神殺しのクロノスタシスⅤ〜前編〜

――――――…死人に口無し、という言葉がある。



人間は、都合の悪い出来事をなかったことにしたがる生き物。

だから殺す。

都合の悪い人、都合の悪い出来事を、なかったことにする為に。

死んでしまえば、全ては無に帰る。

どろどろに淀んだ悲劇は、全て美談となる。

生きている間に起きたあらゆる事象が、全て過去になる。

だから殺す。

誰しもそう。自分にとって都合の悪い人がいるなら、死体にすれば良い。死体になれば良い。

そうしたら、何もかも全てが解決する。

誰にも平等に、等しく訪れる命の終わり。

それは同時に、あらゆるしがらみに満ちた、現世からの解放だ。

死んでしまえば、もう何も感じることはない。何も憂うことはない。

時間の経過と共に、死人達は風化され、忘れられ、過去という箱の中に入れられ、忘却という蓋をされる。

人間の命なんて、そんなものだ。

それが自然の摂理であり、この世の理である。












…本当に?





俺は、そうは思わない。

死体にだって、死体の権利がある。

死人にだって口はある。忘却されることを望んでいない。

死人に口がないなんて、全ては、生きている者が都合良く解釈した結果に過ぎない。

死んでしまえば、それで終わりだから。それ以上は何も続かないから。

だから、何もかも綺麗に解釈して、美談として終わらせたがる。

でも、それは生者の都合に過ぎない。

死んだ本人が、何を望んでいるか。

誰もそんなことは考えない。

死人の気持ちを、誰も考えようとしない。

どうして?

どうして?

どうしてなのか。

その答えは一つ。




「皆、『君達』には黙っていてもらわないと、都合が悪いんだよ」

可哀想にね。勝手に口を封じられて。

…可哀想だから。













俺が、君達の代わりになってあげるよ。










―――――――…ルーデュニア聖王国、王都セレーナにある、イーニシュフェルト魔導学院にて。

その夜、ちょっとした事件が起こる。

…と、いうのも。






「うぅ…。真っ暗…」

「ねぇ、やっぱり引き返そうよ。明日で良いじゃない」

「駄目だよ…。今夜中に取りに行っておかないと、明日の試験に間に合わないよ」

「そ、それはそうだけど…」

パジャマ姿の二人の少女が、女子学生寮からこっそりと抜け出し。

学生寮から学院校舎に繋がる廊下を、そろそろと歩いていた。




「机の中に、入れっぱなしにしちゃって…」

少女は、教室の自分の席に忘れ物をしたらしい。

一冊のノートなのだが、たかが一冊のノートでも、今の少女にとっては黄金より価値のあるものだった。

夜が明けたら、朝一番の授業で、そのノートの科目の小テストが行われる。

つまりそのノートがないと、少女は今夜試験勉強が出来ないのだ。

しかも、小テストが行われる科目の担当教師は、イーニシュフェルト魔導学院で一番厳しい女教師、イレース・クローリアである。

彼女相手に、「ノートを持って帰るのを忘れていたので、勉強していません」などという、ふざけた言い訳は通用しない。

ガミガミネチネチと怒られ、補習授業を受けさせられることは必至。

門限を過ぎ、消灯時間が過ぎてから、少女は明日の小テストの存在を思い出し、飛び起きた。

そして、同室の女子生徒に相談し。

じゃあ、こっそり校舎に忍び込んで取りに行こう、という話になった。

それで、二人はこんな時間に、こんなところにいるのだ。

最初は、校舎にノート一冊を取りに行くなんて、何でもないことだと思っていた。

しかし、寝静まった学生寮の廊下を、人目を忍んでそっと歩き。

学生寮を出て、校舎に向かう為に外に出ると途端に、真っ暗な闇の中を歩くことになって。

二人共、最初の威勢の良さは何処へやら。

内心、引き返したいという思いを抱えながら、それでも「ここまで来たからには…」と、ゆっくりと歩みを進めた。

普段何気なく歩いている、校舎までの道のり。

周囲が真っ暗なだけで、こんなにも長く感じるとは。

「校舎…鍵かかってたらどうしよう?」

「そのときは、もうどうしようもないから…諦めるよ」

二人の少女は、夜間に校舎に忍び込んだ経験などなかった。当たり前だが。

従って、夜の間、校舎は施錠されることを知らなかったのだ。

これが普段通りであれば、二人は施錠された校舎の扉を前に、諦めて学生寮に引き返すしかなかったのだが…。

「あ、良かった。開いてる…」

何故かその晩、校舎の扉は開いていた。

施錠のし忘れ?

そんなことは有り得ない。

何故なら、夜、外に通じる全ての窓や扉を施錠するのは。

他でもない、前述のイレース教師だからである。

何事も完璧主義の彼女が、うっかり鍵を締め忘れました、なんてことは有り得ない。

なら、何故この扉は開いていたのか。

その理由を、二人の少女が知ることはない。

二人はさっさと帰りたい一心で、急いで校舎の中に足を踏み入れた。
「うわぁ…。真っ暗…」

夜の空も真っ暗で、二人にとっては恐ろしかったが。

建物の中に入ると、先程までとはまた違う、別の不気味さを感じた。

昼間の明るい校舎内しか知らない為に、余計、静まり返った校舎内が不気味だった。

二人共、執拗に視線を動かし、きょろきょろしながら校舎内を歩いた。

その足取りは重く、忍者のように静かだった。

「ね、ねぇ…」

片方の少女が声をあげた。

「な、何?」

「こ、この校舎って…その、幽霊とか出ないよね?」

二人共、内心怯えていたことを口にした。

「ま、まさか。変なこと言わないでよ」

「でも…。聞いたことない?学院の七不思議って…」

「それは…あるけど、でもあれって、デマなんでしょ?」

「そうなの…?」

「学院長先生とグラスフィア先生が、実際に確かめたって…」

「そ、そうなんだ…。じゃあ、大丈夫だよね…」

「…」

大丈夫だと言いながら、二人はちっとも安心していなかった。

俺とシルナが、いつぞや校舎内を歩いて確かめた、七不思議の噂が本当か否か。

二人の少女には知る由もなかったし、そもそも七不思議の噂がなくても、怯える理由は充分にある。

イーニシュフェルト魔導学院は、ルーデュニア聖王国建国以来、古くから存在する、歴史ある学院だ。

建物は、何度も改修工事をしているとはいえ、やはり古いものだし。

歴史があるということはすなわち、それだけこの校舎で、様々な出来事が起きたということだ。

二人が知らないだけで、もしかしたら、校舎内で死亡事故が起きたことがあるんじゃないか、とか。

学院に恨みを持つ誰かの魂が、校舎内を彷徨ってるんじゃないか、とか。

想像力豊かな思春期の少女達が怯えるには、充分過ぎるシチュエーションである。

…ちなみに、学院の名誉の為に断っておくが。

校舎内で、生徒の死亡事故が起きたことはない。

学院が創立されて以来、そのような不名誉は一度も起きていない。

全ては、学院内の生徒を何としても守るという、学院長シルナ・エインリーの献身的な努力の賜物である。

…それはともかく。

二人の少女は、きょろきょろと周囲を見渡しながら、何とか教室に辿り着いた。

校舎に鍵がかかっている為、教室の扉は施錠されていない。

二人共、がらがらと教室の引き戸を開けて、中に入った。

相変わらず真っ暗で、不気味な校舎ではあったが。

少しずつ、二人共慣れてきていた。

「早く、急いで」

「ちょっと待って。…確かここに…」

少女は机の引き出しの中を覗き込み、目当てのノートを探り出した。

「良かった、あった…」

胸を撫で下ろしながら、ノートを掴む。

これでもう、不気味な夜の校舎に用はない。

あとはノートを持って、学生寮に帰るだけだ。

二人共ホッとして、教室を出た。




…そのときだった。



「っ!!誰!?」

二人は、何者かの視線を感じて振り向いた。

安心しかけていた身体が、緊張のあまり固まった。

二人が振り向いた、その先には。

「お…お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛…」

嗄れた呻き声をたてながら。

謎の黒い影が、カツン、カツン、と、何か硬いものを引き摺りながら、こちらに向かって歩いてきた。

それを見た二人の少女は、堪えていた恐怖を爆発させた。




「…っ!!きゃぁぁぁぁぁ!!」



夜の校舎内に響くその叫び声に、俺は驚いて飛び起きた。




少女の叫び声を聞きつけたのは、俺だけではなかった。

「え、何々?どーしたの?」

「凄い叫び声だった」

蠟燭の灯るランタンを持った二人の元暗殺者が、少女達の叫び声を聞きつけ。

俺が飛び起きるより先に、現場に急行していた。

「嫌ぁぁぁ!助けてぇぇぇ!」

「え、何から?何かいたの?」

「きゃぁぁぁぁ!?」

漆黒の闇に溶けるような、黒装束を着た二人の元暗殺者が。

全く気配を感じさせず、あまりに唐突に目の前に現れたことにより。

少女達は、先程の黒い影の出現とは、また別の理由で叫び声をあげていた。

二人にしてみれば、立て続けに不審な人物が目の前に現れたのだ。

ただでさえ恐怖に怯えているときに、そんな目に遭えば、パニックを起こすのも無理はない。

しかし元暗殺者達は、何故二人が叫んでいるのか分からず、首を傾げる。

「どうしたの?何かいたの?」

何かいたの、じゃねぇ。

お前達の方こそ、何でいるんだ。

と、そのときにようやく、俺は現場に辿り着いた。

二人の少女にとってもそうだろうが。俺にとっても、目の前の光景が信じられなかった。

校舎内で叫び声が聞こえたから、何事かと慌てて駆けつけてみたら。

パジャマ姿の少女二人が、互いに互いを抱き抱えるようにして、廊下にへたり込んでおり。

そんな二人の様子を、イーニシュフェルト魔導学院の元暗殺者組がランタン片手に、不思議そうに眺めている。

な、何事…?

「お前達、何でこんなところにいるんだ?何があった?」

「…」

二人の少女に尋ねるも、二人共恐怖に引き攣った顔をして、一言も口が利けずにいた。

とにかく、二人を落ち着かせないと。

俺は廊下にしゃがんで、努めて優しい口調で言った。

「大丈夫だ。俺が誰か分かるか?羽久(はつね)・グラスフィアだ」

「ぐ…グラスフィア…先生…?」

「そうだよ」

ようやく、二人は目の前にいるのが自分達の教師だと気づいたようだ。

…ん?よく見たらこの二人、四年生の女子生徒じゃなかったか?

俺はシルナと違って、全ての生徒の顔と名前を覚えている訳じゃないから。正直、ちょっと自信がないが。

確か、四年生の生徒だったと記憶している。

「お前達、一体どうしたんだ?何があった?」

消灯時間はとっくに過ぎているのに、何故二人がこんなところにいるのか。

先程の叫び声は何だったのか。

聞きたいことは山ほどある。

「お…お化け…」

「は?」

片方の女子生徒が、震えながら廊下の先を指差した。

「い、今、そこに…お、お化けが…」

お…お化け?

俺は、女子生徒の指差す方向を向いたが。

「…」

そこには、何もいなかった。

ただ、真っ暗な空間が広がっているだけだった。