誰もいない朝の校舎、校門をよじ登るといつもより広いグラウンドが目の前にあった。ほんの一年半だがお世話になった場所、恩を仇で返すようで気が引けたが、もう後には引き返せない。
 グラウンドの端を歩きだすと右手にはプールがある、もう今年は使われることがないであろう夏の花形は、ひっそりと静かな水面に落ち葉が浮かんでいた。そのまま進んでいくと校内に入る玄関があるが今はまだ固く閉ざされている、おそらくあと一時間もすれば、こんがりと日焼けした生徒達を受け入れるために開放されるのであろう。
 校舎の裏側に回ると廊下に沿って窓がある、手前から四番目の窓は鍵が壊れていて修理されていなければ容易く進入する事ができるはずだった、窓に手をかけるとカラカラと躊躇ためらいもなく開いた、もし夏休み中に窓が修理されていたら、もし守衛さんに見つかっていれば、もし誰かが自分の異変に気が付いていたら、もしイジメに遭っていなければ――。
 たら、れば、たら、れば、そんな事を言ったらキリがない。勢いを付けて窓枠をよじ登ると校舎の中に無事侵入する事ができた。階段を登り屋上を目指す、二階から三階、三階から四階に到着すると屋上に続く階段がある。十三階段は確か死刑囚が首を吊るために登っていく段数だったか、思い出せないが少なくとも目の前にある階段が十三段以上あることは目視で確認できた、階段を登りきると小さな踊り場がある、内鍵を解錠して屋上に出た。
 紺碧こんぺきの空には晩夏の太陽が昇り始めていた、出てきた扉の裏側に回ると錆びた梯子が掛かっている、どうしてこんな所に梯子が付いているのだろうか疑問だったが、今となってはありがたい。金網のフェンスをよじ登るのは難儀そうだ、それに少し高さが増す分だけ致命傷になる確率も上がるだろう、足を掛けて一段づつ登ると錆びた梯子はギシギシと音を立てて泣いていた、まるでこれから起こる悲劇を憂いてくれるように。不思議と恐怖心はなかった、それよりも新しい世界に羽ばたける期待と興奮が勝っている、現世に期待するにはあまりにも過酷な試練を与えられてしまった。大人に言わせれば自殺なんてバカバカしいと思うのかもしれない、しかし高校生にとって学校とはこの世の全て、この場所に留まることができないと言うことは死ぬと同義なのだ。
 制服を着てくるか迷った、しかし制服を着ての自殺というのはなんとなく悲壮感があるような気がして躊躇ちゅうちょした、代わりにお気に入りの白いオーバーオールを着用している、コンクリートに叩きつけられて、潰れたトマトの様に弾けた赤とのコントラストを意識していた訳ではない。
 一歩、また一歩と歩を進めると爪先がコンクリートの縁に差し掛かった、あと一歩前に出れば全てがリセットする、そう、これは終わりじゃなくてリセット。ゲームで負けたらそうする様に、死んだらコンティニュー、次は上手くやれるようにやり直すだけだ。
 そう考えると一層心が軽くなった、澄み切った空を見上げてから目を閉じる、両腕をいっぱいに広げて体を前に倒すとふわりと重力がなくなり鳥になった気分だった、しかしそれは一瞬の出来事で次の瞬間には激しい衝撃と共に意識は失われた。
 
 十七歳の星野美波が自らの命を絶ったのは、二年生の二学期が始まる九月一日の朝だった。