「ハッシー、私明日からしばらく海外だからさ、お仕事頑張ってね」
最近は仕事を覚えるために毎日、海斗くんの家に入り浸っていた、すっかり元気になったハッシーは思いのほか物覚えが早いようで海斗くんも見直していたが決して褒めるような発言はしない。
「え、どういう事ですかお嬢、海外って」
今日は八月三十一日、明日からまた一年間のお別れになる、と言ってもそれは海斗くんだけで美波は何も変わらずに明日になると来年の七月二十日になっている。
「パパとママが海外にいるから、日本には夏休みだけ遊びに来てるんだ」
海斗くんとは兄弟という事にしてある。
「そうなんですか、寂しいっすね」
ハッシーは仲良くなるとひょうきんで明るい性格の持ち主だった、きっとたまたま以前の職場が合わなかっただけなのだろう、ほんの僅かなボタンの掛け違いで人生はどんどんとレールを外れていってしまうのかも知れない、そんな時に諦めながら突き進むよりも一度引き返す勇気も必要なんだと思った。
「お嬢がいないと兄貴怖いなあ……」
「大丈夫だよ、ハッシーは意外と使えそうだって褒めてたもん」
「まじっすか?」
嘘は付いていない、来年になってハッシーがいなくなっていたら美波も悲しい。
「ユーチューブはどうするんですか、せっかくすごい登録者数になったのに」
登録者数も再生回数もすごいがまったくお金にはならない、海斗くんは始めから収益設定をしていなかった、こんなにアクセス数があがるとも思っていなかったのも理由だが、一番は面倒くさい、だそうだ。この世にいない美波の口座に振り込むわけにはいかない、すると海斗くんの口座を登録する事になる、収益が上がれば申告しなければならない、その手間が面倒なようだ。
「また来年くるからさ、そしたら再開するよ、それと海斗くんのご飯よろしくね」
意外な才能でハッシーは料理が上手だった、今ではお昼当番は交代でやっている。
「ええ、それは全然、兄貴はまったくキッチン使わないですからね、しかし寂しいなあ」
お昼を食べた所でハッシーは帰っていった、最終日は海斗くんと二人でいたいから。
「また、一年お別れか……」
コーヒーを飲みながら海斗くんが呟いた。
「そんな寂しそうな顔しないで」
「ああ、そうだな」
毎年こうやって八月の最終日を迎えて過ごすのだろうか、美波はいい、だって大好きな海斗くんといつも一緒にいられるから。
でも海斗くんは――。
一人ぼっちになっちゃう三百二十五日間、どんな気持ちで過ごしているのだろう。美波に出来ることは夏休みの四十日間を一緒に過ごすだけ。海斗くんのお嫁さんになる事も、子供を産む事も、キスする事さえできない。
私が海斗くんの足枷になっている――。
美波がいなければ素敵な人と結婚して、子供を作って、幸せな家庭を築いていける。
美波がいなければ――。
いつからだろう、自分が消える選択肢を考え出したのは、海斗くんを好きになればなるほど、自分の存在を恨んだ。海斗くんの足を引っ張る自分の存在が許せなかった。
せめてあと一回、甘い誘惑が心を支配しようとする、即断しなければずっと現状に甘んじてしまう気がしていた。三日前にしたためた手紙にポケットの中で触れると、天秤のように揺れていた考えに答えを出した。
「ではまた来年と言う事で、カンパーイ」
夜は海斗くんの好物を全部作った、もう作ることはない愛する人への手料理、触れる事が出来ない手、見る事も叶わない優しい笑顔。
「来年になったら髪は元通りなのか」
「そうだと思うよ、こっちのが良い?」
「ああ、似合ってる」
たっぷりと時間をかけて最後の食事を摂る、いつもよりお酒のピッチが早い海斗くんはやっぱり少し寂しそう。
「美波以外に好きな人に出会えたら遠慮しなくても良いからね」
ちょっと悔しいけど、海斗くんが幸せならそれでいい。
「そんな奴は現れないよ」
「わからないじゃーん」
「わかるよ」
そんな目で見つめないで、決心が鈍っちゃうよ。
「でも、美波がいきなり成仏しちゃったらどうするの」
「そしたらずっと一人だな、美波以外を愛することはない」
ありがとう、その言葉だけで十分。
「海斗くんマッサージしてあげるから寝て」
「え、いいよ」
強引にベッドにうつ伏せにすると腰に股がりマッサージした。
「あーめっちゃ気持ちいい」
そのまま体を密着させる。
「海斗くん、好きだよ」
耳元で囁いた。
「美波……?」
「海斗くん、腕枕して」
「あ、うん」
仰向けになった海斗くんの腕の中にすっぽりと収まると、反対側の腕を取って手の平をマッサージした。海斗くんは手の平をマッサージすると子供の様にスヤスヤと眠りについてしまう。
「美波、ちゃんと戻ってこいよ……」
「うん……」
五分ほどで海斗くんの寝息が聞こえてきた、呼吸をするたびに美波の頭が上下する、壁にかかった時計を確認すると十二時まであと十分を切っていた。
もう会えない悲しみは校舎の屋上から飛び降りた時の比ではなかった、しかし、神様がくれた延長戦は美波に何よりも素敵な時間を与えてくれた、悔いはない。もう溢れ出す涙を止めようともしなかった。海斗くんの顔にポツポツと雫が落ちる。
「海斗くん、ありがとう、サヨウナラ」
そっと唇を重ねた、初めてのキス、そして最後のキス。
※
『ハロー海斗くん、この手紙を読んでいるという事は美波は成仏したんだと思います。
海斗くんに出会えたのがほんの数日前に感じます、どうしてこんな怖そうな人に話しかけたんだろう。今考えると不思議です。いつまでも成仏しない美波へ神様からのギフトだったのかな。
寂しがりやの海斗くん、はやく素敵な人を見つけてね、海斗くんの子供絶対に可愛いよ。
今度生まれ変わったらもう自殺なんてしないよ。生きていれば素晴らしい出来事が待っているって分かったから、教えてくれたのは海斗くん。
たくさん美波のお願いを叶えてくれたのに海斗くんのお願いは何も聞いてあげられなかったね、それが心残りです、おっと心残りがあると成仏できない笑
海斗くん、海斗くん、海斗くん、何回呼んだかな、心の中も入れたら数えきれないよ。今度生まれ変わったらお嫁さんにしてね。
海斗くんはこれからも色んな人に出会い、色んな経験をすると思います。あと何回の夏を過ごすか分からないけど、もし、気が向いたらでいいから――。
夏休みに変わった女の子がいたな、なんて、ちょっとで良いから美波の事を思い出してください。
PS 料理のレシピを同封します、ちゃんと自炊もするんだぞ。佐藤美波』
「あれ、兄貴どうしたんすか、目が赤いですよ」
「ん、ああ、ちょっと徹夜でな」
「もー、お嬢がいなくなった途端に夜更かしですかー、兄貴の事頼まれてるんですから」
「ハッシー、美波は確かにいたよな?」
「は、どうしたんすか、確かにあんな美少女は中々いないですけども」
「頑張って生きないとな」
「ええ、お嬢に怒られちゃいますから」
ファストフードで突然話しかけてきた謎の美少女、お人好しで誰も疑わない女の子は夏休みのあいだ毎日付き纏ってきた、生活は一変、灰色の生活に急に彩りを与えた彼女は、また急にいなくなった。涙は出たが不思議と悲しくはなかった、夢の様な出来事は確かに僕の心を動かした。
「ありがとう、美波」
※
子供の頃、夏休みの終わりはどうしてあんなに寂しいのか、特段学校が嫌いだった訳でもない、にも関わらずまるで地球最後の日のような絶望感は社会人の日曜日の夜に酷似しているのかも知れない、つまりはサザエさん症候群だ。
大人になると八月三十一日はなんて事がない普通の日だ、同時にあんなに希望に満ちていた七月二十日もいたって普通の日に降格した、毎年七月二十日を心待ちにする中年は自分以外には学校の先生くらいだろうか。
「ちっ、早くしろよババア」
後ろの若い男が舌打ちをした、ファストフードのレジには初老の女性がオロオロと財布の中から小銭を探している。
「急がれてるなら僕の前どうぞ」
「え、あ、いや」
「どうぞどうぞ」
男性に前を譲るとスマートフォンで野球中継を見始めた、この年になるとハンバーガーは胃に応えるが毎年この日だけは必ず食べる様にしていた、特に意味はない。
『どっちが勝ってますか?』
なんて聞いてくる不思議な少女はもちろんいないが、なぜか心の準備はできていた。
チーズバーガーのセットを受け取ると自宅のマンションに戻る、新築だったマンションも至る所に老朽の跡が見て取れる、いい加減新しいマンションに引っ越しても良いのだが。
「かーいーとーくん」
マンションに入る手前で不意に後ろから声を掛けられた、その声に聞き覚えはなかったが、なぜか誰だかはすぐに理解した。振り向く事ができない、その場で固まっていた。
「まさか、まだ一人で暮らしてるんじゃないでしょうねえ」
「ああ」
「もしかして待っててくれたのかな」
「ああ」
「じゃあ今度こそ結婚しようか?」
「ああ」
「もう、こっちむいてよ」
振り返るとそこには、真っ白なオーバーオールを着た少女が腰に手を当てて立っていた。
最近は仕事を覚えるために毎日、海斗くんの家に入り浸っていた、すっかり元気になったハッシーは思いのほか物覚えが早いようで海斗くんも見直していたが決して褒めるような発言はしない。
「え、どういう事ですかお嬢、海外って」
今日は八月三十一日、明日からまた一年間のお別れになる、と言ってもそれは海斗くんだけで美波は何も変わらずに明日になると来年の七月二十日になっている。
「パパとママが海外にいるから、日本には夏休みだけ遊びに来てるんだ」
海斗くんとは兄弟という事にしてある。
「そうなんですか、寂しいっすね」
ハッシーは仲良くなるとひょうきんで明るい性格の持ち主だった、きっとたまたま以前の職場が合わなかっただけなのだろう、ほんの僅かなボタンの掛け違いで人生はどんどんとレールを外れていってしまうのかも知れない、そんな時に諦めながら突き進むよりも一度引き返す勇気も必要なんだと思った。
「お嬢がいないと兄貴怖いなあ……」
「大丈夫だよ、ハッシーは意外と使えそうだって褒めてたもん」
「まじっすか?」
嘘は付いていない、来年になってハッシーがいなくなっていたら美波も悲しい。
「ユーチューブはどうするんですか、せっかくすごい登録者数になったのに」
登録者数も再生回数もすごいがまったくお金にはならない、海斗くんは始めから収益設定をしていなかった、こんなにアクセス数があがるとも思っていなかったのも理由だが、一番は面倒くさい、だそうだ。この世にいない美波の口座に振り込むわけにはいかない、すると海斗くんの口座を登録する事になる、収益が上がれば申告しなければならない、その手間が面倒なようだ。
「また来年くるからさ、そしたら再開するよ、それと海斗くんのご飯よろしくね」
意外な才能でハッシーは料理が上手だった、今ではお昼当番は交代でやっている。
「ええ、それは全然、兄貴はまったくキッチン使わないですからね、しかし寂しいなあ」
お昼を食べた所でハッシーは帰っていった、最終日は海斗くんと二人でいたいから。
「また、一年お別れか……」
コーヒーを飲みながら海斗くんが呟いた。
「そんな寂しそうな顔しないで」
「ああ、そうだな」
毎年こうやって八月の最終日を迎えて過ごすのだろうか、美波はいい、だって大好きな海斗くんといつも一緒にいられるから。
でも海斗くんは――。
一人ぼっちになっちゃう三百二十五日間、どんな気持ちで過ごしているのだろう。美波に出来ることは夏休みの四十日間を一緒に過ごすだけ。海斗くんのお嫁さんになる事も、子供を産む事も、キスする事さえできない。
私が海斗くんの足枷になっている――。
美波がいなければ素敵な人と結婚して、子供を作って、幸せな家庭を築いていける。
美波がいなければ――。
いつからだろう、自分が消える選択肢を考え出したのは、海斗くんを好きになればなるほど、自分の存在を恨んだ。海斗くんの足を引っ張る自分の存在が許せなかった。
せめてあと一回、甘い誘惑が心を支配しようとする、即断しなければずっと現状に甘んじてしまう気がしていた。三日前にしたためた手紙にポケットの中で触れると、天秤のように揺れていた考えに答えを出した。
「ではまた来年と言う事で、カンパーイ」
夜は海斗くんの好物を全部作った、もう作ることはない愛する人への手料理、触れる事が出来ない手、見る事も叶わない優しい笑顔。
「来年になったら髪は元通りなのか」
「そうだと思うよ、こっちのが良い?」
「ああ、似合ってる」
たっぷりと時間をかけて最後の食事を摂る、いつもよりお酒のピッチが早い海斗くんはやっぱり少し寂しそう。
「美波以外に好きな人に出会えたら遠慮しなくても良いからね」
ちょっと悔しいけど、海斗くんが幸せならそれでいい。
「そんな奴は現れないよ」
「わからないじゃーん」
「わかるよ」
そんな目で見つめないで、決心が鈍っちゃうよ。
「でも、美波がいきなり成仏しちゃったらどうするの」
「そしたらずっと一人だな、美波以外を愛することはない」
ありがとう、その言葉だけで十分。
「海斗くんマッサージしてあげるから寝て」
「え、いいよ」
強引にベッドにうつ伏せにすると腰に股がりマッサージした。
「あーめっちゃ気持ちいい」
そのまま体を密着させる。
「海斗くん、好きだよ」
耳元で囁いた。
「美波……?」
「海斗くん、腕枕して」
「あ、うん」
仰向けになった海斗くんの腕の中にすっぽりと収まると、反対側の腕を取って手の平をマッサージした。海斗くんは手の平をマッサージすると子供の様にスヤスヤと眠りについてしまう。
「美波、ちゃんと戻ってこいよ……」
「うん……」
五分ほどで海斗くんの寝息が聞こえてきた、呼吸をするたびに美波の頭が上下する、壁にかかった時計を確認すると十二時まであと十分を切っていた。
もう会えない悲しみは校舎の屋上から飛び降りた時の比ではなかった、しかし、神様がくれた延長戦は美波に何よりも素敵な時間を与えてくれた、悔いはない。もう溢れ出す涙を止めようともしなかった。海斗くんの顔にポツポツと雫が落ちる。
「海斗くん、ありがとう、サヨウナラ」
そっと唇を重ねた、初めてのキス、そして最後のキス。
※
『ハロー海斗くん、この手紙を読んでいるという事は美波は成仏したんだと思います。
海斗くんに出会えたのがほんの数日前に感じます、どうしてこんな怖そうな人に話しかけたんだろう。今考えると不思議です。いつまでも成仏しない美波へ神様からのギフトだったのかな。
寂しがりやの海斗くん、はやく素敵な人を見つけてね、海斗くんの子供絶対に可愛いよ。
今度生まれ変わったらもう自殺なんてしないよ。生きていれば素晴らしい出来事が待っているって分かったから、教えてくれたのは海斗くん。
たくさん美波のお願いを叶えてくれたのに海斗くんのお願いは何も聞いてあげられなかったね、それが心残りです、おっと心残りがあると成仏できない笑
海斗くん、海斗くん、海斗くん、何回呼んだかな、心の中も入れたら数えきれないよ。今度生まれ変わったらお嫁さんにしてね。
海斗くんはこれからも色んな人に出会い、色んな経験をすると思います。あと何回の夏を過ごすか分からないけど、もし、気が向いたらでいいから――。
夏休みに変わった女の子がいたな、なんて、ちょっとで良いから美波の事を思い出してください。
PS 料理のレシピを同封します、ちゃんと自炊もするんだぞ。佐藤美波』
「あれ、兄貴どうしたんすか、目が赤いですよ」
「ん、ああ、ちょっと徹夜でな」
「もー、お嬢がいなくなった途端に夜更かしですかー、兄貴の事頼まれてるんですから」
「ハッシー、美波は確かにいたよな?」
「は、どうしたんすか、確かにあんな美少女は中々いないですけども」
「頑張って生きないとな」
「ええ、お嬢に怒られちゃいますから」
ファストフードで突然話しかけてきた謎の美少女、お人好しで誰も疑わない女の子は夏休みのあいだ毎日付き纏ってきた、生活は一変、灰色の生活に急に彩りを与えた彼女は、また急にいなくなった。涙は出たが不思議と悲しくはなかった、夢の様な出来事は確かに僕の心を動かした。
「ありがとう、美波」
※
子供の頃、夏休みの終わりはどうしてあんなに寂しいのか、特段学校が嫌いだった訳でもない、にも関わらずまるで地球最後の日のような絶望感は社会人の日曜日の夜に酷似しているのかも知れない、つまりはサザエさん症候群だ。
大人になると八月三十一日はなんて事がない普通の日だ、同時にあんなに希望に満ちていた七月二十日もいたって普通の日に降格した、毎年七月二十日を心待ちにする中年は自分以外には学校の先生くらいだろうか。
「ちっ、早くしろよババア」
後ろの若い男が舌打ちをした、ファストフードのレジには初老の女性がオロオロと財布の中から小銭を探している。
「急がれてるなら僕の前どうぞ」
「え、あ、いや」
「どうぞどうぞ」
男性に前を譲るとスマートフォンで野球中継を見始めた、この年になるとハンバーガーは胃に応えるが毎年この日だけは必ず食べる様にしていた、特に意味はない。
『どっちが勝ってますか?』
なんて聞いてくる不思議な少女はもちろんいないが、なぜか心の準備はできていた。
チーズバーガーのセットを受け取ると自宅のマンションに戻る、新築だったマンションも至る所に老朽の跡が見て取れる、いい加減新しいマンションに引っ越しても良いのだが。
「かーいーとーくん」
マンションに入る手前で不意に後ろから声を掛けられた、その声に聞き覚えはなかったが、なぜか誰だかはすぐに理解した。振り向く事ができない、その場で固まっていた。
「まさか、まだ一人で暮らしてるんじゃないでしょうねえ」
「ああ」
「もしかして待っててくれたのかな」
「ああ」
「じゃあ今度こそ結婚しようか?」
「ああ」
「もう、こっちむいてよ」
振り返るとそこには、真っ白なオーバーオールを着た少女が腰に手を当てて立っていた。