…しかし。
「…!?」
イレースの打ち込んだ雷魔法は、黒い影には当たらなかった。
イレースが魔法を放つと同時に、黒い影は消えてしまった。
何処に行ったのか。
俺とイレースは、急いで周囲を見渡した。
ちなみにその間シルナは、白目を剥いて、その場に卒倒していた。
あいつは何の役にも立たん。
すると。
「今の影…何処に消え、」
素早く周囲に視線を巡らすイレースの背後に、黒い影が見えた。
「!イレース、後ろだ!」
「!?」
黒い影が、イレースの背後にまとわりつくように蠢いていた。
幽霊に物理的攻撃って効くのか。逆に幽霊の方からの攻撃って、こちらに通るのか。
そもそも、あれは本当に幽霊なのか。
問い質したいことは、いくらでもあったが。
まずは、イレースを助けるのが先だった。
俺も咄嗟に杖を出して、時間を止めようとした。
あれ?でも、幽霊相手に、時魔法って効くのか?
えぇい、つべこべ言ってないで、やるしかない。
「eimt…」
イレースの背後に蠢く黒い影に、時魔法を発動しかけたそのとき。
暗闇から、一人の影がバッ!と現れた。
「!?」
まさか幽霊の増援が、と思われたが。
そうではなかった。
まるで瞬間移動のように、その場に現れたのは。
「令月…!?」
黒装束を身に纏い、小太刀を両手に握り締めた、元『アメノミコト』の暗殺者、令月だった。
令月は躊躇うことなく、小太刀で黒い影を一刀両断しようとした。
令月は、俺達でさえ追いつけないほどの超スピード系アタッカーだ。
本気で令月に狙われたら、彼の姿を見つけたときには、既に首が落ちていると言っても過言ではない。
令月の一撃が、黒い影を真っ二つに切り捨てる…と、思われたそのとき。
「!?」
イレースの雷魔法を避けたように、黒い影は寸前のところで、再び霧のように消えた。
令月の小太刀が、虚しく空を切った。
攻撃を外し、廊下の床に着地した令月は。
小太刀を握り締めたまま、素早く周囲を見渡した。
すると、誰よりも夜目の利く令月が、窓の外に黒い影を見つけた。
「…!『八千歳』!捕獲!!」
「分かってる!」
令月の後ろにいたすぐりが、黒いワイヤーで窓を破壊しながら、窓の外に移動した黒い影に迫った。
しかし。
すぐりのワイヤーが迫ると、黒い影はまたしても、その場に霧散して消えた。
捕獲対象をなくしたすぐりのワイヤーが、ドスッ、と地面に突き刺さっていた。
…!
イレースの雷魔法も、令月の小太刀も…すぐりのワイヤーからも逃げるとは。
幽霊の癖に、あの反射神経は何なんだ。
「ちっ…。逃した…!」
「諦めないで。まだ、近くにいるかも」
「索敵する」
すぐりは、両手から大量の糸を繰り出した。
すぐりの、糸魔法を使った索敵能力は折り紙付きである。
俺とイレースも、令月達ほど夜目は効かないが、周囲を隈なく見渡した。
懐中電灯の灯りで照らしながら、注意深く探してみた…が。
「…いない…」
先程の黒い影は、何事もなかったように、跡形もなく消えていた。
…何だったんだ?あれは。
第二稽古場に繋がる渡り廊下に現れ、イレースの雷魔法を躱し、令月と、すぐりの攻撃さえ躱し。
こちらを嘲笑うかのように、弄ぶだけ弄んで、そのまま消えた。
俺達は、ただ馬鹿にされただけだ。
しかし、俺は怒りより先に、困惑の方が勝っていた。
「ちっ、駄目か…。もういない」
すぐりは舌打ち混じりに、そう言った。
すぐりの糸魔法による探索でも、黒い影の行方は掴めなかったようだ。
襲撃は済んだとばかりに、黒い影は姿を消していた。
…本当に、あれは何だったんだ?
「駄目か〜…。折角見つけたのに…」
「うん…。捕獲し損なった…」
すぐりと令月が、落胆したように言った。
あぁ、お前ら…。
…。
「…何でここにいるんだ?」
改めて、ちょっと冷静になった。
お前ら、何故ここにいる。
すると。
「深夜の巡回」
この野郎。いけしゃあしゃあと。
あれだけ夜間外出やめろと言ってるのに、全く言うことを聞く気配がない。
しかも。
「それと、幽霊を捕獲しようと思って」
「…」
捕獲、ってお前ら…。
幽霊を、猛獣か何かと勘違いしてないか?
捕獲してどうするんだよ。
「惜しかった…。あと少しだったのに…」
「全くだよ。何日も張り込んで、ようやく見つけたのに…」
何だって?
こいつら、連日幽霊捕獲の為に、深夜に校舎内を彷徨いてたのか?
俺達も、ここ最近は連日、パトロールの為に深夜の校舎に来ていたのに。
令月達の姿を見つけたのは、今夜が初めてだぞ?
「俺達も毎日パトロールしてたのに、全然会わなかったな」
「あぁ、うん。隠れてたから」
「羽久せんせー達に見つかったら、帰れって怒られると思ったからさー。姿を見つけても、敢えて避けてた」
お前らは、俺達を見つけてたのか。
見つけていながら、気配を消して隠れてやがったんだな。
全く、姿形も、それどころか微かな気配さえ感じなかった。
さすが、夜の闇の中においては、令月達に並ぶ者はない。
二人の方から姿を現さなかったら、多分ずっと気づかないままだった。
本物の幽霊より、令月達の方が余程幽霊っぽい。
…で、それはともかく。
「何だったんだ、今のは…?」
令月達への説教は、後回しだ。
それより、さっき俺達が見たのは、何だったんだ?
咄嗟に、魔法まで使いそうになったけど…。
もしかして、さっきの…何度も現れては消えた、あの黒い影が…。
「何って、今のが幽霊なんでしょ」
令月が、あっけらかんとして言った。
…やっぱり?
そうだったら嫌だな〜と思ってたけど…やっぱり、そうなのか。
…悲報。
ただの噂話だと思っていた幽霊騒ぎが、真実味を帯びてきた。
実際にこの目で見せられたのだから、否定のしようがない。
念の為、頬を抓ってみたが。
ちゃんと痛かったので、ワンチャン夢かもしれない可能性もゼロ。
そうか、やっぱり駄目か。
確かにあれは、見間違いではなかった。
「令月、すぐり…。さっきの黒い影…人影だったよな?」
「うん。人の形してたね」
「あれは人間だね」
ワンチャン、構内に迷い込んだ野良犬の可能性もあったのだが。
令月とすぐりに否定された以上、野良犬の可能性はゼロ。
この二人が、暗闇の中で人影を見間違えることは有り得ない。
…ということは、やっぱりさっきのは…。
「この目で見てしまったら、信じない訳にはいかないよな…」
「…幽霊かどうかは別にして、何者かが学院内に出没しているのは、確かなようですね」
さすがのイレースも、認めざるを得なかったらしい。
イレースは意固地な訳ではない。これまで頑なに幽霊を認めなかったのは、自分の目で見たことがなかったから。
自分の目で確かに見てしまったら、幽霊だろうとちゃんと認める。
本当に幽霊かどうかは、まだ分からないけどな。
「あれって、本当にお化けなのかな?」
「さぁねー。そうかもしれない」
…。
令月とすぐりは、意外と冷静…と言うか。
むしろ、面白がっている風にそう言った。
…うん。
「とりあえず…ナジュと天音を呼んでこようか」
令月達を追い返したいところだが、残念ながらこの二人も、重要な目撃者の一員なので、追い返すことは出来ない。
この二人も交えて、ちょっとナジュと天音を呼んで、作戦会議だ。
…が、その前に。
「…こいつ、どうする?」
俺は、白目を剥いて気絶しているシルナを指差した。
よく見たら、口から泡を吹いていた。
幽霊を目の当たりにして、意識が吹っ飛んだらしい。
「知りませんよ。放っておきなさい」
イレースは、吐瀉物を見るような目でシルナを見下ろした。
そうか。
俺も、そうした方が良いと思う。
じゃ、置いていくか。
朝になったら、勝手に自分で起きて戻ってくるだろ。多分。
…と、思ったら。
「学院長、置いていくの?」
「かわいそーだから、引き摺ってあげるよ」
すぐりが、両手から糸を出して、繭のようにシルナをくるんで、ずるずる引き摺っていった。
良かったな。すぐりがいて。
置き去りにされずに済んだぞ。
深夜だったが、急遽ナジュと天音を呼んできた。
天音の方は「緊急事態から来て」と言うと、飛び起きて来てくれたが。
ナジュの方は、
「も〜…。何なんですか?今リリスとイチャイチャしてたのに…」
などと、不満たらたらであった。
「幽霊が出たんだよ」
どうだ。少しは驚いたか。
しかし。
「幽霊?幽霊が出たくらいで、僕のイチャイチャタイムの邪魔をしないでください」
殴るぞお前。
幽霊だぞ。もっと反応ってもんがあるだろ。
「全くもう…折角良い感じに盛り上がって…。え?本当に幽霊が出たんですか?」
「そうだよ」
「…」
ナジュは、しばしぽやんとしてから。
「何で捕獲しなかったんですか?」
と、尋ねた。
何で捕獲前提なんだよ。
「捕獲しようとしたけど、逃げられたんだよ」
「へぇ。幽霊って、意外とすばしっこいんですね」
そうらしいな。
あの令月とすぐりから逃げるんだから、なかなかのもんだよ。
すると、天音が横から聞いてきた。
「そ、それで羽久さん。あの、学院長先生は…?」
「…ご覧の通りだよ」
シルナは、気絶したまままだ目が覚めていない。
すぐりの糸繭にくるまれたまま、ミノムシみたいになって意識を失っている。
情けない姿だ。
余程幽霊が怖かったと見える。
「だ、大丈夫かな…。学院長先生、学院長先生!起きてください」
天音が必死になって、シルナを揺り起こそうとしたが。
「…」
シルナ、無反応。
もう死んでるんじゃね?
「幽霊を見た程度で死ねるなんて…幸せな人生ですね」
ナジュの皮肉が突き刺さる。
全くだよ。
「シルナは放っといて…さっきの黒い影について話し合おうぜ」
「ほ、放っといておくのは可哀想なんじゃないかな…。とりあえず、毛布だけかけておいてあげよう…」
そう言って、天音は保健室から毛布を持ってきて、気絶したシルナにそっとかけてあげていた。
天音が優しくて良かったな、シルナ。
「で、皆さんが見た幽霊って、どんな形だったんですか?」
「さっき、黒い影って言ってたけど…。黒い影の幽霊だったの?」
この場で、幽霊を目にしていないナジュと天音が尋ねた。
そうだな…。
「幽霊と言うと、髪の長い白い服を着た女が…。みたいなのが定番ですけど」
「そ、それは…漫画やドラマの話じゃないの?」
そもそも、ここは学校だからな。
出てくるとしても、制服を着た子供の霊じゃね?
いや、あの黒い影の正体が、子供だったかどうかは分からないんだけど。
「噂通り、黒い影の幽霊だったよ」
「ふーん…」
「黒い影…。何だかはっきりしないね」
全くだ。
人影だけじゃ、正体が分からないじゃないか。
「黒ですか…それが白だったら、オーブの可能性もあるんですけどね」
お、オーブ?
あぁ、心霊写真とかにありがちな、白いもやもやみたいな奴か?
あんな感じでは…なかったなぁ。
もっとリアルな…まるで生きているかのような影だった。
「えっと…それは、見間違いじゃないんだよね?本当に…いたの?」
天音が、不気味そうに尋ねた。
…そうだな。
見間違いだったら良かったんだけど…。
「俺だけじゃない。イレースも令月も、すぐりも見たんだぞ」
俺とイレースだけならともかく。
この中で、誰よりも夜目が利く元暗殺者組までもが、あの幽霊を目撃したのだ。
勘違いではない。
「認めたくはありませんが、確かに黒い影のようなものを目撃しました」
「うん、僕も見た」
「俺も見たよー。気持ち悪かったね」
イレースと令月、すぐりが言った。
俺も含めて四人が…あ、一応シルナも加えておくと、五人の人間が目撃した訳だから。
見間違いでした、では済まないだろう。
さすがにな。
「じゃあ、本当に…。…でも、学院に出てくる幽霊の正体に、心当たりはあるの?」
「…それなんだよ。疑問なのは」
幽霊の姿がもっとはっきり見えていれば、正体を突き止めることが出来たんだろうに。
俺達が見た幽霊は、ただの黒い人影でしかなかった。
シルエットだけじゃ、その正体は分からない。
「学院内で死んだ人間なんていないし…」
「強いて言うなら、『アメノミコト』の襲撃を受けたときに、『アメノミコト』の暗殺者とやり合いましたが」
イレースに言われてから、そういえばそうだったと思い出した。
学院で起きた殺傷事件と言ったら、唯一そのとき…『アメノミコト』の刺客達と戦ったときくらいか…。
じゃあ、『アメノミコト』の暗殺者が化けて出た…とか?
…今更?
『アメノミコト』の襲撃から、結構時間経ってるんだけど。
今更出てきてのか?
随分ラグがあったな。
それとも、何か言いたいことがあって出てきたのか?
しかし。
「それは有り得ないよ」
「何?」
令月が、きっぱりとそう言った。
「『アメノミコト』の暗殺者は、皆殺される覚悟をしてる。殺される覚悟もなしに、人を殺す暗殺者なんていない」
「…令月…」
「だから、例え自分が殺されても、恨んで出てきたりしない」
…そう、なのか。
「そうだねー。俺も…もしかしたら、『玉響』が俺を恨んで出てきたのかと思ったけど…」
と、すぐりが言った。
「…!すぐり、それは…」
「あれは、そういう感じじゃなかったね。一体何の幽霊なんだか…」
「…」
…ますます、謎が深まるばかりだな。
ただ一つ言えるのは、あの黒い影は、愉快な理由で現れたのではないということだ。
きっと、この世を恨んだから出てきたんだろうし。
そう思うと、あの黒い影の正体を、知りたくもあり…知りたくない気持ちもある。
知らない方が良いことって、あるからな。
黒い影の正体も、知らない方が良いのかもしれない。
「さて、これからどうする?」
でも、逃げてはいられない。
もし本当に、何か理由があって、学院に出没しているのだとしたら。
その原因を突き止め、出来ることなら平和的にお引取り願いたい。
これ以上、幽霊騒ぎを広められたら敵わないからな。
「イーニシュフェルト魔導学院には幽霊が出る」なんて噂を広められたら、来年度の受験者数に響くぞ。
幽霊が出ると噂の校舎に、誰が好んで通いたいもんか。
生徒達を安心させる為にも、何とかしなければならない。
ましてや、学院長が全く頼りにならないこの状況だ。
俺達が何とかしなければ。
「僕と天音さんは、まだその影とやらを見ていませんからね。僕達も見たいものですね」
「そうだな…。じゃあ、明日からも深夜のパトロールは続行するか…」
生徒の身の安全を守る為にも、パトロールは続けた方が良いだろう。
今夜で終わると思ってたんだがな。やれやれ。
「そーだね。俺達も、気合い入れて巡回しよっかー」
「うん。次会ったら、捕まえてみせる…」
と、意気込みを語る元暗殺者組。
…お前らは、大人しく学生寮に帰ってろよ。
しかし。
「いやぁ、今回はお二人にも頼りましょうよ。夜の間は、僕達より遥かに頼もしいんですから」
「…そうだな…」
悔しいが、ナジュの言う通りだ。
シルナが全く頼りにならない以上、借りられる手は全部借りたい。
ましてや、夜の闇の中において、この二人に並ぶ者はいないんだし…。
もし、黒い影の正体が『アメノミコト』絡みなのだとしたら…令月達も、無関係ではいられないからな。
既に黒い影を目撃してしまった以上、ここで引き下がるのは、二人共納得しないだろう。
…仕方がない。
今回は…ってか、今回も、令月とすぐりを巻き込むことになってしまうようだ。
俺達が見た、あの黒い影の正体。
それを知ることになるのは、初めて黒い影を目撃した、翌週のことだった。
―――――放課後。
五年生の女子生徒三人組が、廊下を横切る「その人物」を見つけた。
「あ、学院長先生。こんにちは〜」
「こんにちは〜」
「その人物」…学院長シルナ・エインリーに声をかけると。
「…」
シルナは、無言でゆっくりと女子生徒を振り返った。
「丁度良かった。私達、これからおやつもらいに行っても良いですか?」
女子生徒の一人が、悪戯っぽく笑って、そう聞いた。
シルナがいつも、放課後の学院長室に生徒を呼び。
チョコレートやらお茶やら、何かしらのおやつを振る舞っていることは、イーニシュフェルト魔導学院の生徒なら誰もが知るところ。
ましてやこの三人組は、もう五年生。
おやつ目的で学院長室を訪ねても、全く罰されないどころか。
むしろ、来訪を歓迎され、喜んでお菓子を振る舞ってもらえることを知っている。
こんなフランクな会話は、イーニシュフェルト魔導学院では珍しくないのである。
だからこそ、この三人も、きっと喜んでシルナが学院長室に迎えてくれると思っていた。
…しかし。
シルナから帰ってきた返事は、三人の予想を大きく裏切るものだった。
「駄目だよ、そんなこと」
シルナは、笑顔でそう言った。
「え…」
「忙しいんですか?今日…」
面食らった三人が、驚いた顔をしていると。
そんな三人に、シルナは言った。
「学院長室は、君達の遊び場じゃないんだよ。君達も学生なら、遊んでる暇があったら少しは勉強しなさい」
「…」
「…」
「…」
シルナらしからぬ、この発言に。
三人共、思わず絶句してしまった。
そして、何事もなかったように立ち去っていく、シルナの背中を見て思った。
「…学院長先生、一体どうしちゃったの?」と。