婚約破棄された王太子を慰めたら、業務命令のふりした溺愛が始まりました。


 ——私はただ、運が悪かっただけなのだ。

 両親と兄たちが事故で亡くなったのも、義妹があんな女だったのも、あの時治癒室に私しかいなかったのも、すべてついてなかっただけなのだ。

 フィルレス殿下の執務室へ向かっていると、途中で側近のアイザック・ルース子爵令息が迎えに来てくれた。きっと私が逃げないように監視するためだろう。

 普段は王城の奥まで入ることがないため、ソワソワと落ち着かない。
 やっと目的の部屋に着いたのか、アイザック様が凝った装飾が施された漆黒の扉をノックした。

「殿下、ラティシア様をお連れいたしました」
「入れ」

 短い返答の後に扉を開いて、中へ入るように促される。覚悟を決めて足を踏み入れた。

「失礼いたします。私をお呼びと伺いまいりました」

 そう言って、昨日はできなかったカーテシーをする。フィルレス様から声をかけられるまで下げた頭を上げてはならない。

「おはよう、ラティシア。そこへかけてくれる?」

 フィルレス殿下から声がかかったので顔を上げると、やけに嬉しそうにニコニコとしている。昨日の治癒の効果が出ているのか調子もよさそうだ。これから処分を言い渡すのになぜこんなに笑顔を浮かべているのだろう。


 侍従が私の分までティーカップを用意してくれた。これは最後の紅茶を飲めということだろうか?
 紅茶をひとくち飲んで、フィルレス殿下が話しはじめた。

「実は、今日はラティシアに頼みがあって来てもらったんだ」
「頼みですか? 私は処分を受けるのではないですか?」
「処分?」

 なんの話だとフィルレス殿下が聞き返す。

「昨日は緊急事態とはいえ、フィルレス殿下の御身に触れたので不敬罪で処罰されると思っていたのですが……」
「誰がそんなことを言ったの? むしろ命の恩人に罰を与えるとか意味がわからないよ」

 なんということだろう。聖人君子のフィルレス殿下は、昨日の治療を罪に問わないというのだ。真面目にやってきたことが、正しく報われたような気がした。
 これなら治癒室のみんなも安泰だと、胸を撫で下ろす。

「そうでしたか……では、どなたかの治療ですか? それとも毒についての捜査協力でしょうか?」
「昨日の犯人はすでに捕らえてある。それよりもラティシアに治癒魔法をかけてもらって驚くほどの効果があったから、これからも頼みたいんだ」

 これからも頼みたい? フィルレス殿下——この国の王太子が? 私に?


 それは、今までの努力が実ったと思える瞬間だった。



 きっかけは偶然だったけれど、やっと実力が認められたのだ。どんな悲しみに見舞われても、ひどい裏切りにあっても前を向いて続けてきてよかった。
 治癒士としての誇りを胸にやってきた。それは間違いではなかったのだ。

「はい! 治癒室に来ていただければいつでも治療いたします! 事前にお知らせいただければ時間の調整も……」
「それなら心配ないよ。専属治癒士として任命するから、こちらに専念できる」

 また紅茶をひとくち含み、フィルレス殿下は私を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。

「むしろ手放せないくらいに気に入ったんだ。だから僕だけの専属治癒士になってほしい」

 その言葉が大袈裟に感じたけど、ありえない話に現実味が湧かない。

「だからね、ラティシア。これからも僕を癒してくれるかな?」

 そう言って微笑むフィルレス様は、端正な顔立ちも手伝って神々しい光を放っていた。
 穏やかな人柄というのもあり今の私には神のような存在だけれど、体調がよくなったおかげか輪をかけて美しくなった様な気がする。

 私はやっと手に入れた希望あふれる未来に、力強く頷いた。


 その後、王族の専属治癒士ということで、機密保持の書類や業務に関する契約書などにサインをした。
 細部まで細かく書かれていた書類だったけれど、最初に契約書の約束は守ると宣誓書まで用意されていた。私のようなただの治癒士にも誠実にしてくださるフィルレス殿下には、ずっと健康でいてもらいたい。

 私のできることはどんなことでもしようと心に決めた。

 そうしてすべての書類にサインを終え、一度治癒室へ戻ることになった。私物の整理と治癒士たちへの挨拶も済ませたかったのでありがたい。
 翌日からは専属治癒士として、フィルレス殿下の執務室へ出勤するように命じられてフィルレス殿下の執務室を後にした。

 その日のうちに異動の通達が治癒室に届き、同僚たちから患者様が驚くほどの喝采を浴びた。
 エリアス室長やユーリたちから祝いの言葉をもらい、急な異動にも関わらず送別会まで開いてくれることになった。

 思ったよりも多くの治癒士たちが参加してくれて、こんなところにも私の努力の結果が現れていた。
 治癒士たちの気持ちが嬉しくて、潤んだ瞳を誤魔化すのが大変だった。




 翌朝、私はすでに手配されていた新しい制服へ腕を通した。
 これからは専属治癒士の証であるロイヤルブルーのワンピースを身にまとう。胸元には純白の十字が刻まれ、治癒士としての誇りが湧き上がった。

「さあ、今日からはお父様と同じ専属治癒士としてバリバリ働くわよ!」
《張り切り過ぎて失敗するな、ラティシア》

 いつも口の悪いバハムートが、興味なさそうにしながらも心配してくれる。

「そうね、空回りしないように気を付けるわ」
《まあ……どうにもならない時は我が助けてやるが》

 ふいっと顔を背けながら、頼もしい言葉を言ってくれる。いつだって私が呼ぶ前に、困った時は現れてくれるから照れ隠しだってすぐにわかる。

「心配してくれてありがとう。本当に困った時は助けてもらうわ。じゃあ、行ってくるわね」

 手のひらサイズのバハムートに見送られて、私は宿舎を後にした。
 バハムートの優しさにずいぶん癒されたなと思い出す。朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、大きく一歩を踏み出した。




「ラティシア、おはよう」
「フィルレス殿下、おはようございます」

 始業時間の半刻前にはやってきたけれど、すでにフィルレス殿下は業務を始めていて決裁済みの書類が高く積み重なっていた。

「申し訳ございません、初日から登城するのが遅れました」
「いや、ちょうどいい時間だよ。今日は僕の都合で早く来ただけだから。専属治癒士の制服もよく似合っているね」
「ありがとうございます。では早速ですが専属治癒士の仕事として朝の体調をお調べいたしますか? それとも皆さまにご挨拶をするのでしょうか?」
「……そうだね、体調は大丈夫だし挨拶は後ほど。その前に君にしか頼めないことがある」

 私にしかできないことといえば治癒士としての仕事だろう。私は気持ちを引き締めて、フィルレス殿下を真っ直ぐ見つめた。

 体調は問題ないと言っていたとおり、顔色はいいようだ。やはりこの時間でこれだけの仕事をこなされたからなのか、すでに疲れが出ているように見える。
 だけど癒しの手(ヒールハンド)を使えば、これくらいは一瞬で治癒できる。他に調子の悪いところがあるのだろうか?


「そんなに見つめられると……照れるな」

 ほんのりと目元を桃色に染めてはにかむ美形は、びっくりするほど私の心を鷲掴みにした。公務では見ることのないフィルレス殿下に心臓がうるさいほど鼓動する。

「え? あっ、申し訳ございません。すでに診察を始めておりまして、フィルレス殿下の顔色などを確認しておりました」
「あ、そう……君は本当に真面目だね」

 急に表情をなくしたフィルレス殿下は、そばに控えていたアイザック様に視線で合図を送る。

 アイザック様が扉の外にいた騎士に声をかけると、王族付きの侍女たちが私の後ろに並んだ。
 この展開の意味がわからず、侍女たちとフィルレス殿下を交互に見てしまう。

「もしかして、この侍女たちの診察ですか?」
「違うよ、言っただろう。君にしか頼めないことがあるって。まずはこの侍女たちの言う通りにしてくれるかな?」
「ラティシア様、それではご案内いたします。こちらへどうぞ」

 言われるがまま侍女についていくと、隣の部屋に案内される。部屋に入ると色とりどりのドレスが並んでいて、侍女たちが瞳をギラリと光らせ慌ただしく動きはじめた。


「まあ、ラティシア様のお肌は本当に白くて素敵ですわ。でも潤いが足りないようなので保湿してこちらのクリームを塗りますね」
「こんなに美しく輝く銀色のお髪を見たことがございません。さらに艶を出すためにヘアオイルを使いましょう」
「アクセサリーはフィルレス殿下の指示でブルーダイヤモンドのセットと決まっておりますので、グラデーションが素晴らしいこちらのドレスがよろしいかと思います」

 なにがなんだかわからず、されるがままにしていた。

 気が付けば鏡に映るのは、複雑に髪を結い上げ美しくドレスアップしたひとりの淑女だった。
 首もとと耳には価値を理解したら震えそうなほど、煌びやかなブルーダイヤモンドのネックレスとイヤリングがキラキラと輝きを放っている。

 ドレスの裾は淡いパープルで肩の方は澄み切った空色になっていてグラデーションが美しい。動くたびに光に反射するように小粒の宝石が縫いつけられていた。

 ちょっと待って、このスカイブルーのダイヤモンドは伯爵家クラスではお目にかかれないような希少価値の高い宝石よね!?
 しかもドレスについている宝石だって、ひとつひとつがかなり質のいいダイヤモンドじゃないかしら!?

 あまりに高すぎる価値のドレスとアクセサリーに、頭がクラクラしてくる。私は顔を引きつらせながら恐る恐る侍女に聞いてみた。

「あの、これはどういうことでしょうか……?」
「フィルレス殿下のご指示通りにさせていただいたのですが、お気に召しませんでしたか?」
「え? フィルレス殿下の指示ですか?」
「はい、ラティシア様の魅力を存分に引き出し、国一番の淑女に仕立てよとのご命令でございます」


 フィルレス殿下がなぜそのような指示を出したのか、さっぱりわからない。
 そもそも治癒士としての仕事をこなすのに、こんな貴族令嬢が着るような衣装では不都合しかないのだ。しかもドレスの価値を考えたら、恐ろしくてここから一歩も動けなくなる。

「そうでしたか……とても素晴らしい仕事ぶりです。ありがとうございます」
「お褒めのお言葉ありがとうございます。ではフィルレス殿下の執務室へ戻りましょう」

 そう促されて、侍女たちと元の部屋へ戻る。
 ドレスの価値も相まって恐る恐る足を進めていく。久しぶりのドレスで歩きにくかったけれど、なんとかドレスの裾を捌いているうちに扱いも思い出していた。

 ここまで高級なドレスは初めてだけれど、こんな格好で夜会に出ていたっけ……ドレスなんて伯爵家を出てから着ていなかったわ。

 侍女たちの後ろについてフィルレス殿下の執務室に入ると、バチっと部屋の主人(あるじ)と視線が合った。