その日の仕事を終え、家に帰った。

 誰もいない家に「ただいま」と声を掛ける。
 当たり前だが返事はない。



 昼間、婚約の話を聞いてから何だかやる気が起きない。


 今更、ショックだったとでも言うつもりなの?
 自ら身分が違うと逃げて来たくせに。


(何か食べよう)

 一人だと何も作りたくない。
 買って置いていたパンを食べようと、手でちぎった。

 貴族のお嬢様なら絶対にこんな事しない。

「怒られちゃうかしら……」

 けれど私は平民だもの。

「別にいいよね」

 ちぎったパンを口に放り込む。


 一人で食べる食事にマナーも何もいらない。

 ……そう思っているのに。


『メアリーは一口が少し多いから』

 彼の言葉を、教えながらも甘やかす様なあの声をまた思い出してしまった。

 一緒に過ごした数日を、私はまだ忘れる事が出来ない。
 いろいろな事があり過ぎて、強烈に記憶に残ってしまっている。


「リシウス陛下」

 彼が私を見て優しく微笑む顔を思い出した。


「あなたが好き」

 しぜんと想いが溢れた。

 ……今頃気がつくなんて。

 気持ちを言葉にしたら、涙が出て止まらなくなった。


 暫く泣いていると、コンコンと玄関を叩く音がした。

「メアリーちゃん、いるかい? 私だよ」

 扉の向こうから聞こえる声は、村長さんだ。

 一人で暮らす私を、父親の様に心配してくれる村長さんは、たまに様子を見に来てくれている。

「はい、今開けます」

 急いで涙を拭い、扉を開けると、村長さんは私の顔を見るなり「大丈夫かい?」と心配してくれた。

 それから「届け物があるんだよ」と箱を差し出した。


「大丈夫です。届けてくれてありがとう」

 笑顔を作り、お礼を言って受け取った。

「また、様子を見に来るよ」と言うと村長さんは帰って行った。


 届け物なんて誰からだろう?

 箱は両手で抱える程の大きさで、軽い物だった。

 送り主の名前を聞きそびれたが、村長さんが直々に持って来たのだから危ない物ではないはずだ。

 結んであった紐を解いて蓋を開けると、真っ赤な薔薇の花が箱一杯に入っていた。

「薔薇……」

 花の上には、見覚えのある一枚のカードが置いてある。


『迎えに行くから待っていて』


「どうして……?」

 それは、見間違える事はない。

 リシウス陛下の文字。

「婚約するんでしょう?」

 カードに書かれた綺麗な文字が涙で歪んで見えた。