あなたの傷痕にキスを〜有能なホテル支配人は彼女とベビーを囲い込む〜

 慎吾と面談した後、里穂と慎里の生活は一変した。

 慎里は以前の無認可保育園から、ホテル学校と同じ建物に併設されているエスターク直営の保育園に通っている。

 里穂はエスタークグループの「本店」と呼ばれる旗艦ホテル内に設置されているホテル学校への入学を果たし、九時から十八時までの勤務となった。

 課題は多いが、情報漏洩という見地からマニュアルは教室外持ち出し禁止。

 生徒達はホテル学校内で知識やスキルを覚え込まなければならない。……ではあるのだが。

 テーブルセッティングを学んで自宅に帰ると、その日のテーブルを素晴らしく整えてしまう。

「おお! 我が家のダイニングが一流レストランっぽい!」

 慎里を抱っこしながら部屋に入ってきた、慎吾が歓声を上げた。

「並べるのはデリだったりするんだけど」

 褒められて嬉しいが、食事を作らない申し訳なさがある。

「料理をしないのは俺もだからな。慎里と互いが最優先。俺も里穂も人生のなかで仕事の比重は大きい。それ以外の省略できるところはしていけばいい」

 彼の最優先に自分と息子がいる。里穂の頬が嬉しさで染まった、のだが。

「……そう言われても」

 世の中男女平等と言われてもつい、引け目に感じてしまう。
「仕事をして家事をして、その上育児もこなせるなんてスーパーすぎる。俺はできない。だから、里穂だけできるようにならないでくれ」

 ウインクを寄越された。

「それに、見た目は大事だぞ? 豪華なセッティングでデリを食べるとグレードアップした気になるしな。慎里もべビーフード、いつもよりうまく感じるだろう?」

 慎吾に訊かれて慎里はうまうまと大喜びで食べ、その日は一度も吐き飛ばさなかった。

「こいつ、母親孝行だな。俺が用意してやると必ずぶーってやるのに」

 我が子のほっぺを突つきつつ慎吾は楽しそうだし、里穂も内心息子の贔屓が嬉しい。

「慎里はお母さん、大好きだもんねー」

 息子へにっこり微笑みかけると、きゃいきゃいと慎里が喜んだ。

「お父さんだって、慎里のお母さんが大好きだもんねー」

 慎吾がわざと拗ねたように言うので、里穂はどうして返していいかわからなくなる。

「慎里。お父さんに口説かれて真っ赤になるお前のお母さん、とっても可愛いよな」

 慎吾が息子に問いかけて、慎里がきゃーうと歓声をあげるので、里穂はとうとうテーブルに突っ伏してしまった。
 ……寝る段になり、今度はベッドメイキングを復習中である。奮闘していると、慎吾に抱っこされた息子がうぶー、ぶううと応援してくれる。

「不思議なんだけど。どうしてずっと三人で寝てるのかな」

 わざとらしく里穂は首を傾げる。

 慎里は昼寝をするときは里穂か慎吾どちらかがいれば泣かない。なのに夜、本格的に寝るときに三人揃ってないとギャン泣きするのだ。

「慎吾が在宅ワークしてる時は騒がないのに」
「でも徹夜をしようとすると、猛抗議される」

 慎吾がいえば、当たり前だろとでもいうように、ぶううと慎里が口を尖らせる。

「でも、慎吾が出張のときは二人でも平気なのに。……慎里、どうして?」

 息子に聞くというより、独り言に近い。

 薄情ではない。むしろ、慎吾が出て行くときにはそれこそ一生離れ離れになり、二度と会えないと信じこんでるのではないかと思わせるくらいの泣きようである。

 だが慎吾が出張に行ってしまうと、まるで父親など最初から今まで一度もいませんでした、覚えてもいませんくらいに里穂に甘えてくる。
  
 そして慎吾が帰ってきたらずうっとべったりである。

 初めての出張の時はものすごかった。――慎里よりも里穂の落ち込み具合が。
「里穂、明日から一週間ほど出張に行く」

 ある日の夕飯どき、出し抜けに告げられ彼女は固まった。

「俺がいないと寂しい?」

 冗談混じりだったらしいが、里穂の表情を見て慎吾は真剣になった。

「……悪い」

 抱きしめられても抱き返せない。

 慎里も、気掛かりそうな父と表情を強ばらせた母を交互に見て何事かを察し、びくついている。

「俺も里穂や慎里の傍にいたいんだけど」

 慎吾は彩皇が稼働していないと、支配人というだけでは有能すぎるのだろう。

 第三秘書の妊娠が発覚した。ひとまず国内と第三秘書は彼女の夫である第二秘書に任せ、慎吾が隠岐と共に海外に飛ぶことになった。

 
 自分も妊娠中、同僚に助けてもらった。
 回り回って、ほかの妊婦がサポートしてもらえるのは良いことだ。

 そう思おうとするのに、明日から慎吾がいないのだと考えるだけで寂しくて仕方がない。

「なるべく早く帰る。連絡もマメにする。愚痴でも不満でも、なんでも言ってこい」

 帰ってくると約束してくれているのに、たった一週間彼が隣にいてくれないだけで不安になる。

 ……自分はこんなに弱い人間だったのかと愕然となる。 

「申し訳ない。ワンオペにならないよう、シッターを頼んでいく」

 慎吾がすまなそうに告げても、里穂はどこかぼんやりとしか受け止められない。

「おかしゃ」

 慎里がぎゅ、と彼女の服を掴む。無意識に、我が子の体温を求める。

「慎吾、私なら大丈夫。保育園もあるし、シッターさんは要らないよ。慎里。明日、お父さんに元気で行ってらっしゃいしようね」

 無理やり自分に言い聞かせた。

 
 翌朝。
 スーツを着こなし、使い込まれたトランクを用意している恋しい人の姿に半身がちぎられるような痛みを感じた。

 慎吾がいなくなる。
 そう思うだけで足元の地面がなくなった心地がして、うまく立てない。

 慎里が自分と慎吾を交互に見ては不安そうにしているのに、励ましてやれないなんて、それでも母親か。 

 しっかりしろ、たった数週間前までは自分と我が子の二人だけだったではないか。 

 自分を叱り飛ばそうとしても、体に力が入らない。
 こんな体たらくでは、慎吾だって心配だろうに。

「行ってくる。なるべく日本時間の夜九時には連絡を入れるよ」

「うん。慎吾、気をつけてね」

「里穂も」

 慎吾は、なんとか笑みを浮かべた彼女の唇すれすれに口づけた。

「俺がいない間、俺のこと考えていて」

 真っ赤になった里穂の腕の中からあー、と慎里が父親に向かって手を伸ばす。

「慎里と会えないのって病院に連れて行って以来、初めてだ」

 慎吾も寂しいのだろう。我が子を撫でる手が止まらない。

「俺、二人がいなくて泣いちゃうかもしれない。夜の九時、絶対連絡するから」

 慎吾の言葉に、里穂がようやく心から微笑むと。

 それまで溜まっていたものが決壊したのだろう、息を吸い込む前動作なしで慎里がいきなり泣き出した。

 うわああああ、と最初から大爆発である。
「慎里っ?」

 驚いた。
 ここまでの爆発は、みたことがない。……三人で寝るきっかけになった、初めての夜よりすごい。

「いやああああ、おとしゃ、おとしゃああああああ」

 暴れすぎて里穂の腕の中から落ちそうになる。 

 とっさに両手を差し出した慎吾は、汚れるのも構わず二人を抱きしめた。

「里穂、慎里……っ!」

 やがて、ぱっと二人を離すと身を翻し、ドアを凄まじい勢いで開けて閉めた。

 慎里は消えてしまった父を追いすがりたいように身を乗り出し、うわあああん、うわああああんと泣き叫ぶ。

 我慢できなくなり、里穂も一緒にわあわあと泣いてしまった。

 どれくらい二人で泣きあっていたろうか。
 里穂は自分の服で息子の顔を拭ってやる。ついでに自分の顔も袖で擦った。

 洗濯ついでに体も洗ってしまおう。
 今日はとことん、慎里と遊び倒すことに里穂は決めた。

「慎里、お風呂入っちゃおうか!」

 空元気で、腫れぼったくなった目を無理やり微笑みの形にしてみた。
「オッフロー、オッフロー。慎里、お母さんとお風呂入るの久しぶりだね?」

 はしゃいでみたのだが。

 この家に住むようになってからずっと慎吾が入れてくれた。……思い出すだけで、つんと鼻の奥が痛くなってくる。

 温かい湯に素肌がほぐされていくと、ささくれだっていた気持ちも柔らかくなっていくようだ。

「ねー、慎里はお風呂でどうやって遊んでるの? 教えて」

 湯が温くなっては追い焚きし、シャワーで遊び。慎里が腹をすかせるまで浴室で遊び倒した。

 バスタオルで息子を拭い、自身の水分も拭き取る。それから洗濯機を回した。

 泣いたまま風呂に入ったから、いつもなら持ってきている着替えを忘れていた。

「おとーさん、いないから。いいよね?」

 裸のまま我が子を抱いて、着替えを取りに子供部屋へ戻ろうとして……、なんの気なしに三人で使っている寝室に入った。

 足音を忍ばせ、ベッドに傍に立つと寝乱れたままのシーツにそっと母子で裸のまま横たわる。

「慎吾……」

 彼の匂いがする。
 温もりも残っているような気がして、里穂は目を閉じた。

 裸でシーツにくるまったのは、我が子を授かった日以来だ。

 やましいよりも、愛し合って命が自分に訪れてくれたことに、敬虔な気持ちになった。

 父親の匂いと母親の体温に抱かれて安らぐのか、慎里も大人しくしている。
 そのまま、二人で眠ってしまった。
 翌日は里穂も出勤である。

 バタバタと走り回り、息子と自分の支度をする。そして、電車を使って通勤してみて……いかに痛勤かを実感する。

 今まで、慎吾の車に同乗させてもらいどれだけ楽だったかを思い知った。

 慎吾の家に越してから、出かける時は常に三人。大人が歩く時は乳母車、それ以外は慎吾が運転してくれる車だった。

 なんとか圧に押しつぶされないよう我が子を守り、スクールのある本店に着いた時には母子ともども疲労困憊していた。

「慎里、泣かないで我慢してくれて偉かったね」

 息子を褒めてやる。