本当は心臓はバクバクを音を立てていたし、膝も震えていたけど弱みを見せるのは嫌だった。
「黙れ! それよりも君との婚約は解消だ!」
「え……? 突然どういうことですか!? それにカールセン伯爵家はどうなるの!」
「それは問題ない。私はビオレッタを妻にした。これからは私たちがカールセン伯爵夫妻としてやっていく」
「なっ——」
マクシス様の言葉がほとんど理解できない。
だって先日、私との婚姻宣誓書と代理で領地経営する書類にサインしたはずではないか。それなのになぜビオレッタを妻にして、そのふたりがカールセン伯爵になるのだ?
こういった養子はよくあることなので、相続の時に揉めないように法定相続人は登録制となっている。
法定相続人に名前がなければ家督も継げないし、遺産も受け取れない。年齢などの問題で代理を立てることはあっても、あくまでも期間限定の話だ。
「——正当な後継者は私ですわ」
「だから君がサインした譲渡書によってビオレッタが後継者となり、その夫である私が代理当主としてカールセン伯爵になったのだ」
「委任状は確かにサインしましたが、譲渡書なんて知りませんわ!」
「お義姉様ったら見苦しいわ。いい加減にしてよ。ちゃんと確認しなかった自分が悪いのでしょう?」
そんなはずはない、書類は隅々まで読んで、内容も納得したうえでサインしたのだ。その後に書類を差し替えたとしか考えられない。まさか、ふたりで仕組んで私を騙したのか?
「後継者の座もマクシス様も、もうわたしのものなの! お義姉様では不釣り合いだったのよ。そもそも治癒魔法しか使えないのに伯爵家を名乗るなんておかしいわよ!」
「それは……確かに攻撃魔法は使えないけれど、代々宮廷治癒士として国王陛下もお認めになっているし、皆様のお役に立っているわ」
私たちカールセンの血を受け継ぐ者は、攻撃魔法が使えない。その代わり治癒魔法に特化した一族だった。
我が一族は『癒しの光』という特殊魔法が使える。これはこの世界を創造したと伝承される神々のひとり、月の女神の血を引くからだ。その代わり攻撃魔法がいっさい使えない。
このヒューレット王国は王族が太陽の創世神の末裔で、莫大な魔力と攻撃に特化した性質から、貴族の間でも攻撃魔法が得意な家門が力を持っていた。
だからカールセン伯爵家は貴族の中では価値がないに等しい。だが、その特殊魔法で何度も王族や貴族たちの命を救ってきたこともあり、代々宮廷治癒士という役職を与えられていた。
普段は馬鹿にされるのに、困ったときだけ頼られるのが我が一族だ。月の女神の末裔だなんて話をしても、馬鹿にされて笑われるだけだったので、今では直系の子孫に伝えられるだけだった。
「それにラティシアはずっと攻撃魔法が使えるビオレッタが妬ましくて虐げてきたのだろう? そんな心の醜い女を妻にしたくなかったのだ」
「え? そんなことしていませんわ」
「ひどいわ……お義姉様はそれが当然だと思っているから、わたしがどんなに苦しかったかわからないのよ!」
そう言って、ビオレッタは泣き出してしまった。
「本当に無神経極まりない。君のような人間とは同じ屋敷にいるのも許せない。このまま出ていってくれ。当主命令だ」
本当に心当たりのないことで責められ、周りの貴族たちもヒソヒソと話し私に厳しい視線を向けてくる。
もうその場にはいられなかった。
私の味方はどこにもいない。
両親も兄も亡くして、婚約者も失った。
唯一の味方だと思っていた義妹に裏切られ、私はもうなにもかも嫌になり逃げ出すことしかできなかった。
その後、思いつく限りいろいろな部署に訴えた。
でもマクシス様の書類に不備はなく受理されていて、私の話を聞いてくれる貴族などいなかった。
例えおかしなところがあっても、マクシス様は公爵家の三男だ。公爵家が手を回したのか、誰も彼も口をつぐんで訴えても無駄だと突き放されるだけだった。
本当に悔しかった。だけど、なんの力もない私は泣き寝入りするしかなかった。
当然授業料など払ってもらえないので、あと半年で卒業だったけれど辞めるしかなくなった。
王立学園の先生に相談して、カールセン家の嫡子だと推薦してもらい、なんとか宮廷治癒士の仕事に就くことができたのは幸いだった。
王城ならば勤務者用の宿舎もあって、食事も格安で提供される。生きていくためには困らなかった。
しかし夜会での出来事はあっという間に社交界に知れ渡り、私が王城内を歩いているとよく意地悪をされた。
目の前で悪口を言われたり、無視されるのは日常茶飯事で、ひどい時だと水魔法でびしょ濡れにされる時もあった。
私の『癒しの光』は自分自身には使えない。もし怪我をしてしてしまったら、他の治癒士に治してもらうため正規の料金を払って依頼するのだ。
父と母と兄たちを失った心の傷も癒えぬまま、周りからも蔑まれる日々。
私は宿舎の狭い部屋で、幾度となく涙を流した。
家族を失った悲しみと、心細さ。
裏切られて誰も信じられない孤独感。
これからの暮らしに対する不安。
そんな感情を涙とともに流した。
それから半年が過ぎ、なんとか立ち直れたのは支えてくれる存在があったからだ。
宮廷治癒士を取りまとめる治癒室のエリアス室長は、こんな私でも穏やかな笑顔で受け入れてくれた。父には随分と助けてもらったと、私のこともよく面倒を見てくれて、ここに来てやっと人の温かさに触れられた。
どこかで聞いたのか執事長トレバーからの手紙も届いて、ずっと私を心配してくれていたのだと知ることができた。
それともうひとつ。秘密の存在たちがずっとそばにいてくれた。
「はあ、またやられたわ。すぐ着替えないと風邪を引いてしまうわね……」
いつものように嫌がらせで水魔法のウォーターボールを当てられて、全身びしょ濡れになってしまった。さすがにこの半年で随分とメンタルが鍛えられた。悪口を言われたくらいで傷ついていた自分が、もはや懐かしい。
だけど面倒なことに治癒士の制服を着替えないと仕事ができない。白地のワンピースの胸元には青い十字のマークがついていて、そのマークは水を含んで濃紺色になっていた。青い縁取りのスカートの裾から、ポタポタと雫が落ちている。
風属性の魔法が使えたら一瞬で乾かすことができるだろうけど、私は治癒魔法しか使えない。
深いため息をつくと、突如私の周囲に風が渦巻く。
風がやむと同時に、銀色の美しい翼をはためかせ手のひらサイズの幻獣バハムートが姿を現した。
本来なら大人が十人くらい乗れるほど大きいのだが、前に見つかって魔物だと勘違いされ大騒ぎになったことがあった。それ以来、このサイズで現れるようにお願いしている。
《ほんとうに人間はつまらぬことする》
「そうね、こんなくだらない意地悪をするくらい暇なのよ」
《仕方ない、我が一瞬で片付けてやる》
そういうとバハムートはフーッと息を吐いて暖かい風を巻き起こした。私の衣類と水に濡れた床を、一瞬できれいにしてくれる。
「ふふ、いつもありがとう。本当に助かるわ」
《別に、お前の辛気臭い顔など見たくないだけだ》
そっと頭を撫でて癒し手を発動させると気持ちよさそうに目をつぶる。バハムートは怪我がなくても、こうして治癒魔法で癒されるのが好きらしい。
少しだけぶっきらぼうだけど心根の優しい秘密の友人は、こうしていつも私を助けてくれる。私に癒されて満足したのか、バハムートは《なにかあれば呼べ》と言って吹き抜ける風とともに姿を消した。
カールセン伯爵領は地方にあり、領民たちは農業と山や森に生息する魔物を狩って生計を立てていた。王立学園に入るまでは父や兄たちに混ざって、私も領地で農作物や魔物狩りで怪我をした人たちを治していた。
お兄様たちと一緒に魔物狩りに出ていた時に森で怪我をしたバハムートに出会い、治してあげたらすっかり懐かれてしまったのだ。バハムートが幻獣と呼ばれる希少な存在だと知ったのは、屋敷に戻って家族に報告した時だった。
あの時の家族の驚いた顔が、今でもはっきりと思い出せる。
今では呼び出せばひょいっと出てくるくらいに仲良しだ。
室長やバハムートに支えてもらいながら、見えない傷を抱えた心から目を背け、治癒士の仕事に没頭していた。
それから五年があっという間に過ぎた。
必死に仕事をこなしてきた私は、女性治癒士をまとめるチーフとして勤務していた。他にも男性だけのチームや魔物討伐の同行が専門のチーム、病理専門、外傷専門のチームがある。私にはよくわからないが、治癒魔法を使う際にも得意分野があるそうだ。
私は女性治癒士を希望する患者様、特に貴族のご令嬢などが多いのだけれど、そういった特殊な希望に沿うためのチームをまとめていた。
「ラティシアさん、軽傷の患者様の治療が終わりました。このまま休憩に入ってもいいですか?」
「ユーリ、お疲れさま! ええ、片付けたい仕事があるから、先に休憩入って大丈夫よ」
「ありがとうございます。ではお先に」
今は翌月の希望休をまとめて出勤日を調整している。治癒室が休みになることはないので、みんな交代で休暇を取るのだ。
「ラティシアは休憩に行かないのか?」
パズルのように出勤日を組んでいたけれど、聞き慣れた声に手を止める。
いったん思考を止めて目の前の紙から視線を上げた。王妃様の診察から戻ったエリアス室長が、穏やかな瞳で私を見つめている。
「はい、今はユーリが休憩中なので戻ってきたら行きます」
「そうか、では——」
いつものなんでもないお昼時の会話をしていたが、突然ひとりの騎士が治癒室に飛び込んできた。
「すみません! 大至急治癒士を集めてください! 城下町で火災があって、派遣された治癒士だけでは足りません!!」
「っ! では外傷専門のチームと討伐専門のチームを出そう。私も行くから、ラティシアは治癒室を頼む」
一瞬で厳しい視線に切り替わったエリアス室長が、テキパキを指示を飛ばしていく。こういう時に迷いなく的確判断を下せる上司は、父のように頼もしい。
「わかりました。こちらに来る患者様は私が対応します。お気を付けて」
エリアス室長はふっと表情を緩ませて、他のチームの治癒士たちを引き連れて城下町へ向かった。これだけの応援を頼むのであれば、大規模な火災なのだろう。
私の癒しの光は効果が高い分範囲が狭いので、こういった災害時はあまり向いていないのだ。
いつものような怪我や病気は治せるので、しっかりと治癒室の留守を守ろうと決意した。
私だけ残って治癒室で書類の作成をしていると、ガタッとなにかがぶつかった音が聞こえてきた。話ができないほど具合の悪い患者が来たのかと、音の方へ振り返る。
「どなたですか? 今は私しかおりませんが、よろしいですか?」
視界に入ってきたのは、見かけない顔の青年だった。
焦茶の髪を揺らして、苦しそうに息をしている。咽せたかと思ったら口元を押さえた指の間から鮮血がこぼれて、床を赤く染めていった。
——吐血!
そう思った瞬間に身体が動いていた。
すぐさま青年を支えて、一番近い処置室のベッドへ誘導する。
「こっちへ! 歩けますか?」
呼吸困難、咳をする度に吐き出される血液は鮮やかな赤。
足がうまく動かせないのか、引きずるように歩いている。四肢に見られる麻痺症状、腹部に痛みがあるのか、胃のあたりを手で押さえ眉根を寄せて堪えている様子だ。
この症状は——毒物だ。しかも一刻を争うほど深刻な状況だった。