「違わないだろ。俺は里穂の恋人で、君は俺の彼女。俺は付き合いを申し込んで君に了承をもらったはずだけど?」
そうだった。
自分達は恋人なのか。
そんな言葉が自分にあてはまるのが照れくさいし、どんな顔をしていいのかわからないでいると。
大人二人が真剣に話していると、空気を読んでいたらしい息子が頃はよしと判断したのか、ハイハイをしてきた。
なぜか里穂ではなく慎吾の足を登ろうとしている。
慎吾がひょいと抱き上げて、窓辺に連れていく。
なんとなく里穂も立ち上がって二人の後をついていくと。
「慎里、聞いたか? お前のおとーさん、慎里のおかーさんに決死の想いで恋心を伝えたのに、スルーされてたんだぞ?」
我が子に愚痴るではないか。
「おとーさん、OKされて舞い上がってたのになー。地獄に落とされたくらいショック」
はあ、とため息をついて慎里の頭に顔を伏せた。
あぶう、と息子が父親の頭をぺしぺしと叩いたのは、慰めているつもりなのだろうか。
どうしよう、と里穂がオロオロする。
「ん? 『だとしたら道は一つだ、もっとお母さんを口説いて口説きまくれ』? その通りだ、お前はいいこと言うなー。さすが、俺の息子」
ぶう、とあたかもその通りだと慎里がうなずく。
慎吾のアテレコとはいえ、どうして二人はこれほどに意思の疎通ができているように見えるのだろうか。
里穂がなんとなし、やきもちを焼く。
と、慎吾はニッと彼女に笑いかけてきた。
「心配しなくても俺達の一番は里穂だよ」
もうだめだ。
これ以上、彼を好きにならないうちだ。
後になるほど露見した時の傷が大きすぎる。
話してしまえ。
「…………私、自分の家に火をつけたの」
言ってしまった。
とても彼の目を見られない。
もう、慎吾は自分には手を差し伸べてくれないだろう。
自分だけでなく、慎里も捨てられてしまうのだろうか。
俯いてしまった彼女を、じっと観察していた慎吾はやがて静かに口を開いた。
「里穂。君を見ていると贖罪は十分に思える」
違う。
両親を失意と貧困の末に死なせてしまった。
「そんなことないっ」
悲鳴のような声がでて、里穂はハッと口を手で抑えた。
慌てて息子を見れば、慎里は目を丸くして自分を見ている。
慎吾は息子に安心させるように笑いかけてやってから、里穂にささやいた。
「もし君に罪があるのなら、俺も一緒に罪を償う」
思いもかけぬ言葉に目を見開いた。
「……何を、……言ってるの……」
呆然と呟けば、慎吾がニコリと微笑んだ。
伸びてきた指に鼻頭を突つかれる。
「ほら、結婚の誓いに『病めるときも貧しいときも』っていうだろう?」
それとこれとは違いすぎる。
「同じだ。どんな時にも相手と離れないって意味なんだから」
「でも」
「里穂」
慎吾の呼びかけは里穂に口をつぐませる威力があった。
「辛いと思うが、その時のことを聞いていいか」
里穂は少し逡巡した後、話し出した。
「私の家は旅館を営んでいたの。【おかえりやす】という名前だった」
里穂を見つめていた慎吾の体がピクリと反応したが、彼女は気づかない。
古くは祖父が山小屋として経営していた。
近くに温泉が掘り出されたことで県道が近くまで伸び、里穂の両親は旅館に建て替えた。
ハイキングにくる客が日帰りで山菜料理や温泉を楽しんだり、そのまま泊まったりとそれなりに繁盛していた。
里穂と両親は、経営していた旅館と同じ敷地内にある、元山小屋で暮らしていた。
彼女はごくりと唾を飲み込み、言葉を絞り出した。
「……十五年前、火事を出したの」
その日、敷地内に猿が出没したので父は旅館の見回りをしに家をでた。
『燃えてる!』
戻ってきた父が叫ぶや両親は水を被った。
里穂に家に留まっているよう言いつけて、父母はまっしぐらに宿泊客を救助しに行った。
幸いにもこの日、ふらりとハイキングをしにきた二人の少年が予約なしで泊まっているだけだった。
両親以外はスタッフもいない。
消防車は待てど暮せど一台も消火に現れない。
何度連絡しても来てくれなかった。
晴天続きで山も旅館の建物も乾燥しており、炎の勢いがどんどん増して行く。
じっとしていろと言われたのに、小学生だった里穂は一人でいることに耐えきれず宿泊棟に入ってしまった。
『お父さん! お母さん!』
闇雲に歩き回り泣き叫んだが、パチパチと火花が爆ぜる音やメキメキと何かが壊れる音ばかり。
そのうち、里穂のいる所にも煙が流れてきた。
これ以上、奥には向かえない。
戻ろうと入ってきた場所を振り返れば、火の粉が雪のように舞っていた。
『こっち!』
里穂が入ってきた場所から誰かが飛び込んできた。
泊まっていた少年の一人が里穂を見つけて駆けつけてくれたのだ。
彼は里穂の腕をつかむや、ものすごい勢いで外に出ようとする。
里穂は彼を引き止めた。
『お父さんとお母さんがっ』
里穂が訴えれば怒鳴り返された。
『二人とも無事だから! 連れてってあげる!』
彼に手を引かれて、つまづきそうになりながら必死に走る。
不意に手を異様に強く掴まれた。
あまりに痛くて力を緩めてもらおうと、声をかけようとして悲鳴をあげた。
少年の背中が燃えている。
『ウ』
呻きながらも少年は彼女の手を離さない。
『里穂っ!』
両親のところまで里穂を送り届けてから、少年は地面を転がり回った。
繊維と肉が焦げる匂い。
里穂はそれから気を失った。
「……それから記憶があるのは、両親と火災調査官と一緒に焼け跡に立っていたところからなの」
旅館は風光明媚な立地に建てられており、権力者から譲るよう度々求められていたが、両親は承諾しなかった。
おそらくそのためだろう。嫌がらせをされるようになり、客は皆無に近かった。
旅館の火事は放火されたのだと両親は訴えたが、暗に里穂の火遊びだと結論づけられてしまった。
子供の失火との噂があっというまに広がり、周囲は家族を糾弾し始めた。
両親は弁護士、警察署はては探偵事務所まで調査を依頼するもことごとく断られ、あるいは里穂が原因だと断じられた。
「……里穂は本当に火遊びしていたのか?」
静かな問いは、彼女を責めるものではなく事実を見極めようとしているもの。
だから里穂も落ち着いて首を横に振った。
「わからない。両親は火の始末に神経質になっていたから、私が火を扱う時は必ずどちらかがいてくれていたの。だから……」
自分じゃないと思いたかった。
慎吾は我が子を肩に乗せ、片手で支えた。
空いたほうの手で彼女の頭を自分の胸に引き寄せた。
彼の穏やかな心音に促されて話を続ける。
「両親は旅館の立て直しよりも、私を助けてくれた『お兄ちゃん』への補償を優先した」
預貯金を全ておろし、両親の生命保険や里穂の学資保険を解約しても用意できたのは、少年の未来を贖うには少なすぎるほどの額。
それが、岡安家の精一杯だった。
「……その少年の家族は受け取ったのか?」
ううん、と里穂は首を横に振った。
「『お兄ちゃん』のご家族は土下座した両親に『火傷は息子の判断した結果だから、過失の責は問わない。その費用は貴方達の暮らしの再建に役立ててほしい』と言ってくださった」
その時にもらった言葉を思い出して、彼女の頬に一筋の涙が流れた。
両親は号泣しながら、その金を受け取った。
けれど、金融機関が融資を終了するから一括返済しろと迫ってきた。
おまけに、どこの金融機関も追加融資をしてくれない。
とうとう旅館の跡地は銀行に差し押さえられた。……のち、地元の不動産屋が格安で手に入れたと聞いている。
「故郷を追われて、両親と私は転々とした」
両親は、以降定住もできないまま金が稼げると聞けばどこへでも赴き、一番きつい労働をこなした。
解体作業の仕事に就いていた父が足を滑らして事故死した。
必死に働いて自分を育ててくれた母も過労のすえ亡くなり、里穂は施設に送られた。
慎吾はなにも言わずに里穂を抱きしめてくれた。
温かい。
この胸の中でずっと甘えていたい。
だが、彼を巻き込んではいけないのだ。
里穂はそっと慎吾の体から離れた。
「わかったでしょ? 私は犯罪者かもしれないの。だから」
「ああ、わかった。俺をヒーローにしてくれた女の子がこんな魅力的な女性になってたってことは」
「……え」
慎吾の瞳に愛おしさだけではなく、懐かしそうな色が混じっていた。
「あの火事の日、里穂の家の旅館に泊まっていたのは俺とCEOの隠岐護孝だ」
里穂は驚きすぎて声も出ない。
では自分を助け出してくれた『お兄ちゃん』は。
「慎吾だったの?」
「そうみたいだな」
慎吾は隠岐CEOと幼馴染で親友の間柄だという。
宿泊施設巡りが趣味の友に付き合って色々な所を旅していたと話してくれた。
突然、里穂が真っ青な顔になる。
「私が、慎吾にサッカーを辞めさせた……」
好きな人の人生をねじ曲げてしまったのが自分だったとは。
「里穂。世界に通用する選手だっていずれ引退する。俺だってモノになったかわからんし、仲間内での草サッカーなら今だって十分できる」
「でも!」
「君もそうだが、人間全てが思い通りの人生を歩めるわけじゃない」
慎吾は里穂を責めまいとしてくれる。
だからこそ彼女は自分を断罪しなければならない。
「私のせいで慎吾や両親の人生がめちゃめちゃになったッ」
慎吾は興奮してきた里穂を彼女の唇を人差し指で触れることで鎮めた。
「ご両親は確かに火災で人生計画が狂っただろう。それは里穂も一緒だ」
自分は罪を犯したのだから仕方ないのだ。
慎吾は里穂の双眸から、彼女が抗弁したいと汲み取っていたようだが構わず話を続けた。
「入院中、痛くてウンウン唸っていたら護孝が見舞いに来てくれた。奴は開口一番、『僕が旅行に誘ったから慎吾が怪我をした。僕のせいだ』と言った」
親友は泣き腫らしたのか、目が真っ赤だったという。
……里穂は、慎吾に一生残る傷を負わせてしまったことを悔いているのは自分だけではなかったと知る。
「その後、奴がなんて言ったと思う? 『火傷を負ったことを後悔させない。人生最大のチャンスだったと思わせてやる』、だ」
里穂は眉をしかめた。
隠岐の責任ではないとはいえ、あまりに傲岸なもの言いではないだろうか。
慎吾がなだめるように彼女の頬を撫でた。
それまでの慎吾と親友は『大学はサッカー強豪校に入ろうか、あるいは思い切ってスポーツ留学してもいいかもしれない』と、将来について夢物語のようにしか考えていなかったという。
だが、入院していた慎吾の前に現れた友は少年から『男』の貌になっていた。
「『大学を卒業したら家業を継ぐことにした。僕の代でエスタークホテルをもっと大きくしておく。僕がCEOになったら慎吾をヘッドハンティングしてやるから、出来る男になっておけよ』だとさ。……何様だと思わないか?」
楽しそうに言っているが、慎吾は当時どれだけ絶望しただろう。