ちたいとか、そんなことは考えなかった。

ただ、お茶会の招待状をもらって、それでこの世界を終わりにしたかった。

「…君の捜し物は、これのことですか?」

三月ウサギさんは、着ていた上着のポケットから、青い薔薇の模様がついた封筒を取り出した。

…!

あれが、お茶会の招待状?

「そうだよ。…それを、僕にくれないかな?」

「…」

三月ウサギさんは答えず、招待状をポケットにねじ込むようにして戻した。

…どうやら、すぐに渡してくれる気はないらしい。

そっか。

「…どうかしてますよ、君は」

と、三月ウサギさんが言った。

「何で?」

「多くの仲間が殺されたのに、何でそんなに冷静でいられるんですか?」

…それは…。

「今まで僕に挑んできた人は、皆僕を罵って、問答無用で武器を向けてきたのに。こんな風に冷静に話をしてきたのは、あなただけです」

…そうなんだ。

耳が痛いなぁ。

僕、イーニシュフェルト魔導学院で、最初に『殺戮の堕天使』…ナジュ君に再会したとき。

周りの迷惑とか考えず、猪突猛進とばかりに突っ込んじゃったもんなぁ。

あのときも今みたいに、もう少し冷静に行動するべきだったと、今更反省している。

「何でそんなことをするんですか?…悔しくないんですか」

「…悔しくは…ないかな」

ウサギさん達を守れなくて、止められなくて…申し訳ないとは思うけど。

「招待状が欲しければ、僕を奇襲して、無理矢理奪い取れば良いのに。あなたは…僕が憎くないんですか?」

「…」

…憎い…か。

それは元の世界で…散々考えたことだ。
そのとき、僕は分かった。

理解した。

この世界が何なのか。何の為に存在しているのか。

この世界で、僕は何をするべきなのか…その全てを理解した。

「腰抜けですか、あなたは。仲間を殺されたのに、復讐の一つもしないなんて」

「…」

「あなたも僕と同じ。人の心を持たない、冷たい…、」 

「大丈夫だよ。…僕は、君を許してあげる」

「…え?」

最初にこの世界に来たとき。

空に書かれていた、「forgive me」の文字。

あの意味が、ようやく分かったよ。

僕が許すべき相手は、君だったんだね。

ハンプティ・ダンプティに「書いてあることには従え」と言われたからではない。

僕は僕の意志で、三月ウサギを許す。

…元の世界で、僕が「彼」にそうしたように。

他の誰が許さずとも、僕だけは…君を許す存在になる。

「何か理由があるんだよね。『彼』もそうだった…。君には君なりに、こうせざるを得ない理由があるんだよね」

「…それは…」

「分かってるよ。君が心からの悪人じゃないってこと」

そう、僕は知っている。

君が悪人じゃないってこと。

本当は誰より繊細で、傷つきやすい人だってこと。

人を殺す度に痛む心の傷に…気づいていながら、気づかない振りをしていたこと。

他人の悲鳴を聞きながら、同じくらい自分も悲鳴をあげていたこと。

…他人の血を浴びながら、同じくらい自分も血を流していたこと。

本当は誰よりも…殺される人よりも…誰かの助けを求めていたんだってことも。

僕は知ってる。

…だって僕は、君の親友だから。

だから僕は、君を許す。

「大丈夫だよ。僕は君の味方だから…。僕が、君を許すから…だから、怖がらなくて大丈夫」

「…」

「誰が許さなかったとしても…僕は、君の罪を許すよ。…君を、一人ぼっちにはしないよ」

…本当の君は、凄く寂しがりやだってことを知ってるからね。





…三月ウサギさんの左目から、一筋の水滴が零れ落ちた、そのとき。

「…え?」

ぱしゅんっ、と音を立てて、三月ウサギさんの姿が消えてなくなった。



「…消えちゃった…」

…これって…。

…満足したから消えた、ってこと?

つまり…僕はこの試練に合格したのだろうか?

「…あ」

三月ウサギさんが立っていた、その足元に。

例の青い封筒…お茶会の招待状…が落っこちていた。

僕は、その招待状を拾った。

…まさか、こんな風に招待状を入手することになるとは。

…本当に、不思議な世界だった。痛ましい世界だった。

だけど…後悔は何もなかった。






招待状を手にした僕を、青い光が包んだ。






―――――――…一方、こちらは。



僕は『八千歳』と共に、「白ウサギの世界」にいた。

「白ウサギの世界」と言うからには、白ウサギを取っ捕まえて、丸焼きにして食べる世界なんだろう、と思っていたのだが…。




「…ねぇ、『八千歳』」

「んー?」

「何か書いてあるよ」

「そーだね」

僕と『八千歳』は、二人で…川の前に立っていた。






…何とも不思議な光景である。

一見するとただの川だけど、しかし、これはただの川ではなかった。

川の水が渦を描き、文字が浮かび上がっていた。

自然現象では説明のつかない、奇妙な現象だ。

まぁ、ここ、普通の世界じゃないんだよね。

『不思議の国のアリス』とかいう、おとぎ話の世界らしい。

「ねぇ。『八千歳』は、『不思議の国のアリス』って知ってる?」

「さぁ?知らないねー。『八千代』は知ってるの?」

「ううん、知らない」
 
おとぎ話って言ったら、ジャマ王国に伝わる怪談話しか知らない。

あれとは違うのかな、やっぱり。

今のところ、化け物が出てきそうな雰囲気はないよね。

いや、さっきまで僕達を案内していた、楕円形の謎の生き物は、化け物と呼んでも差し支えなさそうだったけど。

少なくとも、襲ってきそうな雰囲気はなかった。

そして、この世界もそう。

何かが襲ってきそうな様子はない。

謎の文字が浮かび上がった、澄んだ川かあるのみ。

…しかし、この川、文字以外にも気になることがある。

「川の水、虹色だね」

「うん」

絶対、飲まない方が良い水だ。

透明なはずの川の水は、虹色に変色していた。

一体何を流したらこうなるのか。

虹色の水が流れる川。

これは元々こういう川なのか、それともおとぎ話パワーでこうなってるのか。

よく分からないけど、しかしこの水を生活用水に使用するのは、やめた方が良さそうだ。

…触ったら、手、溶けたりしない?

刺激臭は感じないけど…。

でも、この色からして…不用意に近寄らない方が良いのは確かだ。

そして、何より気になるのは…。

「…何て書いてあるのかな?あれ…」

「さぁ…。読めないね」

虹色の水が渦を巻き、浮かび上がった文字は。

「touch me」というもの。

…漢字で書いてくれれば良いのに。意味が分からないよ。

あれ、どういう意味なんだろうな…。

「さっき、卵の化け物が言ってたよね。『書いてあることに従え』って」

「言ってたねー。あれのことなのかな?」

「そうだとしても、読めないんだから意味ないね」

「全くだよ」

あれに従えば良いんだろうけど、読めないんだからしょうがない。

もしかして、凄いことが書いてあったりして。

短い文章のように見えるけど。

逆立ちして50歩歩いて、20回回転して、ついでに30回側転してジャンプしなさい、とか書いてあるんだとしたら、どうしよう。

僕達、一生この世界から出られないね。

「全く、ちゃんと翻訳してくれればいーのに…不親切だなー」

僕達みたいなジャマ王国人が、この世界にやって来る…という想定をしていないんだろう。

ぐろーばる化、っていうのが進んでないね。残念だ。
「書かれてあることに従え」と言われても、何て書いてあるのか分からないので。

結局、自分達で何とかするしかない。

指示に従わなきゃ、招待状をもらえないのだとしたら…僕達がこの指示を読めないというのは、致命的な気がするが。

しょうがないよね。読めないんだから。

それ以外の方法で、元の世界に戻る方法を考えよう。

…え?そんなのあるのかって?

分からないけど、『八千歳』と一緒だから、何とかなりそうな気がする。

一人だったら、ちょっと不安になりそうだけど。

『八千歳』と一緒だからね。

『終日組』の暗殺者集団が攻めてきても、特に不安はない。

向かうところ敵なし、って奴だ。

多分、『八千歳』も同じ気持ちなんだろう。

指示が読めないという、なかなかの危機に瀕してもなお…けろっとしていた。

まぁ、何とかなるだろう。多分。

焦るにはまだ早いってね。

「どうしたら良いのか分からないけど…。とりあえず、周囲の散策してみようか」

「そーだね。何か見つかるかも」

まずは、この「白ウサギの世界」を知るところから始めよう。

何か、面白いものが見つかるかも。

…既に、目の前の川の色が面白い。

この水って、飲めるのかな。飲んだら危なそうな色だけど。

「川の水もそうだけど…空も、変な色だね」

「うん。黄緑色の空なんて初めて見たよ」

「雲も紫色だしね」

黄緑色の空。紫色の雲。そして虹色の川。

変な世界に迷い込んでしまったものだ。

「見て、あそこに咲いてる花」

「うわ。何あれ…トランプ模様のチューリップ?」

「あんな花があるの?」

「俺は見たことない。ツキナが見たら、喜ぶかもなー」

あれも、この世界特有の植物なのかな。

「変な世界だなー。面白いけど。俺達ここで何すれば…」

僕と『八千歳』は、同時に足を止めた。

川の向こうに、白いウサギがたたたっ、と走っていくのが見えた。

…あのウサギって、もしや。

同じことを考えた僕と『八千歳』は、すぐさま行動に移した。

僕は力魔法で助走をつけ、一気に川を飛び越え。

『八千歳』は透明な糸を足場代わりに、ほとんど同時に川を飛び越えた。

…これでも、スピードには自信があるつもりだ。

僕と『八千歳』が本気になって追えば、捕まえられないものはないはずだった。



…しかし。
「…っ、足、はっや…!」

5分ほど追いかけっこしてもなお、僕達は白ウサギを捕まえることが出来なかった。

足が速い…と言うより、これは。

僕達が一定の距離まで近づいたら、強制的にワープしているような…。

そうでなければ、元『終日組』暗殺者である僕達の追跡を、こうも逃れ続けるなど有り得ない。

たかがウサギに出来る芸当ではない。

…どうやら、簡単に串焼きにはさせてくれないようだ。

…すると。

「…!これ…」

「…」

僕と『八千歳』は、追跡する足を止めた。

開けた場所に出ると、白ウサギはそこにあった、一軒の家の中に入っていった。

その家と言うのが…また不思議だった。

「…何、この家…お菓子…?」

「…みたいだね」

そこに建っていたのは、家だった。

ただの家じゃない。
 
お菓子の家だ。

外壁も、屋根も、窓も扉も、全てがお菓子で出来た家。

…ルーデュニア聖王国には、こんな家があるんだろうか?

見た目にはインパクトがあるけど、住むのはあんまり…実用的じゃないと思う。

虫とか寄ってきそうだし。放っといたらお菓子が腐りそうだし。

雨降ったらどうするんだろう。 

いかにも、学院長が好きそう。

「食品サンプル…とかじゃないよね?」

「さぁ…。ちょっと触ってみようか」

僕と『八千歳』は、謎のお菓子の家に近づき。

試しに、窓ガラス代わりのビスケットを、軽く叩いてみた。

ビスケットが割れた。

「…」

…食品サンプルにしては、脆い。

割れたビスケットの欠片を拾って、しばしじっと見つめ。

「…もぐ」

食べてみた。

驚くなかれ。

…甘い、プリンの味がした。

「…??」

同じく、ビスケットの欠片を口に含んだ『八千歳』も、首を傾げていた。

問題なく食べられるってことは、食品サンプルではないんだろうけど…。

ビスケットなんだから、ビスケットの味がするはずなのに。

何故か、プリンの味がした。

しかもかぼちゃプリン。

…何で?

「なんかこれ…プリンの味がする」

僕の味覚がおかしくなったのかと思いきや、『八千歳』も同じだったようだ。良かった。

「不味くはないけど、変な感じだね…」

「こういうお菓子なのかなー…?」

そうかもしれない。

かぼちゃプリン味のビスケット…何だかちぐはぐだね。
すると、何を思ったか。

「よっと」

『八千歳』が、窓枠代わりの細いスティックチョコを、ポキッと折った。

これまた、簡単に折れるんだね。

「もぐもぐ」

スティックチョコを、ポキポキ音を立てて頬張る『八千歳』。

「どう?味…」

「凄い。りんごの味がするよ、これ」

と、『八千歳』が教えてくれた。

なんと。

「チョコじゃないの?」

「うん、りんごの味だ」

「…」

…もしかして。

僕は、ペンキ代わりに外壁に塗られた、白い生クリームを指ですくって、舐めてみた。

すると、あら不思議。

生クリームではなくて、カステラの味がした。

こんな味の生クリームが存在するなんて。

「ルーデュニア聖王国には、こういう珍妙なお菓子があるの?それとも…おとぎ話の不思議な力で、こんな変な味に変わってるの?」

「さぁねー。どっちでもおかしくないね」
 
僕達、あんまりお菓子には詳しくないもんね。

最近になって、よく学院長に食べさせてもらってるから、これでも分かるようになってきたけど。

ほんの少し前まで、甘いものはおろか、物を食べることもほとんどなかったから。

元々こういう食べ物なのか、それともこの世界に限った話なのか、分からないや。

しかし、お菓子の家というのは…あまり現実感がない。

これは、やはりおとぎ話の世界にのみ存在するのでは?

「…まーいーや。家を摘み食いしてる場合じゃない」

と、『八千歳』は食べかけのスティックチョコを、窓枠に戻した。

そうだね。

僕も、カステラ味の生クリームがついた指を拭った。

「この家に入っていったよね?あのウサギ」

「うん。そう見えたね」

「じゃ、あいつを捕まえて串焼きにしよう。そーしたら、何か分かるでしょ、多分」

僕も同意見だよ。

僕と『八千歳』は、再び臨戦態勢を取り。

白ウサギを追って、勢いよく板チョコの扉を開けた。
板チョコの扉は、意外と耐久性がなかったらしく。

開けた瞬間、バキッ、と音がしていたけれど。

今の僕達は、そんなことはどうでも良かった。

家の中も、お菓子の匂いが充満していた。

それもそのはず。

テーブルはチョコレートクッキー、椅子はプレーンクッキー。

カーテンはカスタードクリーム、クッションはシュークリームで。

天井からは、色とりどりの飴細工で作られたシャンデリアがぶら下がっていた。

本当に、お菓子の家そのものだ。

学院長は喜ぶだろうなぁ。

こんな実用性皆無な家に、どうやって住むのだろうと思うけど。

それを気にするのは、僕の仕事じゃない。

「…いた!」

瞬時に部屋の中を見渡し、白ウサギの姿を発見。

標的は、クッキーで出来た本棚の上に座って、嘲笑うようにこちらを見ていた。

僕は床を蹴り、本棚(と言っても、本の代わりに薄く切ったチョコレートが入っているから、正しくはチョコ棚)の上に飛んだ。

しかし。

白ウサギはすんでのところで、本棚から飛び降りて避けた。

…おかしい。

今のは、充分間に合ったはずだった。

更に、飛び降りた白ウサギの落下地点に、『八千歳』が大量の糸を張り巡らせた。

あの糸からは、決して逃れられないはず。

「…!?」

…それなのに、白ウサギは『八千歳』の糸を、するりと潜り抜け。

たたたっ、と別室に駆け抜けていった。

…やっぱりおかしい。

今のは、絶対逃れられないはずだった。

それを逃れたってことは、やはりあのウサギ…。

「…追おう、『八千代』」

「…うん」

『八千歳』に促され、僕は雑念を振り払った。

諦めるにはまだ早い。

隣の部屋に逃げていった白ウサギを追って、僕と『八千歳』は、隣の部屋に通じる扉…こちらはホワイトチョコの扉…の取っ手を掴み。

これまた、勢いよく扉を開けた。

バキッと悲惨な音がしたけど、気にならなかった。

こちらの部屋は、どうやら寝室のようだ。

ロールケーキのベッド、チョコブラウニーの枕。

掛け布団は、薄いクレープの生地で出来ている。

とてもじゃないけど、安眠出来なさそう。

あんな薄っぺらいクレープの皮じゃ、寒くないのかなぁ。

やっぱり、寝具はゴザが一番だよね。

すると。

「…ケケケッ」

「…」

突如として、耳障りな笑い声が聞こえた。

ウサギかと思ったが、ウサギじゃなかった。

ラングドシャクッキーのクローゼットの上に、ピンクの化け猫がこちらを見ていた。

にやにやと、人の悪そうな顔で僕達を見下ろしている。

…。

「…えい」

何だか凄くムカついたので、化け猫に向かって小刀を投擲してみた。

猫肉はあまり美味しくないが、ウサギとまとめて焼肉にしてやろうと思って。

しかし。

「…消えた…」

白ウサギ同様、化け猫もまた、すんでのところで姿を消した。

…猫肉、食べ損ねちゃった。