「《ルビ》戸黒《タヌキ》が情状酌量を願い出るつもりだろうが。当時買い叩いた値段で里穂に土地を売買してもいいと申し出てきた」
途端、里穂が嫌悪の表情になる。慎吾が澄まして言う。
「俺がそのまま買い受けた」
慎吾はフライマン・シンゴのような悪い笑みを浮かべた。
「あと。不思議なことに、奴の地盤の隣接地にエスタークホテルが建つと噂が立っている」
里穂は目をまん丸くした。
ふと、気づく。
過去の悪夢が好転したのは。世間が、戸黒の罪と里穂達が陥れられたのだと知ったのは。
「……慎吾が全部してくれたの……?」
慎吾は、里穂の呟きに気づかないフリをする。
「我々が原因じゃないと思うが、どうしてか奴の財布である温泉街は急速にさびれていってる」
慎吾がニコリと笑う。
政治パーティで予想通りの展開となり、通称『慎吾番』記者がスクープした。
『エスタークホテルチェーン、Q市へ進出か!』
観光業界、とりわけR市に激震が走った。
「それって」
言いかけた里穂の唇を慎吾が指で押さえて遮る。
「計画は未定。『遊びの王国』の母体会社とは『彩皇』で元々契約締結の準備中だから、誰も損はしない」
しないだろうが。
「でも」
慎吾はち、ち……と一本指をたてて振って見せる。
「ま、黒ダヌキを退治したら、Q市もR市もまとめてエスタークが面倒を見ようかなとは思っている。相乗効果を狙って、いくらでもやりようがある」
そんなに簡単にいくものだろうか。
不安そうな里穂の表情に気づいたのか、少しだけ説明してくれた。
「リハビリセンターやスポーツ選手のためのトレーニングセンターを作ってもいいし。合わせて運動科学の最先端の学部の誘致とか複合計画を県に持ち込んでもいいかな、と」
こともなげに大きな構想をいう男に、里穂は理解が追いつかない。
「日本での国際試合の際に誘致アピールにもなるから県にも国にも美味しい。勿論、エスタークの最上のホスピタリティ付きでね」
慎吾は里穂の唇に指をあてると、艶かしい色の双眸で彼女の瞳を覗き込んだ。
里穂は真面目な話をしているにもかかわらず、男の色気にあてられてドキリとしてしまう。
「企業秘密だからね? まだ、里穂と俺と護孝だけのナイショだぞ」
うなずくしかできない。けれど、慎吾がするといえば実行してしまうのだろうと思う。
あーう、と慎里が声をあげた。
「勿論、我が息子よ。おまえも保育園で喋るなよ。男と男同士の約束だぞ?」
慎吾が慎里に念押しすれば、まかせとけとばかりに息子があぶうという返事をしたので、里穂は声を出して笑った。
慎吾が真面目な表情になる。
「あと、これ」
慎吾が一葉の写真を示し、旅館があったところに『おかえりやす』と刻まれた石碑を置いたと説明した。
「ご遺体の代わりというか、ご両親が一番帰りたかったところだろうと思った」
彼の説明に、里穂は耐えきれず涙を流した。
里穂の記憶をもとに、無縁仏として葬られた場所を探したが二人の遺骨は見つからなかった。
何年も経過していると引き取り手がないと見做されて、骨壷から出して合祀されてしまうらしい。
「……ありが、とう……」
自分では両親の遺骨を探すことも引き取ることも諦めていた里穂は、礼を言いながら書類を抱き締めた。
「元々里穂のものだから。君の子供達に伝わるのをご両親も喜んでくださるよ」
「うん」
里穂は涙ながらに微笑んだ。
慎吾が彼女を抱きしめる。
彼女は自分の腕に回された彼の腕に手を添えた。
「里穂はご両親の旅館を再建したいか?」
「ううん」
慎吾の問いに、里穂は首を横に振った。
旅館経営は、一人では出来ない。自分達に敵意を向けたあの場所に戻りたくない気持ちもある。
慎吾が一緒に来てくれれば。
けれど、この男はあんな小さな旅館に閉じ込めていい男じゃない。両親には申し訳ないが、彼のそばで慎里共々暮らしたい。
「火事が私のせいじゃないって証明してくれた。戸黒に罪を認めさせて、父や母の名誉を復活させてくれた。それだけで十分」
彼女の目は真っ赤になっていたが、迷いのない笑顔だった。
「奴と対決していた時の里穂は、カッコよくて惚れ直した」
慎吾が彼女のすべすべの頬にほおずりする。
彼の伸びかけの髭がくすぐったくて、里穂は体をよじった。
「じゃあ、たまには怒ろうかな」
「俺は全力で君のご機嫌をとりまくるよ」
……二人はやきもちを焼いた慎里が割って入るまで抱き合っていた。
【おかえりやす】に関する譲渡手続きが完了したのは 奇しくもハロウィンの日。
職場復帰した里穂がホテル内で実習に勤しんでいると、メッセージが届いた。
【ホテルエスタークよりプレゼントです
十月三十一日から十一月一日の一泊二日を無料でご招待
お客様の専属スタッフがご用を承ります
ラグジュアリーな休日をお過ごしください】
「これって!」
人の気配のないところに移動する。ドキドキしながら里穂は慎吾に電話をかけた。
『里穂、メッセージ読んだか』
「うん」
『ようやく里穂の電話番号の番になったよ』
携帯電話から届く甘い声は、まるで耳元でささやかれているようで頬が火照ってくる。
二人が出会ったハロウィンの日、わざわざ泊まった部屋に里穂を呼ぶ、その意味。
『……慎里は親父とお袋のところに預かってもらったから。二人とも、大喜びで連れて行った』
何気なく言われたが、緊張する。
自分と彼は相思相愛だと確信している。
大好きな人から二人きりで夜を過ごしたいと望まれていて、勘違いなどしない。
里穂も彼と愛しあいたいと切望していた。
もう、その気持ちを引き止める足枷はない。
「……プレゼント、嬉しい」
だから返事には迷いはない。ないが、はにかんでしまう。
『里穂は先にチェックインしてくれ。俺も仕事が終わり次第、追いかける』
「わかった」
『じゃあな。あ、里穂』
「なに?」
『愛してるよ』
耳に六文字が飛び込んできた直後、電話は切れた。
ずるずるずる。
足に力が入らない。
里穂は危うく、床にうずくまりそうになった。
力の入らない膝を叱咤して、なんとか姿勢をただす。
「もう……! そんなことを言われたら午後の授業身に入らないじゃない……」
もっと前もって言ってくれれば、下着だってロマンティックなものを買って着けてきたのにと、文句を言いたくなる。
けれど、里穂の顔は幸せでキラキラしていた。
「慎吾のばか。……大好き」
手で自分の頬に触れれば、とても熱い。
十八時きっちりに里穂はロッカー室に飛び込んだ。
ホテル併設のショッピングアーケードの中にある高級ランジェリーショップまで、可能な限りの早歩きで移動する。
走りたいけれど、ホテルの従業員がダッシュする訳にはいかない。
十分後、小さなショッピングバッグを大事に胸に抱えながら歩いていく里穂の頬は真っ赤に色づき、瞳が潤んでいた。
ショッピングアーケードからエスカレーターで三階まで上がると、ホテルフロアになる。
里穂は照れくさかったからフロントを通り過ぎて、エレベーターを使う。
ドキドキしながら階数を押せば、あの日から忘れたことのない、けれどあの日以来入ったことがない部屋のフロアに到着した。
ドアはスタッフが持っているマスターキーを差し込めば解錠できる。
なぜか緊張しつつドアを開けた。
途端、パッと照明がついたところを見ると、まだ慎吾は到着していないらしい。
里穂はこれから悪いコトをするような気持ちで、ショッピングバッグを抱えてバスルームに入った。
シャワーを浴びていると、チャイムが鳴った。
どうしようと思いつつ無視することは出来ない。
バスルームに設置してあるインターフォンで返事をする。
「どうぞっ」
……シャワーを浴びているなんて、はしたなかったろうか?
急に自分の行動が積極的すぎるのが気になってしまった。
「でも実技で汗かいたし」
下着だって取り替えたい、と自分に言い訳をする。
「慎吾……入ってくるかなぁ」
彼も仕事終わりである。
『俺も!』と入ってくる可能性はありえる。
里穂は気づいた。
「そういえば、今まで一緒に入ったことない」
慎里を風呂に入れてくれるのはメインで慎吾がしてくれる為、脱衣所で息子を受け渡す時に彼の裸体をチラっと見る程度だ。
見てはいけないと一生懸命下を向いているので、ほんとうにほんの一瞬。
この数ヶ月、彼の肌を見たのはそれくらいである。
『風呂を一人きりでゆっくり入ってこい。……乱入したいのはやまやまだが、ご子息といい子にして里穂の出るのを待ってるよ』
家での慎吾は、ウインクしながら彼女に憩いの時間をくれた。
「どうしよう……」
なので、照明付きでいきなり一緒の風呂というのはハードルが高い。
出るべきか、待っているべきか。
けれど、いつ入ってくるかわからないのに、悠長に泡だらけになってもいられない。
石鹸で体中を磨き上げるのは諦めて、シャワーで汗だけを流した。
買った下着を身につけた上にバスローブを重ねた。
脱衣所を出ようとして、ためらってしまう。
『恋人とのデートだ』と言って店員と一緒に選んだ下着はセクシーすぎたかもしれない。
慎吾に会うのが怖い。
「エッチな女、て思われたらどうしよう」
そっと、部屋と脱衣所の境のドアを開ければ部屋は薄ぼんやりとした間接照明だけになっている。
逆光で見えづらいがベッドの前に誰かいるようだ。びくびくしながら近付いていく。
「慎吾?」
そっと声をかけると、その人物は振り返った。
目を見張った後、里穂は思わず駆け寄って抱きついていた。
「シンゴ!」
ハロウィンの日、愛し合ったフライマン・シンゴがいた。
「里穂ならそうやって抱きついてくれると思ってた!」
彼は嬉しそうにいうと里穂を抱き上げて振り回した。
くるくると回って、ドサリと二人でベッドに倒れ込む。
「愛している。俺のものにもう一度なってくれないか」
包帯マスクの下から覗く目が飢えきっていた。
里穂はたまらず彼のマスクをむしり取る。
彼の両頬を手で挟んでささやいた。
「私はずっと慎吾のものだったよ……」
「里穂」
二人の影が重なる。
彼の重みや体温に酔いしれていると、耳元で小さいな……という声が聞こえた。
里穂の人生史上最高にロマンチックな瞬間に、なにを言い出すのだ、この男は。
む、として慎吾を自分の上からどかそうとするが、男はびくともしない。
「どうした?」
慎吾は里穂の耳を食みながら問うてきた。
「どうしたもこうしたも」
さらに腹がたつことに、慎吾は己の失言に気付いてないらしい。
里穂は彼から与えられた刺激に身をよじらせながらも口を尖らせる。
自分がAカップだとわかっているが、第三者とりわけ好きな男に言われるとショックが大きい。
……正直、ランジェリーショップで選んでいる時、ベビードールとショーツだけでブラジャーはいいかと思った。
彼には全てを見られてしまっている。胸が平らなこともだ。
だが、山二つは無理でも緩やかな丘くらいは作っておきたい女心からブラジャーを買ってつけたのに。
「どうせ、つるぺたのまな板だもんっ」
妊娠中、最大の巨乳になれた。
おおお、と鏡の前で胸をそらしてみたり、乳房を下から掬い上げては重さを喜んでみた。
母乳が出る限り、慎里に飲ませることができたのも誇らしかった。
ンく、ンくと一生懸命に乳を吸ってくれる姿を見るとどうしようもなく幸せだった。
……卒乳したあと、巨乳も卒業してしまった。
「いつか慎吾に触ってもらうんだと思って一生懸命ケアしてたのに」
小さくてもすべすべでふわふわな感触を目指してきたのに。まさか触れられる前にダメ出しを喰らってしまうとは。
彼はしばしあっけに取られ、やがてにこりと微笑んだ。
「里穂は俺のために努力してくれてたのか」
は、と気がついた里穂が慌てて口を押さえても、もう遅い。