それはあの時にあきらめたものだ。
父が誇りを持って受け継いできたカールセン伯爵家。治癒魔法しか使えないけれど、それでも人々の役に立とうとしてきた兄たち。
その誇りを理解して支えてきた母は、どんなに馬鹿にされても笑顔を絶やさなかった。
私を支えてくれた、家族の愛と矜持が詰まっているカールセン家。
それが、私のもとに戻ってきた?
「うん、今はラティがカールセン伯爵だよ。領地に帰りたい時や屋敷に戻るときは相談してね」
「本当に、私の手に戻ってきたのですか……?」
「ああ、君が正当な後継者であると証明できたからね。簡単だったよ」
「フィル様……」
自分の根源が戻ってきたような安堵感に包まれる。
家名という決して代わりのきかないものを、フィル様は取り戻してくれた。なんでもないというように、それが当然だと言ってくれた。
どうして、こんなにも私の心に寄り添ってくれるの? もしかして、本当に私を心から求めてくれているの?
でも、それなら……どうして好きだとか、愛してるとか言ってくれないの?
「君がどんな状況だったのか知ってから、密かに調査を進めて手配していたんだ。これも王族の務めだから」
「あ……ありがとう、ございます!」
ああ、そうか。フィル様は王太子として優秀だし、なにか目的があって私を婚約者にしたのだろう。危なく勘違いするところだった。
胸がぎゅうっと締め付けられたようにつらくなって、なぜか目の奥に熱いものが込み上げてきた。瞬きして堪えていたのに、あっさりと決壊してあふれた涙が頬を伝っていく。
「本当は君の笑顔が見たかったんだ」
フィル様の優しく囁く声に、ますます混乱する。
まるで私のためにすべて手配したと言っているのに、フィル様の胸の内がわからない。私を求めてくれるのに、愛の言葉は決して口にしないから、信じきっていいのかわからなかった。
「だから、もう泣かないで」
フィル様の長い指が私の涙を拭う。その指先が怖々とした様子で、でも優しくて、ますます切ない気持ちが込み上げた。
こんなことを考えていても答えは出ない。フィル様に直接聞ければいいけど、やぶ蛇のような気もする。どちらにしてもルノルマン公爵様の判定結果次第では、婚約を解消しなければいけないから、あがいたところで無駄だろう。
私は気持ちを切り替えて、話題を変えることにした。
「……すみません。思わず感極まってしまって。ところで、五年も前のことなのにどうやって調べたのですか?」
「ああ、それはね、王太子命令で関係者を呼び出して、事実を聞き取りしただけだよ」
「さすがですね」
私があれほど声を上げても、すべて無視されたのに。やはり権力には逆らえないのだ。
「念のため、隣にバハムートにもいてもらったから、みんなスラスラ話してくれたけどね。ついでにルノルマン公爵の判定試験も使ってラティの正当性を調べさせたんだ」
「……それは」
ということは、あのお茶会はフィル様が仕組んだものだったのか。
義妹と元婚約者が招待されたのも、お茶会に呼ばれていた貴婦人たちが私の患者だったのも、フィル様がなにかしら関与していたのだ。
待って、ここまで関与して正当な判定ができるものなのだろうか?
よく考えてみれば、フィル様がすべての判定試験に関与しているような気もする。というか関与している。最初の話ではあくまでも婚約者のために協力するというものではなかったか?
「本当に神竜効果がすごかったな。実際は僕の管轄の仕事ではなかったけれど、大切な婚約者のためだし、ね?」
僕の管轄ではないって、それは——
「思いっきり職権濫用ですよね!?」
「ラティ、使えるものは使ってこそ価値があるんだよ」
フィル様の笑顔が黒かったのは言うまでもない。
ほんの少しだけ、一瞬だけ、なんで好きって言ってくれないのと考えた自分を消したくなった。
やっぱり腹黒王太子の婚約者は、私には無理だ。
穏やかな午後の日差しが差し込む中庭で、私はフィル様と今日もまったりとお茶の時間を過ごしていた。
専属治癒士の制服は判定試験が始まってから着用していない。
今もパステルイエローの生地にスカイブルーのリボンが飾られたドレスを身にまとっている。ハーフアップにした髪はゆるく巻かれて、青いカーネーションの髪飾りが彩りを添えている。
ここは城内を行き交う人たちが通る廊下に面した中庭なので、人通りはそこそこある。できれば誰の目にも触れない場所がよかったけれど、「ラティ、これは業務命令だよ?」と言われたら反論できなかった。
「まあ、なんてお似合いのおふたりなのかしら!」
「フィルレス殿下もラティシア様をとても大切にされていて、羨ましいわ〜」
「ねえ、ご存知? ルノルマン公爵様のお茶会のこと」
「ええ! 聞きましたわ! フィルレス殿下の愛に触れて、恥じらうラティシア様が天使のようだったと……!」
「アリステル公爵夫人も、ラティシア様を……」
なんて会話を繰り広げるご婦人たちが通り過ぎた。
先ほどからこれに近い会話がちらほら聞こえてくる。私がカールセン伯爵になったと知らされてからは、他の貴族たちもすり寄ってきて、なにかと声をかけられた。
今までは治癒魔法しか使えない、義妹を虐げた非道だと言われてきたのに、華麗な手のひら返しに感心したくらいだ。
「フィル様、そろそろお茶の時間を終わりにしませんか?」
「どうして? まだ三十分しか経っていないよ。休憩は半分残っているけれど」
「いえ、せめて執務室で休みませんか?」
廊下を通り過ぎる貴族や官僚、騎士たちの視線を感じないところに今すぐ移動したかった。いたたまれなくて仕方ない。
「執務室だとどうしても政務のことを考えてしまうのだけど……そうだな、ラティが残りの時間、僕の膝のうえで過ごすなら戻ろうか」
「あ、すみません。こちらで結構です」
「そう? 気が変わったらいつでも言ってね」
この腹黒王太子のことだから、あえてこんな場所を選んだに違いない。これではますます私とフィル様が仲のよい婚約者だと印象づけてしまうではないか。
だけどフィル様の膝のうえなんて、勘弁してほしい。あんなに至近距離では心臓がいくつあっても足りない。
最近では視線が合っただけでバクバクと心臓がうるさいのだ。できるだけ接触は避けたかった。
もうフィル様から逃げるのは無理なのかと、ぼんやり思い始めていた。
ところが、ルノルマン公爵様の判定結果が明日にでも発表されるというタイミングで、事態は急変した。
その日もいつものように、衝立で隔たれた寝室のベッドに潜り込んだ。少し遅れてフィル様が寝室にやってきて、隣のベッドに腰を下ろす。私の方が寝室に来るのが早いなんて珍しいことだった。
さらにベッドに入る様子はなく寝る気配がしない。フィル様は短いため息を吐いて言葉を続けた。
「ラティ、すまない。少々面倒なことになった」
「なにかあったのですか?」
「皇女が僕と結婚するために戻ってくる」
聞かされた内容に思わず飛び起きる。
「皇女って……エルビーナ様ですか!?」
「ああ、どうも皇帝から僕の妻になるよう命令されたようで、使者として皇太子までついてくるそうだ。つい先ほど陛下から聞いた」
フィル様の声は重く沈んでいた。
初めて会った時にエルビーナ様について愚痴っていたくらいだから、その気持ちはよくわかる。でもそれなら私はどうなるのだろう?
もしかして、もしかしなくても婚約者ではなくなる——?
「では、私は……」
「ラティが婚約者なのは変わらないから安心して。僕から婚約破棄することも婚約解消もない。不安にさせてごめんね」
「いえ……」
婚約者でなくなるかもしれないと考えた時の自分の気持ちに驚いていた。
私はちっとも嬉しくなかった。
こんな風に衝立の向こうにフィル様の息遣いを聞きなから眠ることも、腹黒全開な愚痴を聞くことも、私が本当にピンチの時に助けてくれることも、甘く柔らかい笑みを浮かべて名前を呼ばれることもなくなるのかと思った。
それはもはや私の日常であって、心の深いところまで浸透していた。
フィル様は全身で私を求めてくれるし、他の人には決して向けない眼差しを私にだけ向けてくれる。
言葉はなくても誠実な行動や態度から、いつの間にか私はフィル様を信じていた。
また裏切られるのかと、そう感じたのだ。
「ラティ、なるべく早く片付けるから、どうか僕を信じてくれる?」
「はい……」
信じます、と続けることができなかった。
もし、信じてまた裏切られたら、私は今度も立ち直れるだろうか?
でも帝国の皇女であるエルビーナ様との結婚を、小国である我が国が断れるものなのか?
結局、私はまたすべて失うの——?
不安な気持ちをかき消すように、ギュッと毛布を握りしめた。
翌朝、フィル様の執務室で健康観察を済ませ、私はソファへ腰を下ろした。足元には尻尾を丸めてフェンリルが寝転ぶ。これがいつもの定位置だ。
そんな日常も、騒々しい来客の登場で終わりになってしまった。
ノックもなしでバンッと勢いよく扉が開いたと思ったら、艶々のピンクブロンド髪を揺らし、翡翠の瞳の美女がズカズカを入ってくる。
「フィルレス様! お久しぶりですわね! このわたくしが戻ってきて差し上げましたわ!!」
「……エルビーナ皇女、お元気そうですね」
いつも以上に隙のない穏やかな笑みを浮かべ、フィル様が対応する。
あれは(今は政務中なのだから邪魔しないでほしいね。まあ、馬鹿にはわからないか)と思っている顔だ。
「もちろんですわ! さあ、これからはわたくしに尽くすことを許しますわ!」
「それは遠慮します」
「ええ、もちろ……え? 今、なんとおっしゃいましたの?」
「ですから、僕にはすでに婚約者がおりますので遠慮します」
「そんなもの、なかったことにすればよろしいでしょう?」
エルビーナ皇女はなんてことないように婚約の解消を口にする。私はそのやり取りを聞いて、なんだかわからない焦燥感に駆り立てられた。
「申し訳ありませんが、婚約は解消しません。ですので帝国へお戻りください」
「なっ! なんですって!? 誰に向かってそのような口を利いているの!?」
エルビーナ皇女は、思い通りにならないと知って激昂する。だけどフィル様の対応は毅然としたまま揺るがない。
「なんと言われてましても、僕の意見は変わりません。政務が滞りますのでお引き取りください」
「 ……っ! 絶対に、フィルレス様は絶対にわたくしの夫になるのよ!!」
そう言い残して、エルビーナ皇女は執務室を後にした。
「フィルレス様、あの女はいかがいたしますか?」
「そうだな……帝国を敵に回すのは面倒だし、皇帝の命令となるとそう簡単には帰ってくれないよね」
「なにか目的がありそうですね」
「うん、グレイとシアンに探らせよう」
私はなにも言えずに、成り行きを見守るしかできなかった。
その翌日から、エルビーナ様は朝から執務室にやってきて、私が座っていたソファにかけて一日中フィル様の後をついて歩くようになった。
ソファはエルビーナ皇女が使っているので、私はアイザック様の隣に立つことになる。アイザック様が私を気遣ってくれるのはありがたかったけど、それが余計に私を情けない気持ちにさせた。
フィル様と会話しようとするとすかさず割り込んできて、私はそのままフェイドアウトする。食事の時もフィル様にずっと話しかけて、私は無言のまま食事を終えた。