「迷っていたんです。書道家として、親の七光りで注目を浴びてきた自分が情けなくて、自分らしくありたいと、強烈に願っていました。
 けれど、私は私でいいと、杏凪さんは言ってくれた。書道で表現したいものは、好きなことでいいんだと改めて教えてくれた」

「そんなこと、言いましたっけ……?」

「はい。書道体験に来た時、『好きなものを書いて』と言ったじゃないですか。あの時、あなたは半紙に『バナナ』と書いた。のびのびしていて、素敵な字でした」

 そんなこともあった。恥ずかしい……。

「わ、忘れてください……」

「いえ。あの『バナナ』には、本当にはっとさせられました。何ていうか、杏凪さんって、自分を素直に表現出来る方なんだなって」

「でも、それとこれとは――」

「関係なくないですよ。書道って、書くことなんですよね。書いて表現する。自分の心を曝け出して、自分を表現する。そういう意味では、杏凪さんは一流だと思います」

 先生がきゅっと私の手を握る。
 恥ずかしさと嬉しさで、胸がきゅっとなる。

「個展の文字も、杏凪さんの『バナナ』のおかけで書き直そうと決心しました。そんな矢先にあんなことがあったから、杏凪さんに念押しでダメ出しされた気がして」

 ――それって、私がコケたから……?

 胸の内で羞恥と懺悔をしていると、「そんな顔しないでください」と優しい笑みが私の顔を覗いた。

「僕は、杏凪さんに心を掻っ攫われた気分だったんですよ?」

 先生ははにかみながら、でも余裕のある口調で続けた。

「それだけでいっぱいいっぱいなのに、『自分の価値』は、自分が自分であるだけでそこにある、と言ってくれた。そんなあなたを、好きにならないわけないでしょう」

 紡がれた言葉に、心が悲鳴を上げる。幸せすぎて、死にそうだ。思わずぎゅっと目をつぶると、先生はやさしく髪を撫でてくれた。