「それが、すごいと思った。ちなみに空港着いたら救急車来てて、親父もちょっと説明してた。それから俺に『おい! あのアナウンス何て言ったか聞こえたか?』ってすっごいテンション上がってんの。『お客様の中にお医者さんか《《医学部の学生はいませんか》》って言ったぞ!』って。日本では絶対に学生なんて言わないだろ? 向こうでは学生でもそれくらい知識があって信用されてるってことなんだ。『すごくないか!俺たちも負けてられないな!』って言われて、気づいたら『そうだな』って言ってたよ」
「……すごい。格好いい」
「うん、俺、医学部にいきたい。医者の息子だから、医者になる。それでもいっか。って」
「誰だって、親からは影響受けるよ。きっかけなんてさ……」
「うん」
塔ヶ崎くんが、ピアノの鍵盤を一つ押す。
綺麗な色が響く。
「だからさ、聡子。聡子の夢は、俺が引き受けるから、かえっこ、しよう」
「……え……」
かえっこ?私もお医者さんになるのに?
「……うん。聡子、医者になりたくないだろ?」
塔ヶ崎くんが、何でそんなこと言ったのかわからない。
「ああ、ああ」
そう言って、眉を下げた彼の顔が滲んでいって、そっと抱き締められるまで、私は自分が泣いてるって、気がつかなかった。
「私、医学部に行くのに頑張って……だって、自立して、一人でも……」
「うん、うん。そうだなあ、聡子。俺、聡子は自立出来てるし、強いし、頑張ってるの知ってる。大丈夫だって思う。医者にだってなれる。でも、なりたいものに、なったらいいと思う。聡子なら何だってなれる。YouTuberでも」
「ぶっ、笑わさないで。ねえ、どうして気付いたの? 私、自分でも気づかなかったのに……」
「だって、俺、聡子のこと見てるもん」
「私、血とか苦手~」
「ええ、そんな理由かあ。はは」
「生物も無理だし、切り刻むの無理~」
「……え、昂良みたいなこと言うなよ。縫う方だよ」
塔ヶ崎くんが笑うと、お腹の揺れが、私の顔に伝わって、くすぐったい。
「まだ、進路調査まで時間あるから、考えろって。な? 親御さんだって、聡子が幸せならそれでいいんだって。……医者と結婚というテもある」
「あはは、何それ。……うん、でもありがとう。少し考える。気づいてくれてありがとう」
私……お医者さんになりたくない。口に出して初めてそうなんだってわかった。辛かった。ずっと、どこかすっきりしない気持ちででもそれがなぜなのかわからなかった。
私……私は……私らしく、生きたい。
塔ヶ崎くんが、そっと離れると私の顔を心配そうに見る。
「大丈夫……?」
「お歌、歌ってくれたら元気でる」
「……子どもかよ」
って、笑われたけれど、歌ってくれた。だから、元気出た。
優しい歌、優しい声だった。
「何か……この歌……懐かしい。何の歌だっけ……」
「さあ」
って、教えてくれなかった。
「さっき、流したから教えない」
「何を?」
「さあ」
何か結局色々不明のまま。
でもすごく心が楽になった。
「あ、ねえ、『かえっこ』っておかしくない? 私、ピアノも弾けないよ」
「……そういや、そうだな。はは、せっかく格好つけたのに、間違ってんじゃん」
そう言ってわらったけど、私は塔ヶ崎くんが引き受けてくれて嬉しかった。
「オムライスの時も、かえっこしてくれたよね」
「あー、あの時も流したよね」
「……何を?」
「いいや、また行こう」
「うん、行こう! キノコとビーフシチューの、食べるの」
そう言うと、塔ヶ崎くんは嬉しそうに笑った。
響板の中にプチが入ろうとするから、慌てて屋根を閉めていた。
「お前ら来てからピアノはすっかりベッドだよ」
と、ぐちぐち言っていた。
──そこに猫がいて、たくさんの子どもがいて、そこで塔ヶ崎くんが歌ってる。そんな風景が浮かび、ハッと我に返った。
なんだろう、今の。妄想かなあ。
夏休みの最終日は塾もなかった。
「最後くらい、どっか行かない?」
と、塔ヶ崎くんが言ってくれた。私はその日に付き合ってってもう一度告白するつもりだった。
「うん、行きたい」
「……でも遅くなれないんだっけ?」
「うん、翌日学校だし、いい顔されないと思う」
みんなが言ってたみたいに裏工作なんて出来ないし、絶対に顔に出る自信がある。お母さん鋭いし。というか、私をよく見ているから。
「そっかあ、それはダメだな。聡子らしくないこと、となるとどうしよっか」
塔ヶ崎くんは、ちゃんと無理矢理に強行せずにこちらの事情を考えてくれる。
「もう、それいいよ。いっぱいしたし」
人生初の告白……とか!しかも明日もう一度するなんて!
だいたい、こうやって、男子、しかも好きな人と毎日のように一緒にいて、普通に話せるだけで、私にはすごいことだ。
「……朝、ならいいかな?」
「朝? 」
「そう。始発で海行こう」
……どうしよう、わくわくする。
まだ暗い時間でも朝だって言うと爽やかに聞こえる。
母親に言うと、驚きはしたけれど『朝なら』と言ってくれた。
何か言いたそうではあったけど、許してくれた。朝ってすごい。
──早朝、まだ暗い時間に起きた。さすがに海っていっても明日から9月に入る今の時期に泳いだりしないし、くらげがいそう。それに水着はないけれど……。
あの水色のワンピースを着て、前髪もちゃんとセットした。
全然明るくならないまだまだ暗い時間に出発した。駅にはもう人がちらほら。
「おはよう」
って、挨拶を交わすと
「逆に朝帰りみたいだな」って笑い合った。
ちょっと家出みたいにも見える。
電車でどちらからともなく寄り添って、体が触れてる方の手を繋ぐ。
チラリ見ると、塔ヶ崎くんもこっちを見ていて笑ってくれた。胸がドキドキして緊張、しちゃう。それ以上に幸せだ、すでに。
電車の窓から見える、真っ暗な外が薄く明るくなってくる頃、海に到着した。地平線がぼんやり、朝日で赤い。
静かな静かな場所。波の音だけが聞こえる。空気が澄んでる気がする。
夏とは違う、そんな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「全然人がいないんだね」
「そうだな、夜の方がいるのかもね」
私たちは、そこで足を止めた。
空が明るくなっていく。
……夜明けだ。オレンジの光が白っぽく上がる。チラチラ波が反射して海も赤い。
「……綺麗。朝日って」
「うん、アガる」
「……情緒のない言い方!」
「じゃあ、ノボる」
「そのまんま!」
二人で手を繋いで、ぶらぶら。
「そのリュック、今日も四次元ポケット?」
「そ。聡子、1回くらいは転けるだろ?」
「転けないし!」
って、言ってたら転けた。けど、塔ヶ崎くんも転けた。
自棄になって、二人でそこに腰を下ろした。
「あーあ、敷くの持ってきたのに、いいや、もう」
「だね」
波が白い。海がいつのまか青くなっていた。
「ほら、さざ波、俺の色」
「あはは! 確かにね。塔ヶ崎くん透明感あるし」
「聡子も今日は水色~」
と、言ったまま黙ってしまった。じっと見てくる顔に、首を傾げた。
「どうしたの?」
「それ、前に塾でも着てたな」
「うん、着てたね?」
だから、どうしたんだろう。あの塔ヶ崎くんが迎えに来てくれた日、だよね。
「ずっと、もやもやしてた。俺と会う時より可愛い気がして」
「……これ着てた日、塔ヶ崎くんと会ったよね?」
塔ヶ崎くんがばつの悪そうな顔で視線を外す。もう一度こっちを見ると、自分の前髪を梳いた。少し残る青が、ふわり見えた。
綺麗でまた、目が釘付けになってしまう。
伸ばされた手が、私の前髪を撫でる。
「少し、伸びたな」
「え……うん」
塔ヶ崎くんも、前髪伸びた。
手を離すと、ふっと笑う。優しい、綺麗な目が、一瞬、苦しそうに歪んだ。
「聡子、俺のこと、好き?」
「え……うん、好き」
突然でびっくりしたけど、素直に頷いた。好き。はっきりとそれは言える。
「俺も、聡子が好きだよ」
そうかなって期待してたけれど、本人から聞くと、全然違う。
それより、塔ヶ崎くんの顔から、とても幸せそうには感じなくて……
「……聡子、戸惑ってるんじゃないかなって思う。初めてだろ? 何もかも」
「そうだよ、戸惑ってるよ。わからないもん。私は塔ヶ崎くんみたいに経験があるわけじゃないから」
過去は変えられないのに、未だに嫉妬してしまう。そんな言い方されたら……さ。
「……もしかして、その戸惑いを好きと勘違いしてるんじゃないかなって。ごめん……怖くて、ずっと……言えなかった」
「勘違い……?」
この気持ちが勘違いなわけない。
そんなわけないよ。こんなに、胸が痛くて苦しくて幸せになるのは、塔ヶ崎くんしかいない。
「違う! 勘違いじゃない」
私がそう言っても、塔ヶ崎くんは寂しそうに笑うだけだった。
「ねぇ、言って、思ってること。私の言うこと、ちゃんと信じて?『信じることにする』って言ったよね、塔ヶ崎くん!」
塔ヶ崎くんが、すぅと息を吸った。何かを決心するように。
「……聡子、あの先生のこと好きなんじゃない?」
「……あの、先生?」
「塾の、階段で話してた」
「……あれ以来会ってないし、私の授業担当してもらってないけど。何それ、全く意味わかんない」
「あの人に向ける顔、赤くなってたし、それに……俺と会う時はそんな服来てなかった。前髪だってそんな風にはしてなかったし、担当してない先生にしては、距離感おかしくないか?」
あの日の事を思い出してみる。眉間にシワが寄ってしまうけど、今は気にしている場合じゃない。
「ああ! 質問しにいったらあの人しかいなくて、前髪は本当に乱れてたから直してくれただけで……その、塔ヶ崎くんが来てくれてたから、ちゃんと……可愛く……といっても、地味な顔だけど。可愛く見えるように」
塔ヶ崎くんは、顎に指を添えて何か考えるそぶりをしている。
「何か、おかしくない? 何で俺のこと知ってんの?」
「花火大会の日に会ってるからだよ」
「……会ったっけ?」
今度は塔ヶ崎くんの眉間にシワが寄った。
海の音が静かに、でも規則的に鳴る。
どこかで鳥の声も聞こえていた。
「めぐ美さんと一緒にいた人、だよ」
今度は……私が……苦しくなって俯いた。
でも、『言って』って塔ヶ崎くんは言った。
だから私もちゃんと本当のこと、言わなくちゃ。
「あの二人、付き合ってないんだって。あの花火大会の時は、付き合ってなかったって」
……泣きそう。
「ああ、そうなんだ? でも時間の問題じゃね? 雰囲気、そんなんぽかったし。つか、何で名前知ってんの。あの人から聞いた?」
思ったより全然軽い口調に顔を上げた。
「え、何で泣いてんの? あ、そうか。あの二人がいい感じだから?」
塔ヶ崎くんが四次元ポケットからバスタオルを出してくれた。
「……タオル、大きすぎない?」
「ああ、だって聡子、1回くらい海にハマるだろ?」
「ハマらないよ! 入らないし! 準備万端すぎる! こんなに泣かないし 」
「……うん」
「違うよ、あの人なんてあの日初めて気づいて、初めて喋ったよ。めぐ美さんとそうなりたいから、って応援されただけ!」
「……そう、なりたいから、応援?」
塔ヶ崎くんは全然ピンと来てない。
「だって、元彼でしょ、塔ヶ崎くん。だから、私と塔ヶ崎くんがうまく行く方が先生は嬉しいの」
「いや、まあ、そうだけど。関係なくね?
俺、今さら 」
「まだ……好き、じゃないの? めぐ美さんのこと」
「ないけど。全然。俺、今聡子好きだし。聡子……は」
「私はずっと好きだって、言ってる! 信じてって言ってる! 塔ヶ崎くんが好き」
「でも先生と会う時の……服……」
「これ、浴衣と一緒にお母さんに買って貰ったの。青、塔ヶ崎くんぽくて、綺麗で。浴衣……浴衣も……綺麗な青が……と、塔ヶ崎くんぽくて……」
ああ、全然ダメ。涙が邪魔して喋れない。
バスタオルに顔を埋めて、しゃくり上げた。
もしかしたら、この大きいタオルが全部濡れてしまうかもしれない。