そんなある夜。
「ウー、ワンワン!」
ラブの吠える声で飛び起きると、急いで枕元の銃を手にして、明かりをつけた。
「誰っ!」
ドアに向かって声を出した。
「……すいません。……水を一杯いただけませんか?」
男の声だった。
「ワンワン!」
「ラブ、静かに。聞こえないから。どうしたの?」
「車がパンクして、……喉が渇いて、……家が見えたので、ここまで来ました」
ミシェルは急いで鍵を開けると、素早くドアから離れて、銃を構えた。
「入って!」
ミシェルの許可に、ゆっくりとドアが開いた。
現れたのは、Yシャツ姿の会社員風の優男だった。
「……夜分にすいません。……水をいただけませんか?」
ドアに凭れた男は、今にも倒れそうだった。
ラブが男の靴を嗅いでいた。
「自分で飲んで。キッチンはそこよ」
顎で指図した。
フラフラしながら、キッチンに向かう男を目で追いながら、ミシェルは一挙一動を監視した。ラブは用心棒のように男についていた。
男は蛇口を捻ると手を洗い、その両手に水を注いで飲んだ。
ゴクッゴクッ
「ハァ……、どうも、ありが」
そこまで言って、男は倒れた。
「ワンワン!」
目を覚ましたミシェルが寝室から出てみると、男はまだ、居間のソファーに寝ていた。
ミシェルより少し年上の30前後だろうか、ブロンドの髪を乱した男の顔は疲れていた。ラブが、ソファーからぶら下がった男の手を嗅いでいた。
コーヒーの匂いで目が覚めたのか、朝食が出来上がった頃、男が体を起こした。
「……どうも、すみません、泊めていただいて」
男は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「眠れましたか?」
キッチンのテーブルに皿を置きながら、男を見た。
「ぐっすり眠れました。ありがとうございます」
男が笑顔を向けた。
ラブがオスワリをして、男を見ていた。
「……じゃ、どうも、ありがとうございました。では」
男が腰を上げた。
「朝食、作りましたので、食べてってください」
「でも……」
「無理にとは言いませんけど」
フォークとナイフを置いた。
「……じゃ、遠慮なく」
男は椅子を引いた。
「はーい、ごはんですよ」
ドッグフードとミルクを入れたラブの食器にハムを1枚入れてやった。
「よーし」
クチャクチャ
「お名前は? 犬の」
「あ、ラブです」
「ラブか。ラブ」
男は食事中のラブに声をかけた。
‥気安く呼ぶな‥
ラブは上目で男を睨んだ。
「あ、僕はジーン・バートンです」
軽く頭を下げた。
「私は、ミシェル・スペイセクです。どうぞ、召し上がって」
「あ、いただきます」
ジーンがハムエッグにフォークを付けた。
「どこに行く途中だったんですか」
トーストにマーガリンを塗りながら訊いた。
「会社から帰る途中でした。橋を右に行った〈CherryCity〉という町で会社を経営しています」
チェリーシティは、ミシェルがいつも買い物に行く町だった。
「わー、すごい」
「すごくないです。小さな会社です。仕事で帰りが遅くなって。途中でタイヤがパンクしたので、車の中で寝ようと思ったのですが、喉が渇いて。人家を探していたら、ミシェルさんの家にたどり着いたってわけです」
ジーンは、ハムエッグを頬張りながら経緯を語った。
「水を飲んだ後に倒れたので、びっくりしました」
コーヒーカップに口を付けた。
「ああ。ご迷惑を掛けました。毎日のように遅くまで仕事に追われて、疲れてたんだと思います」
ジーンもコーヒーカップに口を付けた。
「大事にならなくて良かった」
「ぐっすり寝たせいです。ありがとうございます」
ジーンが笑顔を向けた。
‥ったく。なんかいいムードだな。妬けるぜ。おい、ジーンとやら、俺のミシェルを取るなよ‥
「それじゃ、ごちそうさまでした」
「パンクしてるのに、どうやって帰るんですか」
「パンク修理キットを使います。それじゃ」
「……お気をつけて」
「はい。ありがとうございました。ラブ、バイバイ」
ジーンが笑顔でラブを見た。
‥あばよ‥
ミシェルはいつまでもジーンを見送っていた。
‥ミシェル、俺のこと忘れてない? いつものように話しかけてくれよ‥
「いい人で良かったね、ラブ」
‥チッ! あいつのことかよ。ま、悪い奴じゃなかったけどね‥
それは、イチョウが黄色に染まる頃だった。家の前に紺色の真新しい車が停まった。
銃を取ろうとした時だった。吠えないのを不思議に思ってラブを見ると、尻尾を振っていた。もしかしてと思い、期待を込めて窓から覗いてみると、花束を抱えたカジュアルウェアのジーンが車から降りてきた。ミシェルは急いでドアを開けた。
「先日はありがとうございました」
ジーンが笑顔を向けた。
「こちらこそ。わざわざありがとうございます」
「これ、感謝の気持ちです」
ジーンが真紅のバラの花束を差し出した。
「わー、きれい」
「……あのう、お水を一杯いただけませんか」
初めて会った、あの時と同じセリフを剽軽なしぐさで言ったので、ミシェルは吹き出した。
「ラブ、どうする?」
尻尾を振っているラブに伺いを立てた。
‥うむ……ライバルを家に入れるのはイヤだが、ま、悪い奴じゃないから、友達としてなら歓迎してもいいんじゃない――‥
「さあ、どうぞ。コーヒーを淹れるわ」
‥てか、俺の意見も聞かないで家に入れてるし‥
バタン!
‥エッ? 嘘っ! ねっ、俺、俺を忘れてるつうの。……トホホ‥
おわり