「美波の実家にいかないか」
そう提案したのはラジオ体操が終わり、近所の立ち食いそば屋で朝ごはんを食べている時だった、立ち食いにも関わらず天ぷらは揚げたて、蕎麦も注文が入ってから茹でるというこだわりがあって、おそらく日本人ではない夫婦が経営しているこの店は朝から繁盛していた。
「え、どうして」
「美波が生まれ育った街を見てみたい、あと家も」
「うーん、良いよ」
対して考えることもなく返事は帰ってきた、そんな事よりも目の前にある蕎麦が伸びることの方が問題だとばかりに啜っている。
外は紺碧の空が広がっていた、夏休みも終盤戦、子供達は宿題に追われ、子供がいる大人たちはやっと終わる非日常に安堵している事だろう。しかし自分の物語の答えはまだ出ていない、最終日になるまでどうなるか分からない。
一度家に帰ってから着替えた、美波は今日は変装する為に帽子を被りサングラスを掛けている。
「いい感じで怪しいね」
「地元は知り合いが多いからね、用心しないと」
まあ確かに、七年前に死んだ人間がしれっと地元を歩いていたら危険極まりない。
「海斗くんはなんでジャケットなの、暑くない?」
「ああ、もしかしたら美波の家にお邪魔するかも知れないから」
あまりラフな格好では怪しまれる、もっとも家に上げてくれたらの話ではあるが。
「は、なんでなんで、どうして家にあがるの」
なぜか狼狽える美波、家に上がられると困ることでもあるのだろうか。
「いや、お線香をあげさせて貰おかと思って」
「え、いいよー、あたしここにいるし」
まあ確かに、仏様になった故人と心を通い合わすという意味であげるのがお線香なので意味はない、心どころか会話もできるし触れることも可能なのだから。
「まあ、取り敢えず行こうか」
一度行った場所なので迷うこともなく美波の地元、赤羽駅に到着した、相変わらず駅前は大勢の人で賑わっている、まずは中学校を見に行きたいと彼女が言うので付き合うことにする、先日スパイさながらに訪れたことは内緒にしてあった。
「懐かしいなー、うわっ、あの看板まだ直ってない、絶対にわざとだよー」
パチンコのパの部分だけの電飾が消えている卑猥な看板を指差して嫌悪感を全面に出している、確かに美波が通っている頃からそのままなのであれば確信犯なのだろう。
「こんにちは、斉藤さん」
真正面から突然声を掛けられて一瞬パニックになった、目の前の中年男性が誰だったか思い出すのに五秒程かかる、ソフトボール部の顧問の田淵だ、ここは彼らのテリトリー、当然予見していなければならなかった。
「げっ、ぶっち」
言った後にしまったと口を塞いでいるのはキャップにサングラス、マスクをした怪しい女だった。
「え?」
田淵の視線が美波に移る、その外見をみて訝しげな表情に変わった。
「どうも、田淵顧問、これから練習ですか」
慌てて田淵に話しかけた。
「あ、いえ、今日は部活動は休みです。しかしソフトボール部の顧問の前に三年生の担任なもので、やる事がいっぱいですよ、そもそも受験を控えたこの時期に――」
話が長くなりそうなので適当に相槌を打ってからその場を辞去した、田淵は話足りなそうな表情だったが、しぶしぶ校舎の中に消えていった。
「びっくりしたー、急にぶっちが話しかけてくるから」
田淵だからぶっち、おそらく彼女たちが現役の頃の渾名なのだろう、しかし驚いたのはコッチだ、いきなりバレる所だった。
「海斗くん、斉藤さんって呼ばれてなかった」
しらばっくれようと思ったが、しっかり聞いていたようだ、嘘をつく必要もないので先日のスパイ活動に付いて説明した、彼女はうんうんと感心したように頷いている。
「やっぱり海斗くんって、只者じゃないね、そっか、それでバレちゃった訳だ、なるほどー」
校舎の裏手に回る、今日は野球部が練習をしている、少しの間その爽やかな風景を二人並んで観察していた。すると先日と同じ様に遠くからの視線を感じる、犬を連れた主婦らしき三人。あそこで立ち話、いや噂話しをするのがコイツラのルーティーンなのだろう。
「美波、行こうか」
「うん」
校舎をグルリと一周してから美波の自宅を目指して歩きだした。
「スカウトかと思われたかな」
不意に美波が呟いた。
「え」
「ほら、犬のお散歩してたオバサン達、あたし達の事マジマジと観察してたから、野球部のスカウトと勘違いしたんじゃ……」
なるほど、まったく同じ光景を見ても捉える人間によってどう感じるのかはまったく違うという訳だ。彼女たちが何を話していたか内容は分からない、しかし美波の考え方の方が自分よりも遥かに面白いし健全だ。
「きっとそうだな、美波はどっから見てもスカウトマンだ」
どうしてだろう、彼女といると自分の考えが馬鹿らしく思えるのは、心の中が暖かくなって穏やかな気持ちになる、人を好きになることはそういう事なのだろうか。
商店街を抜けて五分ほど歩いた住宅街に美波の実家はあった。茶色い瀟洒な三階建て、家の前には白いセダンが停まっていた。
「ちょっと、海斗くん本当に行くの?」
「ああ、美波はそこの公園で待っててくれ」
納得していない彼女を置き去りにして玄関のチャイムを鳴らした、玄関越しにドタドタと階段を降りてくる音がする、インターホンには出ないで解錠の音と共に黒い扉が開いた。
「どちら様ですかー」
顔を出したのはショートカットの可愛らしい小柄な女性だった、話によると五十歳手前の筈だが、三十代でも通用するほど童顔なその丸顔は美波との血の繋がりを隠すことが出来なかった。物騒な世の中に相手を確認もしないで空けたら駄目ですよと、注意したかったが我慢して自己紹介をした。
「突然申し訳ありません、以前、美波さんの件で取材をさせて頂いた斉藤と申します、近くに来たものでお線香をあげさせて頂けないでしょうか」
美波母は相好を崩すと、どうぞどうぞと室内に案内してくれた。警戒心が全くない性格は母親譲りなのかも知れない。一階のリビングに仏壇はあった、遺影の中の美波は制服姿で笑顔をコチラに向けている。改めて彼女がこの世にいない現実を突きつけられた気がした。線香をあげるとしばらくその場で手を合わせていた。
「斉藤さん、よろしければお茶どうぞ」
美波母に呼ばれてやっと顔を上げた、どれくらいそうしていたか自分でも分からなかった。
「ありがとうございます、頂きます」
ダイニングテーブルに腰を掛けると、正面に美波母も座った。
「誕生日なんですよ、美波の」
「え」
そう言えば、誕生日を聞いたことがなかった、夏に生まれたから美波、そう言っていたのを思い出す。
「暦の上だともう秋なんですけどね、私がどうしても美波が良いって、我儘言ったんですよ」
「八月はまだまだ夏ですよね」
「そうですよねー」
笑顔が美波にそっくりでドキッとした。
「それに海は夏だけのものじゃありません」
夏休みだけじゃなく、ずっと美波と一緒に居たい。
「あ、ところで、美波さんは生前、目標と言うか、夢と言うか、そんな話をした事はありませんか」
実家に訪れた目的だった。
「ええ、ありますよ、それが可笑しいんですよあの子、見ますか?」
そう言うと美波母はコッチコッチと手招きして二階に案内してくれた、扉には『美波の部屋』と丸文字で書かれた札が掛かっている、扉を開けると六畳程の広さの部屋にベットと勉強机、壁には学校の制服がハンガーで吊るされていた。今すぐに美波が生き返ってもすぐにこの部屋に復帰出来るだろう、きっと毎日、美波母が綺麗に掃除しているに違いない。元気を装っているが彼女の受けた心のダメージは計り知れないものだろう、未だに癒えていなくてもおかしくない。
「見てください、これ」
ちょうど勉強机に座った時、正面に見える位置に白い紙が貼ってある、筆で書かれた訓示のような物があった。
一、全国大会に出る
一、慶陽高校に合格する
一、ソフト部でレギュラーになる
「へえ、目標ですか、達筆ですねえ」
「ちゃんと全て叶えたんですよ」
さすが美波だ、毎日しっかりと目標に向かって努力して過ごしていたに違いない。何の目的も才能もなくダラダラと時間を浪費しているような人間が多い中で彼女の様な人間は貴重だろう。
「でもこれはダミーなんです」
そう言うと白い紙をめくった。
――夏休みの目標――
一、好きな人を見つける
一、好きな人と海に行く
一、好きな人と花火に行く
一、好きな人に告白される
一、好きな人とキスをする
二枚目の紙には女子高生らしい目標、いや願望が書かれていた、美波も普通の女の子、一七歳になったばかりの女子高生だった事を思い知った。
「多分こっちの方があの子には心残りだったと思うんですよ」
一つも達成することなく死んでいってしまったから、そこまで話を聞いて背筋が寒くなった。美波が成仏できないのは、達成していない目標があるから。もう一度壁に目をやった、あくまでも彼女が自分の事を好きになっていると仮定すると――。
キス以外は既に達成されている。
深々と頭を下げて星野家を辞去した、心臓の鼓動は落ち着きを取り戻しつつあるが、頭の隅では最悪の事態を想定していた、しかしそれは逆に言えば永遠に夏休みをループさせる手段でもある。歩いてすぐの小さな公園で美波はブランコに揺られていた。
「おーい、美波、終わったよ」
こちらに気がつくとブランコを飛び降りて駆け寄ってきた、先程見た遺影の笑顔と同じ顔がそこにはあった。
「長かったね、うちのママ若いでしょ」
「ああ、警戒心がない所も、笑顔もそっくりだったよ」
少し歩くと荒川土手があると言うので向かった、金八先生のオープニングに出てくるような緑の土手が遥か彼方まで続いている、夏の新緑の香りを楽しみながら二人並んで歩いた。
「ねえ、ママ変なこと言ってなかった?」
「変なことは言ってないけど、美波の部屋は拝見したよ」
「もー、最悪ー」
いつの間にか入手したオナモミをちぎっては投げてくる、緑色の種子が次々に服に絡まる。
「あ、そうだ、誕生日おめでとう」
「え?」
どうやら彼女自信忘れてしまっていたようだ、もっとも何歳の誕生日というのが正解か分からないが。
「あー、そうだー、今日誕生日だ」
「おし、誕生祝いしよう、何食べたい」
「焼肉ー」
夏休みが終わるまで後六日、それは美波と一緒に過ごせる時間と考えるのが自然なのか、本当に彼女はフッと消え去ってしまうのだろうか、そして来年の七月二十日に戻ってくるのだろうか。結局なんの確証も得られないまま夏休み最終日を迎える事になった。
※
夏休み最終日、恐らく学生時代はこんな気分だったに違いない。一言で言うならば絶望、どうして何の不自由もなく通っていた学校が夏休みを挟んだだけでコレほど憂鬱になるのか不思議だった、自殺の統計でも九月一日は一年でもっとも自殺者が多い日にあたるらしい。いっそのこと夏休みをなくしてしまえば良いのに、そんな思いも頭をよぎるが、そんな事は文部科学省が決めることだ。
さりとて今日も朝からラジオ体操をして、近所で立ち食い蕎麦を食う、いつものルーティーンを崩さずに家に帰ってきた。午前中は仕事をして、宿題が終わった美波は僕が貸した文庫本をずっと読んでいる、昼にはチャーハンと素麺が並んだ。
「美波がいなくなっても、出前ばっかりじゃなくて自炊もするんだよ」
「ん、ああ、まあ、そうだな」
明日からはまた出前アプリの出番が来るのかと考えていると、いつもよりも噛み締めて昼食を平らげた。
「あのさ、本当にまた来年逢えるのかな」
結局一番不安なのはそこだった。
「大丈夫だよ、絶対戻ってくる」
一年に一度しか会えないなんて七夕みたいだね、と彼女は言うが彼らは雨さえ振らなければ確実に逢えることが確約している、一方僕らは美波が来年も現世に戻ってくる補償がない。精神的な負担は圧倒的にこちらの方が大きいだろう。
「戻ってくるって言っても、少し眠っただけで一年経ってる感覚だからあんまり海斗くんに逢えなくなる感じじゃないんだよね」
「こっちは一年逢えないから……」
「そっか、寂しい?」
「うん、寂しい」
「あら、素直、可愛い」
美波は椅子から立ち上がると両手を広げて満面の笑みを浮かべている。
「おいで海斗くん」
スプーンを置いて立ち上がると、ふらふらと美波の方に吸い込まれていった、頭一つ小さい華奢な体を強く抱きしめると、美波も同じ様に強く抱きしめ返してくれた。腕の力を緩めて見つめ合うと美波はそっと目を閉じる。頭がボーッとして何も考えられない、吸い寄せられるように唇を重ねる寸前で我に返った。
「だめだっ」
「ん?」
美波が不思議そうな目で見つめている。
「キスをしたら、美波が成仏しちまう」
「えっ、どういう事」
僕は美波が夏休みを何度もルーブしてしまうのは、夏休みにやり残した目標、つまり未練があるからだと説明した、部屋に貼られた二枚目の願いがすべて叶えられた時、美波は成仏して二度と現世には戻ってこない。
「え、うそ、じゃあ海斗くんと一生キスできないってこと」
「その方が安全じゃないか、キスはリスクが高すぎる」
「えー、やだやだ、だったら海に行かなければ良かったー」
なるほど、その考えは頭になかった、海に行くと花火を観るは必ずしも叶えなくても良かったのではないか、と言ってももう遅い、すでに行ってしまったのだから。
「落ち着け、取り敢えず可能性があるってだけだ、少しずつ検証していこう、今年に関しては取り敢えず安全策をとろう」
「うー、はい」
こっちだってキスしたい、むしろその先もしたい、もうロリコンだって言われても知ったことではない、好きな人を抱きたくて何が悪い、ロリコン上等、かかってこい。
その後も何時ものようにダラダラと午後を過ごすと、夜はプロ野球を見ながら鉄板焼を食べて、ビールを飲んでいた。
「あたしも飲んでみたい」
「は」
「お酒」
彼女に年齢を当てはめるならば二十四歳、酒を飲んでも罪に問われる事はない、そもそも幽霊が罪に問われることもない、グラスを取ってくるとビールを注いで美波に手渡した。
「カンパーイ」
琥珀色の液体を一気に飲み干すと「大人の味だわ」と渋い顔をしながらおかわりを求めてきた、以外にイケるようだ。
野球が終わると風呂に入り、寝る準備をする、まったくいつもと変わらない日常、正確には今年の夏から始まった非日常はすっかり体に染み付いていた。
「あと十分で十二時だな」
「しばしのお別れね、あたしは一瞬だけど」
本当にこの場から消えていなくなる、なんて事があるのだろうか、上手いこと作用した結果もう夏休み限定なんて縛りはなくなっていて、そのまま居続けるなんて事にならないのだろうか、なんて期待していたが、果たして時計の針が十二時を指した瞬間に美波の体は半透明になっていき次第に姿は消えていった。
「また、らいねーん」
消える寸前とは思えない明るい声で美波はその場からいなくなった、先程まで座っていたソファはまだ温もりが残っているのに美波の姿はきれいサッパリとなくなっていた。
そう提案したのはラジオ体操が終わり、近所の立ち食いそば屋で朝ごはんを食べている時だった、立ち食いにも関わらず天ぷらは揚げたて、蕎麦も注文が入ってから茹でるというこだわりがあって、おそらく日本人ではない夫婦が経営しているこの店は朝から繁盛していた。
「え、どうして」
「美波が生まれ育った街を見てみたい、あと家も」
「うーん、良いよ」
対して考えることもなく返事は帰ってきた、そんな事よりも目の前にある蕎麦が伸びることの方が問題だとばかりに啜っている。
外は紺碧の空が広がっていた、夏休みも終盤戦、子供達は宿題に追われ、子供がいる大人たちはやっと終わる非日常に安堵している事だろう。しかし自分の物語の答えはまだ出ていない、最終日になるまでどうなるか分からない。
一度家に帰ってから着替えた、美波は今日は変装する為に帽子を被りサングラスを掛けている。
「いい感じで怪しいね」
「地元は知り合いが多いからね、用心しないと」
まあ確かに、七年前に死んだ人間がしれっと地元を歩いていたら危険極まりない。
「海斗くんはなんでジャケットなの、暑くない?」
「ああ、もしかしたら美波の家にお邪魔するかも知れないから」
あまりラフな格好では怪しまれる、もっとも家に上げてくれたらの話ではあるが。
「は、なんでなんで、どうして家にあがるの」
なぜか狼狽える美波、家に上がられると困ることでもあるのだろうか。
「いや、お線香をあげさせて貰おかと思って」
「え、いいよー、あたしここにいるし」
まあ確かに、仏様になった故人と心を通い合わすという意味であげるのがお線香なので意味はない、心どころか会話もできるし触れることも可能なのだから。
「まあ、取り敢えず行こうか」
一度行った場所なので迷うこともなく美波の地元、赤羽駅に到着した、相変わらず駅前は大勢の人で賑わっている、まずは中学校を見に行きたいと彼女が言うので付き合うことにする、先日スパイさながらに訪れたことは内緒にしてあった。
「懐かしいなー、うわっ、あの看板まだ直ってない、絶対にわざとだよー」
パチンコのパの部分だけの電飾が消えている卑猥な看板を指差して嫌悪感を全面に出している、確かに美波が通っている頃からそのままなのであれば確信犯なのだろう。
「こんにちは、斉藤さん」
真正面から突然声を掛けられて一瞬パニックになった、目の前の中年男性が誰だったか思い出すのに五秒程かかる、ソフトボール部の顧問の田淵だ、ここは彼らのテリトリー、当然予見していなければならなかった。
「げっ、ぶっち」
言った後にしまったと口を塞いでいるのはキャップにサングラス、マスクをした怪しい女だった。
「え?」
田淵の視線が美波に移る、その外見をみて訝しげな表情に変わった。
「どうも、田淵顧問、これから練習ですか」
慌てて田淵に話しかけた。
「あ、いえ、今日は部活動は休みです。しかしソフトボール部の顧問の前に三年生の担任なもので、やる事がいっぱいですよ、そもそも受験を控えたこの時期に――」
話が長くなりそうなので適当に相槌を打ってからその場を辞去した、田淵は話足りなそうな表情だったが、しぶしぶ校舎の中に消えていった。
「びっくりしたー、急にぶっちが話しかけてくるから」
田淵だからぶっち、おそらく彼女たちが現役の頃の渾名なのだろう、しかし驚いたのはコッチだ、いきなりバレる所だった。
「海斗くん、斉藤さんって呼ばれてなかった」
しらばっくれようと思ったが、しっかり聞いていたようだ、嘘をつく必要もないので先日のスパイ活動に付いて説明した、彼女はうんうんと感心したように頷いている。
「やっぱり海斗くんって、只者じゃないね、そっか、それでバレちゃった訳だ、なるほどー」
校舎の裏手に回る、今日は野球部が練習をしている、少しの間その爽やかな風景を二人並んで観察していた。すると先日と同じ様に遠くからの視線を感じる、犬を連れた主婦らしき三人。あそこで立ち話、いや噂話しをするのがコイツラのルーティーンなのだろう。
「美波、行こうか」
「うん」
校舎をグルリと一周してから美波の自宅を目指して歩きだした。
「スカウトかと思われたかな」
不意に美波が呟いた。
「え」
「ほら、犬のお散歩してたオバサン達、あたし達の事マジマジと観察してたから、野球部のスカウトと勘違いしたんじゃ……」
なるほど、まったく同じ光景を見ても捉える人間によってどう感じるのかはまったく違うという訳だ。彼女たちが何を話していたか内容は分からない、しかし美波の考え方の方が自分よりも遥かに面白いし健全だ。
「きっとそうだな、美波はどっから見てもスカウトマンだ」
どうしてだろう、彼女といると自分の考えが馬鹿らしく思えるのは、心の中が暖かくなって穏やかな気持ちになる、人を好きになることはそういう事なのだろうか。
商店街を抜けて五分ほど歩いた住宅街に美波の実家はあった。茶色い瀟洒な三階建て、家の前には白いセダンが停まっていた。
「ちょっと、海斗くん本当に行くの?」
「ああ、美波はそこの公園で待っててくれ」
納得していない彼女を置き去りにして玄関のチャイムを鳴らした、玄関越しにドタドタと階段を降りてくる音がする、インターホンには出ないで解錠の音と共に黒い扉が開いた。
「どちら様ですかー」
顔を出したのはショートカットの可愛らしい小柄な女性だった、話によると五十歳手前の筈だが、三十代でも通用するほど童顔なその丸顔は美波との血の繋がりを隠すことが出来なかった。物騒な世の中に相手を確認もしないで空けたら駄目ですよと、注意したかったが我慢して自己紹介をした。
「突然申し訳ありません、以前、美波さんの件で取材をさせて頂いた斉藤と申します、近くに来たものでお線香をあげさせて頂けないでしょうか」
美波母は相好を崩すと、どうぞどうぞと室内に案内してくれた。警戒心が全くない性格は母親譲りなのかも知れない。一階のリビングに仏壇はあった、遺影の中の美波は制服姿で笑顔をコチラに向けている。改めて彼女がこの世にいない現実を突きつけられた気がした。線香をあげるとしばらくその場で手を合わせていた。
「斉藤さん、よろしければお茶どうぞ」
美波母に呼ばれてやっと顔を上げた、どれくらいそうしていたか自分でも分からなかった。
「ありがとうございます、頂きます」
ダイニングテーブルに腰を掛けると、正面に美波母も座った。
「誕生日なんですよ、美波の」
「え」
そう言えば、誕生日を聞いたことがなかった、夏に生まれたから美波、そう言っていたのを思い出す。
「暦の上だともう秋なんですけどね、私がどうしても美波が良いって、我儘言ったんですよ」
「八月はまだまだ夏ですよね」
「そうですよねー」
笑顔が美波にそっくりでドキッとした。
「それに海は夏だけのものじゃありません」
夏休みだけじゃなく、ずっと美波と一緒に居たい。
「あ、ところで、美波さんは生前、目標と言うか、夢と言うか、そんな話をした事はありませんか」
実家に訪れた目的だった。
「ええ、ありますよ、それが可笑しいんですよあの子、見ますか?」
そう言うと美波母はコッチコッチと手招きして二階に案内してくれた、扉には『美波の部屋』と丸文字で書かれた札が掛かっている、扉を開けると六畳程の広さの部屋にベットと勉強机、壁には学校の制服がハンガーで吊るされていた。今すぐに美波が生き返ってもすぐにこの部屋に復帰出来るだろう、きっと毎日、美波母が綺麗に掃除しているに違いない。元気を装っているが彼女の受けた心のダメージは計り知れないものだろう、未だに癒えていなくてもおかしくない。
「見てください、これ」
ちょうど勉強机に座った時、正面に見える位置に白い紙が貼ってある、筆で書かれた訓示のような物があった。
一、全国大会に出る
一、慶陽高校に合格する
一、ソフト部でレギュラーになる
「へえ、目標ですか、達筆ですねえ」
「ちゃんと全て叶えたんですよ」
さすが美波だ、毎日しっかりと目標に向かって努力して過ごしていたに違いない。何の目的も才能もなくダラダラと時間を浪費しているような人間が多い中で彼女の様な人間は貴重だろう。
「でもこれはダミーなんです」
そう言うと白い紙をめくった。
――夏休みの目標――
一、好きな人を見つける
一、好きな人と海に行く
一、好きな人と花火に行く
一、好きな人に告白される
一、好きな人とキスをする
二枚目の紙には女子高生らしい目標、いや願望が書かれていた、美波も普通の女の子、一七歳になったばかりの女子高生だった事を思い知った。
「多分こっちの方があの子には心残りだったと思うんですよ」
一つも達成することなく死んでいってしまったから、そこまで話を聞いて背筋が寒くなった。美波が成仏できないのは、達成していない目標があるから。もう一度壁に目をやった、あくまでも彼女が自分の事を好きになっていると仮定すると――。
キス以外は既に達成されている。
深々と頭を下げて星野家を辞去した、心臓の鼓動は落ち着きを取り戻しつつあるが、頭の隅では最悪の事態を想定していた、しかしそれは逆に言えば永遠に夏休みをループさせる手段でもある。歩いてすぐの小さな公園で美波はブランコに揺られていた。
「おーい、美波、終わったよ」
こちらに気がつくとブランコを飛び降りて駆け寄ってきた、先程見た遺影の笑顔と同じ顔がそこにはあった。
「長かったね、うちのママ若いでしょ」
「ああ、警戒心がない所も、笑顔もそっくりだったよ」
少し歩くと荒川土手があると言うので向かった、金八先生のオープニングに出てくるような緑の土手が遥か彼方まで続いている、夏の新緑の香りを楽しみながら二人並んで歩いた。
「ねえ、ママ変なこと言ってなかった?」
「変なことは言ってないけど、美波の部屋は拝見したよ」
「もー、最悪ー」
いつの間にか入手したオナモミをちぎっては投げてくる、緑色の種子が次々に服に絡まる。
「あ、そうだ、誕生日おめでとう」
「え?」
どうやら彼女自信忘れてしまっていたようだ、もっとも何歳の誕生日というのが正解か分からないが。
「あー、そうだー、今日誕生日だ」
「おし、誕生祝いしよう、何食べたい」
「焼肉ー」
夏休みが終わるまで後六日、それは美波と一緒に過ごせる時間と考えるのが自然なのか、本当に彼女はフッと消え去ってしまうのだろうか、そして来年の七月二十日に戻ってくるのだろうか。結局なんの確証も得られないまま夏休み最終日を迎える事になった。
※
夏休み最終日、恐らく学生時代はこんな気分だったに違いない。一言で言うならば絶望、どうして何の不自由もなく通っていた学校が夏休みを挟んだだけでコレほど憂鬱になるのか不思議だった、自殺の統計でも九月一日は一年でもっとも自殺者が多い日にあたるらしい。いっそのこと夏休みをなくしてしまえば良いのに、そんな思いも頭をよぎるが、そんな事は文部科学省が決めることだ。
さりとて今日も朝からラジオ体操をして、近所で立ち食い蕎麦を食う、いつものルーティーンを崩さずに家に帰ってきた。午前中は仕事をして、宿題が終わった美波は僕が貸した文庫本をずっと読んでいる、昼にはチャーハンと素麺が並んだ。
「美波がいなくなっても、出前ばっかりじゃなくて自炊もするんだよ」
「ん、ああ、まあ、そうだな」
明日からはまた出前アプリの出番が来るのかと考えていると、いつもよりも噛み締めて昼食を平らげた。
「あのさ、本当にまた来年逢えるのかな」
結局一番不安なのはそこだった。
「大丈夫だよ、絶対戻ってくる」
一年に一度しか会えないなんて七夕みたいだね、と彼女は言うが彼らは雨さえ振らなければ確実に逢えることが確約している、一方僕らは美波が来年も現世に戻ってくる補償がない。精神的な負担は圧倒的にこちらの方が大きいだろう。
「戻ってくるって言っても、少し眠っただけで一年経ってる感覚だからあんまり海斗くんに逢えなくなる感じじゃないんだよね」
「こっちは一年逢えないから……」
「そっか、寂しい?」
「うん、寂しい」
「あら、素直、可愛い」
美波は椅子から立ち上がると両手を広げて満面の笑みを浮かべている。
「おいで海斗くん」
スプーンを置いて立ち上がると、ふらふらと美波の方に吸い込まれていった、頭一つ小さい華奢な体を強く抱きしめると、美波も同じ様に強く抱きしめ返してくれた。腕の力を緩めて見つめ合うと美波はそっと目を閉じる。頭がボーッとして何も考えられない、吸い寄せられるように唇を重ねる寸前で我に返った。
「だめだっ」
「ん?」
美波が不思議そうな目で見つめている。
「キスをしたら、美波が成仏しちまう」
「えっ、どういう事」
僕は美波が夏休みを何度もルーブしてしまうのは、夏休みにやり残した目標、つまり未練があるからだと説明した、部屋に貼られた二枚目の願いがすべて叶えられた時、美波は成仏して二度と現世には戻ってこない。
「え、うそ、じゃあ海斗くんと一生キスできないってこと」
「その方が安全じゃないか、キスはリスクが高すぎる」
「えー、やだやだ、だったら海に行かなければ良かったー」
なるほど、その考えは頭になかった、海に行くと花火を観るは必ずしも叶えなくても良かったのではないか、と言ってももう遅い、すでに行ってしまったのだから。
「落ち着け、取り敢えず可能性があるってだけだ、少しずつ検証していこう、今年に関しては取り敢えず安全策をとろう」
「うー、はい」
こっちだってキスしたい、むしろその先もしたい、もうロリコンだって言われても知ったことではない、好きな人を抱きたくて何が悪い、ロリコン上等、かかってこい。
その後も何時ものようにダラダラと午後を過ごすと、夜はプロ野球を見ながら鉄板焼を食べて、ビールを飲んでいた。
「あたしも飲んでみたい」
「は」
「お酒」
彼女に年齢を当てはめるならば二十四歳、酒を飲んでも罪に問われる事はない、そもそも幽霊が罪に問われることもない、グラスを取ってくるとビールを注いで美波に手渡した。
「カンパーイ」
琥珀色の液体を一気に飲み干すと「大人の味だわ」と渋い顔をしながらおかわりを求めてきた、以外にイケるようだ。
野球が終わると風呂に入り、寝る準備をする、まったくいつもと変わらない日常、正確には今年の夏から始まった非日常はすっかり体に染み付いていた。
「あと十分で十二時だな」
「しばしのお別れね、あたしは一瞬だけど」
本当にこの場から消えていなくなる、なんて事があるのだろうか、上手いこと作用した結果もう夏休み限定なんて縛りはなくなっていて、そのまま居続けるなんて事にならないのだろうか、なんて期待していたが、果たして時計の針が十二時を指した瞬間に美波の体は半透明になっていき次第に姿は消えていった。
「また、らいねーん」
消える寸前とは思えない明るい声で美波はその場からいなくなった、先程まで座っていたソファはまだ温もりが残っているのに美波の姿はきれいサッパリとなくなっていた。