神殺しのクロノスタシスⅤ〜前編〜

…しかし。

「…!?」

イレースの打ち込んだ雷魔法は、黒い影には当たらなかった。

イレースが魔法を放つと同時に、黒い影は消えてしまった。

何処に行ったのか。

俺とイレースは、急いで周囲を見渡した。

ちなみにその間シルナは、白目を剥いて、その場に卒倒していた。

あいつは何の役にも立たん。

すると。

「今の影…何処に消え、」

素早く周囲に視線を巡らすイレースの背後に、黒い影が見えた。

「!イレース、後ろだ!」

「!?」

黒い影が、イレースの背後にまとわりつくように蠢いていた。

幽霊に物理的攻撃って効くのか。逆に幽霊の方からの攻撃って、こちらに通るのか。

そもそも、あれは本当に幽霊なのか。

問い質したいことは、いくらでもあったが。

まずは、イレースを助けるのが先だった。

俺も咄嗟に杖を出して、時間を止めようとした。

あれ?でも、幽霊相手に、時魔法って効くのか?

えぇい、つべこべ言ってないで、やるしかない。

「eimt…」

イレースの背後に蠢く黒い影に、時魔法を発動しかけたそのとき。

暗闇から、一人の影がバッ!と現れた。

「!?」

まさか幽霊の増援が、と思われたが。

そうではなかった。

まるで瞬間移動のように、その場に現れたのは。

「令月…!?」

黒装束を身に纏い、小太刀を両手に握り締めた、元『アメノミコト』の暗殺者、令月だった。

令月は躊躇うことなく、小太刀で黒い影を一刀両断しようとした。

令月は、俺達でさえ追いつけないほどの超スピード系アタッカーだ。

本気で令月に狙われたら、彼の姿を見つけたときには、既に首が落ちていると言っても過言ではない。

令月の一撃が、黒い影を真っ二つに切り捨てる…と、思われたそのとき。

「!?」

イレースの雷魔法を避けたように、黒い影は寸前のところで、再び霧のように消えた。

令月の小太刀が、虚しく空を切った。
攻撃を外し、廊下の床に着地した令月は。

小太刀を握り締めたまま、素早く周囲を見渡した。

すると、誰よりも夜目の利く令月が、窓の外に黒い影を見つけた。

「…!『八千歳』!捕獲!!」

「分かってる!」

令月の後ろにいたすぐりが、黒いワイヤーで窓を破壊しながら、窓の外に移動した黒い影に迫った。

しかし。

すぐりのワイヤーが迫ると、黒い影はまたしても、その場に霧散して消えた。

捕獲対象をなくしたすぐりのワイヤーが、ドスッ、と地面に突き刺さっていた。

…!

イレースの雷魔法も、令月の小太刀も…すぐりのワイヤーからも逃げるとは。

幽霊の癖に、あの反射神経は何なんだ。

「ちっ…。逃した…!」

「諦めないで。まだ、近くにいるかも」

「索敵する」

すぐりは、両手から大量の糸を繰り出した。

すぐりの、糸魔法を使った索敵能力は折り紙付きである。

俺とイレースも、令月達ほど夜目は効かないが、周囲を隈なく見渡した。

懐中電灯の灯りで照らしながら、注意深く探してみた…が。

「…いない…」

先程の黒い影は、何事もなかったように、跡形もなく消えていた。

…何だったんだ?あれは。

第二稽古場に繋がる渡り廊下に現れ、イレースの雷魔法を躱し、令月と、すぐりの攻撃さえ躱し。

こちらを嘲笑うかのように、弄ぶだけ弄んで、そのまま消えた。

俺達は、ただ馬鹿にされただけだ。

しかし、俺は怒りより先に、困惑の方が勝っていた。

「ちっ、駄目か…。もういない」

すぐりは舌打ち混じりに、そう言った。

すぐりの糸魔法による探索でも、黒い影の行方は掴めなかったようだ。

襲撃は済んだとばかりに、黒い影は姿を消していた。

…本当に、あれは何だったんだ?
「駄目か〜…。折角見つけたのに…」

「うん…。捕獲し損なった…」

すぐりと令月が、落胆したように言った。

あぁ、お前ら…。

…。

「…何でここにいるんだ?」

改めて、ちょっと冷静になった。

お前ら、何故ここにいる。

すると。

「深夜の巡回」

この野郎。いけしゃあしゃあと。

あれだけ夜間外出やめろと言ってるのに、全く言うことを聞く気配がない。

しかも。

「それと、幽霊を捕獲しようと思って」

「…」

捕獲、ってお前ら…。

幽霊を、猛獣か何かと勘違いしてないか?

捕獲してどうするんだよ。

「惜しかった…。あと少しだったのに…」

「全くだよ。何日も張り込んで、ようやく見つけたのに…」

何だって?

こいつら、連日幽霊捕獲の為に、深夜に校舎内を彷徨いてたのか?

俺達も、ここ最近は連日、パトロールの為に深夜の校舎に来ていたのに。

令月達の姿を見つけたのは、今夜が初めてだぞ?

「俺達も毎日パトロールしてたのに、全然会わなかったな」

「あぁ、うん。隠れてたから」

「羽久せんせー達に見つかったら、帰れって怒られると思ったからさー。姿を見つけても、敢えて避けてた」

お前らは、俺達を見つけてたのか。

見つけていながら、気配を消して隠れてやがったんだな。

全く、姿形も、それどころか微かな気配さえ感じなかった。

さすが、夜の闇の中においては、令月達に並ぶ者はない。

二人の方から姿を現さなかったら、多分ずっと気づかないままだった。

本物の幽霊より、令月達の方が余程幽霊っぽい。

…で、それはともかく。

「何だったんだ、今のは…?」

令月達への説教は、後回しだ。

それより、さっき俺達が見たのは、何だったんだ?

咄嗟に、魔法まで使いそうになったけど…。

もしかして、さっきの…何度も現れては消えた、あの黒い影が…。

「何って、今のが幽霊なんでしょ」

令月が、あっけらかんとして言った。

…やっぱり?

そうだったら嫌だな〜と思ってたけど…やっぱり、そうなのか。
…悲報。

ただの噂話だと思っていた幽霊騒ぎが、真実味を帯びてきた。

実際にこの目で見せられたのだから、否定のしようがない。

念の為、頬を抓ってみたが。

ちゃんと痛かったので、ワンチャン夢かもしれない可能性もゼロ。

そうか、やっぱり駄目か。

確かにあれは、見間違いではなかった。

「令月、すぐり…。さっきの黒い影…人影だったよな?」

「うん。人の形してたね」

「あれは人間だね」

ワンチャン、構内に迷い込んだ野良犬の可能性もあったのだが。

令月とすぐりに否定された以上、野良犬の可能性はゼロ。

この二人が、暗闇の中で人影を見間違えることは有り得ない。

…ということは、やっぱりさっきのは…。

「この目で見てしまったら、信じない訳にはいかないよな…」

「…幽霊かどうかは別にして、何者かが学院内に出没しているのは、確かなようですね」

さすがのイレースも、認めざるを得なかったらしい。

イレースは意固地な訳ではない。これまで頑なに幽霊を認めなかったのは、自分の目で見たことがなかったから。

自分の目で確かに見てしまったら、幽霊だろうとちゃんと認める。

本当に幽霊かどうかは、まだ分からないけどな。

「あれって、本当にお化けなのかな?」

「さぁねー。そうかもしれない」

…。

令月とすぐりは、意外と冷静…と言うか。

むしろ、面白がっている風にそう言った。

…うん。

「とりあえず…ナジュと天音を呼んでこようか」

令月達を追い返したいところだが、残念ながらこの二人も、重要な目撃者の一員なので、追い返すことは出来ない。

この二人も交えて、ちょっとナジュと天音を呼んで、作戦会議だ。

…が、その前に。

「…こいつ、どうする?」

俺は、白目を剥いて気絶しているシルナを指差した。

よく見たら、口から泡を吹いていた。

幽霊を目の当たりにして、意識が吹っ飛んだらしい。

「知りませんよ。放っておきなさい」

イレースは、吐瀉物を見るような目でシルナを見下ろした。

そうか。

俺も、そうした方が良いと思う。

じゃ、置いていくか。

朝になったら、勝手に自分で起きて戻ってくるだろ。多分。

…と、思ったら。

「学院長、置いていくの?」

「かわいそーだから、引き摺ってあげるよ」

すぐりが、両手から糸を出して、繭のようにシルナをくるんで、ずるずる引き摺っていった。

良かったな。すぐりがいて。

置き去りにされずに済んだぞ。
深夜だったが、急遽ナジュと天音を呼んできた。

天音の方は「緊急事態から来て」と言うと、飛び起きて来てくれたが。

ナジュの方は、

「も〜…。何なんですか?今リリスとイチャイチャしてたのに…」

などと、不満たらたらであった。

「幽霊が出たんだよ」

どうだ。少しは驚いたか。

しかし。

「幽霊?幽霊が出たくらいで、僕のイチャイチャタイムの邪魔をしないでください」

殴るぞお前。

幽霊だぞ。もっと反応ってもんがあるだろ。

「全くもう…折角良い感じに盛り上がって…。え?本当に幽霊が出たんですか?」

「そうだよ」

「…」

ナジュは、しばしぽやんとしてから。

「何で捕獲しなかったんですか?」

と、尋ねた。

何で捕獲前提なんだよ。

「捕獲しようとしたけど、逃げられたんだよ」

「へぇ。幽霊って、意外とすばしっこいんですね」

そうらしいな。

あの令月とすぐりから逃げるんだから、なかなかのもんだよ。

すると、天音が横から聞いてきた。

「そ、それで羽久さん。あの、学院長先生は…?」

「…ご覧の通りだよ」

シルナは、気絶したまままだ目が覚めていない。

すぐりの糸繭にくるまれたまま、ミノムシみたいになって意識を失っている。

情けない姿だ。

余程幽霊が怖かったと見える。

「だ、大丈夫かな…。学院長先生、学院長先生!起きてください」

天音が必死になって、シルナを揺り起こそうとしたが。

「…」

シルナ、無反応。

もう死んでるんじゃね?

「幽霊を見た程度で死ねるなんて…幸せな人生ですね」

ナジュの皮肉が突き刺さる。

全くだよ。

「シルナは放っといて…さっきの黒い影について話し合おうぜ」

「ほ、放っといておくのは可哀想なんじゃないかな…。とりあえず、毛布だけかけておいてあげよう…」

そう言って、天音は保健室から毛布を持ってきて、気絶したシルナにそっとかけてあげていた。

天音が優しくて良かったな、シルナ。
「で、皆さんが見た幽霊って、どんな形だったんですか?」

「さっき、黒い影って言ってたけど…。黒い影の幽霊だったの?」

この場で、幽霊を目にしていないナジュと天音が尋ねた。

そうだな…。

「幽霊と言うと、髪の長い白い服を着た女が…。みたいなのが定番ですけど」

「そ、それは…漫画やドラマの話じゃないの?」

そもそも、ここは学校だからな。

出てくるとしても、制服を着た子供の霊じゃね?

いや、あの黒い影の正体が、子供だったかどうかは分からないんだけど。

「噂通り、黒い影の幽霊だったよ」

「ふーん…」

「黒い影…。何だかはっきりしないね」

全くだ。

人影だけじゃ、正体が分からないじゃないか。

「黒ですか…それが白だったら、オーブの可能性もあるんですけどね」

お、オーブ?

あぁ、心霊写真とかにありがちな、白いもやもやみたいな奴か?

あんな感じでは…なかったなぁ。

もっとリアルな…まるで生きているかのような影だった。

「えっと…それは、見間違いじゃないんだよね?本当に…いたの?」

天音が、不気味そうに尋ねた。

…そうだな。

見間違いだったら良かったんだけど…。

「俺だけじゃない。イレースも令月も、すぐりも見たんだぞ」

俺とイレースだけならともかく。

この中で、誰よりも夜目が利く元暗殺者組までもが、あの幽霊を目撃したのだ。

勘違いではない。

「認めたくはありませんが、確かに黒い影のようなものを目撃しました」

「うん、僕も見た」

「俺も見たよー。気持ち悪かったね」

イレースと令月、すぐりが言った。

俺も含めて四人が…あ、一応シルナも加えておくと、五人の人間が目撃した訳だから。

見間違いでした、では済まないだろう。

さすがにな。

「じゃあ、本当に…。…でも、学院に出てくる幽霊の正体に、心当たりはあるの?」

「…それなんだよ。疑問なのは」

幽霊の姿がもっとはっきり見えていれば、正体を突き止めることが出来たんだろうに。

俺達が見た幽霊は、ただの黒い人影でしかなかった。

シルエットだけじゃ、その正体は分からない。

「学院内で死んだ人間なんていないし…」

「強いて言うなら、『アメノミコト』の襲撃を受けたときに、『アメノミコト』の暗殺者とやり合いましたが」

イレースに言われてから、そういえばそうだったと思い出した。

学院で起きた殺傷事件と言ったら、唯一そのとき…『アメノミコト』の刺客達と戦ったときくらいか…。

じゃあ、『アメノミコト』の暗殺者が化けて出た…とか?

…今更?

『アメノミコト』の襲撃から、結構時間経ってるんだけど。

今更出てきてのか?

随分ラグがあったな。

それとも、何か言いたいことがあって出てきたのか?

しかし。

「それは有り得ないよ」

「何?」

令月が、きっぱりとそう言った。
「『アメノミコト』の暗殺者は、皆殺される覚悟をしてる。殺される覚悟もなしに、人を殺す暗殺者なんていない」

「…令月…」

「だから、例え自分が殺されても、恨んで出てきたりしない」

…そう、なのか。

「そうだねー。俺も…もしかしたら、『玉響』が俺を恨んで出てきたのかと思ったけど…」

と、すぐりが言った。

「…!すぐり、それは…」

「あれは、そういう感じじゃなかったね。一体何の幽霊なんだか…」

「…」

…ますます、謎が深まるばかりだな。

ただ一つ言えるのは、あの黒い影は、愉快な理由で現れたのではないということだ。

きっと、この世を恨んだから出てきたんだろうし。

そう思うと、あの黒い影の正体を、知りたくもあり…知りたくない気持ちもある。

知らない方が良いことって、あるからな。

黒い影の正体も、知らない方が良いのかもしれない。

「さて、これからどうする?」

でも、逃げてはいられない。

もし本当に、何か理由があって、学院に出没しているのだとしたら。

その原因を突き止め、出来ることなら平和的にお引取り願いたい。

これ以上、幽霊騒ぎを広められたら敵わないからな。

「イーニシュフェルト魔導学院には幽霊が出る」なんて噂を広められたら、来年度の受験者数に響くぞ。

幽霊が出ると噂の校舎に、誰が好んで通いたいもんか。

生徒達を安心させる為にも、何とかしなければならない。

ましてや、学院長が全く頼りにならないこの状況だ。

俺達が何とかしなければ。

「僕と天音さんは、まだその影とやらを見ていませんからね。僕達も見たいものですね」

「そうだな…。じゃあ、明日からも深夜のパトロールは続行するか…」

生徒の身の安全を守る為にも、パトロールは続けた方が良いだろう。

今夜で終わると思ってたんだがな。やれやれ。

「そーだね。俺達も、気合い入れて巡回しよっかー」

「うん。次会ったら、捕まえてみせる…」

と、意気込みを語る元暗殺者組。

…お前らは、大人しく学生寮に帰ってろよ。

しかし。

「いやぁ、今回はお二人にも頼りましょうよ。夜の間は、僕達より遥かに頼もしいんですから」

「…そうだな…」

悔しいが、ナジュの言う通りだ。

シルナが全く頼りにならない以上、借りられる手は全部借りたい。

ましてや、夜の闇の中において、この二人に並ぶ者はいないんだし…。

もし、黒い影の正体が『アメノミコト』絡みなのだとしたら…令月達も、無関係ではいられないからな。

既に黒い影を目撃してしまった以上、ここで引き下がるのは、二人共納得しないだろう。

…仕方がない。

今回は…ってか、今回も、令月とすぐりを巻き込むことになってしまうようだ。
俺達が見た、あの黒い影の正体。









それを知ることになるのは、初めて黒い影を目撃した、翌週のことだった。






―――――放課後。

五年生の女子生徒三人組が、廊下を横切る「その人物」を見つけた。

「あ、学院長先生。こんにちは〜」

「こんにちは〜」

「その人物」…学院長シルナ・エインリーに声をかけると。

「…」

シルナは、無言でゆっくりと女子生徒を振り返った。

「丁度良かった。私達、これからおやつもらいに行っても良いですか?」

女子生徒の一人が、悪戯っぽく笑って、そう聞いた。

シルナがいつも、放課後の学院長室に生徒を呼び。

チョコレートやらお茶やら、何かしらのおやつを振る舞っていることは、イーニシュフェルト魔導学院の生徒なら誰もが知るところ。

ましてやこの三人組は、もう五年生。

おやつ目的で学院長室を訪ねても、全く罰されないどころか。

むしろ、来訪を歓迎され、喜んでお菓子を振る舞ってもらえることを知っている。

こんなフランクな会話は、イーニシュフェルト魔導学院では珍しくないのである。

だからこそ、この三人も、きっと喜んでシルナが学院長室に迎えてくれると思っていた。

…しかし。

シルナから帰ってきた返事は、三人の予想を大きく裏切るものだった。

「駄目だよ、そんなこと」

シルナは、笑顔でそう言った。

「え…」

「忙しいんですか?今日…」

面食らった三人が、驚いた顔をしていると。

そんな三人に、シルナは言った。

「学院長室は、君達の遊び場じゃないんだよ。君達も学生なら、遊んでる暇があったら少しは勉強しなさい」

「…」

「…」

「…」

シルナらしからぬ、この発言に。

三人共、思わず絶句してしまった。

そして、何事もなかったように立ち去っていく、シルナの背中を見て思った。

「…学院長先生、一体どうしちゃったの?」と。