ふたりだけになった空間には、自然と甘い空気が流れ始める。私の心臓の音がフィル様に聞こえそうなほど、ドキドキしていた。
私の頬をフィル様の長い指が滑る。指は耳元をくすぐり、肩から腕へ下りて私を優しく抱きしめた。
フィル様の心臓の音が聞こえて、こんなにドキドキしているのが私だけではなかったと安心する。
「ラティ、愛してる。僕は君しか愛せない。だから責任をとってもらうよ?」
「わ、私もフィル様が……好き、です」
「はあ、ヤバい。ラティがかわいすぎてなにもしたくない」
さらにきつく抱きしめられて、フィル様の身体にすっぽりと包まれたようになる。肩の上でぐりぐりと額を擦る様は、まるでペットがじゃれついてるみたいだ。
でもなにもしたくないとはマズいだろう。王太子であるフィル様にやってくる仕事は後を絶たない。
「じゃあ、もう好きって言いません」
「それはダメ! これからも朝昼晩は言ってくれないと!」
「なぜ朝昼晩なんですか?」
せめて一日一度にならないかと、ダメもとで尋ねてみた。
「定期的に聞かないと、不安になってラティを閉じ込めたくなる」
「閉じ込め……!?」
かなり物騒な発言が飛び出した。そんなに不安にならなくても、ちゃんとフィル様だけを見ているのに。
「大丈夫、僕が不安に駆られる前にちゃんと好きとか愛してるとか言ってくれれば大丈夫だから」
「わ、わかりました……でも、どうして、その、フィル様は好きとか言ってくれなかったのですか?」
私は思い切って聞いてみた。ずっと気になっていたのだ。あれだけ私に愛情を示してくれていたのに、言葉で伝えられたのは今日が初めてだ。
「ああ、それはね。最初から好きだとか愛しているとか言っても、信じてもらえないと思ったからだよ」
「どうして私が信じないと思ったのですか?」
「ラティの過去を知った時に、状況からすると男性不信になっているのではないかと思ったんだ。でも、どうしても好きになってほしかったから、まずは態度で示して信頼を得てから言葉で伝えるつもりだったんだ」
「な、なるほど……」
もしかしたらフィル様は、私よりも私を理解しているかもしれない。確かにあの頃好きだとか言われていたとしても、絶対にスルーしていた。
間違いなく、こんなに軽く好きとか愛してるとか言う男は信用ならないと、切り捨てていただろう。口ではなく態度で示してくれないと、信じられなかった。
「では早速、言ってくれるかな?」
「さっき言いましたけど?」
「衝撃的すぎて、記憶が飛んだからもう一回、ね?」
「えええ! それ、絶対嘘ですよね!?」
うっとりするような笑みを浮かべたフィル様は、私をまっすぐに見つめる。
「ラティ、愛してる」
「待ってください……もう! 私も、フィル様が好きです」
鼻が触れてしまうほどの距離で、私だけに見せる熱のこもった視線に逆らえない。まだ私からの愛情表現が慣れなくて、顔も耳も首も赤く染まってしまう。
「ラティ、僕は愛してるよ?」
これは……つまり、好きでは足りないということ? でも、つい最近気持ちを自覚したばかりなんだけど。
それでも、フィル様が望むなら。
「あ……あ、あー、あ、愛、して、ます」
言い終わるないなや、先程のキスが子供のままごとだったと思うほど、深く深く貪られた。
終わらない深い口付けに力が入らなくなって、フィル様の逞しい胸板にもたれかかる。
満足げに微笑んだフィル様は、ポツリとつぶやいた。
「……僕の月の女神。一生離さないから」
空のように澄んだ瞳で見つめられて、私は思う。
もうこの腹黒王太子から、逃げることなどできないのだと。
俺はアイザック・ルース。
当主だった父が借金を残して亡くなり、一度は領地も家もなくした子爵家の嫡子だった。だが、王太子フィルレス様のお引き立てで、今は側近として働かせてもらっている。
フィルレス様のおかげで、俺は王都に小さいとはいえ屋敷を持つことができたし、母はフィルレス様の乳母を務めたとして十分な報奨を受けることができた。おかげで子爵家として存続することができたのだ。
だから俺の忠誠はこの国ではなく、フィルレス様個人にある。
同僚ともいえる『影』の奴らも同じだ。『影』とはフィルレス様の命を受けて、諜報から暗殺までさまざまな仕事をこなす部隊をいう。みんなフィルレス様になにかしらの恩義があり、絶対的な忠誠を誓っているのだ。
今回はある伯爵夫妻の裏の顔をお披露目するべく、影たちは暗躍している。
その進捗状況の確認も兼ねて、王都の繁華街へ飲みに来ていた。
「久しぶり。……早速だが、首尾はどうだ?」
俺が酒場に着くと、ふたりはすでに到着していて酒盛りを始めていた。グレイは気だるそうに頬杖をついていて、シアンは目立たない街人の格好をしている。ふたりとも目立つ容姿だが幻影の魔法をかけているようで、周囲の人々は目もくれない。
ちなみに俺は魔法が効かない体質なのか、元の姿のまま見えている。
「んー、まあ、ぼちぼちかな」
「オレも。ていうか、あの女ちょろすぎてつまんない」
シアンは運転資金に困っている研究者を探している。そんな都合のいい対象がいるはずもなく、少々手こずっているようだ。グレイは目の覚めるような美貌を生かして、伯爵夫人をたらし込むのが役目だが順調のようだ。
「いいじゃん、お前は年若いご婦人の相手なんだから」
「グレイのスリルが羨ましい」
「適材適所だ、文句は言うな。それとも、俺と代わるか?」
シアンは思ったように進まない仕事に苛立ちを吐き出し、グレイがやりがいのなさに愚痴をこぼす。どちらも俺から見たらやりやすい仕事のはずなんだが。
「……いや、遠慮しとく」
「……うん、オレもいいかな」
ふたりが視線を逸らしながら丁重に断ってきた。まあ、無理もない。
フィルレス様の側近となると、業務の幅が広すぎる。そのために勉強も必要だし、貴族たちとの面倒なやり取りもあるのだ。
幸いフィルレス様と乳母兄弟として育った俺は、勉強する機会にも恵まれたし、もともと貴族だったのでさほど抵抗なく仕事をこなせていた。
それにしても、先日のフィルレス様は今まで見たことがないくらいに黒い笑顔を浮かべていた。
あれは、フィルレス様が孤児院でもらった菓子に毒を仕込まれて、俺が犯人を秘密裏に処理した日のことだった。
フィルレス様の指示通り調査すると、あっけなく証拠が出てきた。その他にも不正を働いていたので、その証拠をすべて匿名の告発があったと王城の監査部へ提出したのだ。
王太子の側近が持ってきた証拠なので、無碍に扱われることもない。後日結果を聞きにくると言えば、正しく調査される。実際に犯人の貴族は第二王子派の伯爵で、フィルレス様を暗殺した報奨として要職に就こうと考えていたようだ。
処理が終わり、フィルレス様の執務室へ戻ると、やけに嬉しそうに笑う姿が目に入った。こんな様子は初めてかもしれない。
報告を済ませたところで、フィルレス様が口を開いた。
『アイザック、これから忙しくなる』
その言葉に反して、なにかとてつもなく楽しいことを考えているような表情だ。だけど背負っているオーラが、そこはかとなくドス黒い。
『なにかありましたか?』
『僕だけの女神を見つけた』
『はい?』
女神を見つけたとは……つまり、フィルレス様が心許す方が見つかったということか?
しかし、俺と別れた際は毒に侵されていて、一刻も早く私室の解毒薬を飲まなければならないはずだったのに。いったいどこで出会ったというのだろう?
『ラティシア・カールセン。宮廷治癒士として治癒室に配属されている。明日までに僕の専属治癒士兼婚約者にする』
『承知しましたが……ずいぶん急な話ですね』
『そうだね。でも絶対に僕のものにする』
フィルレス様の目が獲物に狙いを定めたというように、ギラリと光る。
実は何度かラティシア・カールセンの治癒を受けたことがある。専属治癒士になってもおかしくないほどの腕だった。
気になって調べたところ、カールセン家の嫡子なのに性格に難があり、今では宮廷治癒士として勤務している。だが貴族のご婦人やご令嬢たちの間では、治癒士としてすこぶる評判がいい。矛盾した評判だと思ったものだ。
どうやら今日の仕事はまだ終わらないようだ。出会ったのは治癒室か。やはり俺と別れた後になにかあったようだ。これからはなんと言われようと、フィルレス様の安全を確保してから自分の任務を果たそうと心に決めた。
『ふふふ、ラティシアは本当にかわいいな』
『フィルレス様、こんなやり方をしなくても、普通に口説けばいいのでは?』
ラティシア・カールセンには申し訳ないが、きっともうフィルレス様からは逃げられないだろう。このお方がこんな風にご機嫌なのも初めてだし、ここまで黒いオーラが漏れ出しているのも見たことがない。
『いや、普通に口説いても無理だろうね。おそらく元婚約者の件がトラウマになっているのだろう。そうでなければ、あの美貌と性格で未だ独身な訳がない』
『確かにとても魅力的な女性で——』
治癒してくれた時の印象を思い出しながら、ラティシア・カールセンについて所見を述べようとした。
それだけなのに、フィルレス様が過剰なまでの反応を見せる。
『アイザック、もし僕のラティシアに不埒な感情を抱いたら、お前でも容赦しない』
『フィルレス様、ただラティシア様を褒めただけです。誤解しないでください』
『……そうか、すまないな。ラティシアのことになると、どうも短気になってしまうようだ』
こんなにもひとりの女性に対して感情的になるフィルレス様なんて、誰が想像しただろうか? あの性悪皇女とも微笑みを浮かべたまま婚約したくらいだぞ。
これは、もう決まりだろう。ラティシア・カールセンは後の王妃となるに違いない。
しかもフィルレス様はすでに専属治癒士として任命すると手配していたようで、あとは婚約の手筈を整えるだけだった。ここでラティシア・カールセンが、月の女神の末裔だったと判明した。
この事実をもとにフィルレス様が国王を円満に説得した。……まあ、それがなくても実力行使でもぎ取ってきたと思うが、今後のことを考えれば円満解決に越したことはない。
もしかしたらラティシア様は、この国にとって……いや、フィルレス様にとって救済の女神なのかもしれない。
見事ラティシア様を婚約者にしたフィルレス様は、それはもうご機嫌な毎日を過ごしていた。途中、ラティシア様に助け舟を出そうとしたら、かなり本気の殺気を向けられるくらいご執心されている。
だけどあの性悪皇女が戻ってきてから、フィルレス様はラティシア様のいないところで毒を吐きまくっていた。
「ラティシアが足りない。もう無理、限界。あの女やってもいいか?」
「物騒なことを言わないでください。そんなことをしたらラティシア様とますます会えなくなりますよ?」
「僕が世界の王になれば問題ない」
きっとそれはラティシア様が望まれないだろう。
近くで見てきてわかったが、ラティシア様には欲がない。今ある現実から幸せを見出そうとされるお方だ。ここはこっそり助け舟を出すべきか。
前回は俺の立ち回りが悪くて味方になれなかったことが、ずっと気になっていたのだ。
「王太子妃でもイヤイヤな様子のラティシア様に、それは酷です」
「はあ、くそっ! あの性悪女、絶対に許さない……!」
「ほどほどにしてくださいね」
私の最後の助言は耳に届いていないようだ。
まあ、俺が王太子妃として認めるのはラティシア様だけなので、よしとしよう。それにあの性悪皇女はラティシア様を悲しませていたから、俺も許し難い。
隣で悲しげにフィルレス様を見つめるラティシア様が、不憫でならなかった。
この頃には、フィルレス様や民の心に寄り添うラティシア様を、未来の王妃として敬愛していた。