「あの、ごめんなさい。シスター様はもうすぐ来ると思うので、ここで待っててもらえますか?」
「……そう、わかったわ。ではシスター様にルノルマン公爵家の使いが来ていると伝えてもらえる?」
少年はこくりと頷き、建物の中へ戻った。それから十分ほどして、ようやくシスターが現れた。
「まあまあ、お待たせしてごめんなさいね! ラティシア様ね、さあ、どうぞお入りになってください」
「はい、よろしくお願いいたします」
今日は終日孤児院の手伝いをしろということなので、ここにいる六人の子供たちと一緒に過ごすことになる。
そして私はすぐにおかしな空気に気付いた。
シスターは穏やかな笑顔を浮かべて、子供たちにさまざまな指示をする。生きていくための術を教えるために、手伝いをさせることはよくあることだ。
でも実際にやっているのは子供たちだけで、シスターは手を出すことがない。
子供たちは、カサついた肌と唇、艶のない髪、年齢よりも小柄な身体、サイズの合わない服、最近は木枯らしが吹くのに薄いシャツ一枚、そんな様子だ。
私が頭を撫でようと手を伸ばすと、ビクッと怯え肩をすくめる。
笑わない子供、極度に静かな子供、頭に手を伸ばすと怯える子供——
「ああ! シスター! ごめんなさい、この子が火傷をしてしまったので、私が手当てをしてきますね!」
「え? いえ、それは大丈夫です。私が処置しますから」
「いえいえ! ルノルマン公爵家の名に泥を塗るわけにはいきませんので、私が! 早く手当しないと! あちらの部屋をお借りしますね!」
私は慌てたふりで男の子の手を引き、有無を言わせず隣の部屋に移動した。手を引かれてきた男の子は困惑している。
「お姉ちゃん、ボクは火傷なんてしてないよ」
「急にごめんね。私は治癒士だから違うところを怪我してるって気が付いたの。内緒で治してあげたくて」
「でも……シスター様に怒られる」
「火傷と一緒に治してくれたと言えば大丈夫よ。私からも話すから。悪いところは全部治したいから、診せてくれる?」
「……わかった」
そう言って男の子がシャツを脱ぐと、そこには隠れた部分にだけ打撲痕や裂傷痕がびっしりとあった。
「これはシスター様が?」
「うん、僕たちは悪い子だからお仕置きだって。僕たちがちゃんとすればご飯ももらえるし、痛くされないから、僕たちが悪いんだ」
「君たちが悪いことなんてひとつもないわ。みんな痛いことされるの?」
「なにか失敗したり、うまくできなかったりしたら、みんなお仕置きされる」
「わかったわ。今すぐ治してあげたいけど、先に済ませないといけない用事があるから待てる?」
「うん、待てる」
私はゆっくりと立ち上がり、細く長く息を吐いた。
治癒士をしてきて、さまざまな患者を見てきた。貴族のお嬢様なら目にしないような患者もいた。その中には親から虐げられている子供もいた。
私が気付かないと思っていたのだ。公爵家から来る使いは身分もしっかりしているから、こんな状況の子供がどんな風になるか知らないとでも思ったのだろう。だけど、こんなの見逃せないし許せない。
「フェンリル」
低く短く、新しい友人の名を呼ぶ。私の声に呼応して、影の中からすぐに私の背丈ほどのフェンリルが現れた。
《ラティシア、呼んだか?》
「ええ、害虫駆除なんだけど、頼めるかしら?」
《虫は好きじゃないけど、仕方ねえな》
「シスターを捕捉して。吐かせたいことがあるの」
それからほんの数分でケリがついた。
フェンリルに咥えられたシスターが、泣き叫びながら補助金の着服と子供たちへの虐待を認めたので、騎士へ引き渡した。今回は控えめに暴れたので誰も怪我はしていない。
子供たちの状況確認が終わり、すぐに治癒魔法をかけてルノルマン公爵様へ後のことを託した。
その後シスターは投獄され、子供たちはルノルマン公爵様の伝手でちゃんとした家に養子に出されることになった。
今回のレポートは、フェンリルを暴れさせて申し訳ないと書いておいた。
「マクシス様、本当にそんな大金が入ってくるのですか?」
カールセンの領地にある屋敷で、私はこれから入ってくる大金を期待してワクワクとした気持ちで浮かれていた。
今日は天気もよく、すこぶる気分がいいのでジャニスに付き合い庭に散歩に出ている。
「間違いない。確実な投資話なんだ。ちゃんと裏も取ったし、カールセン家は当面安泰だ」
「本当!? 嬉しい! そうしたら、ずっと一緒にいられますか?」
愛人のジャニスはビオレッタと違って、私の心をくすぐることを言う。投資で得た金が入れば、それを元手にさらに投資をして資産を増やしていける。今後のことも考えて、王都に移っておいた方がいいかもしれない。
「ああ、もちろんだ。その時は離れを建てるから王都へ移ろう。王都の方が仕事がしやすいし、こちらはお前の父親に管理させればいい」
「それなら新しいドレスを仕立てないと! 王都へ行くのなら最新のドレスを着たいわ」
「なにを着てもジャニスなら似合うさ。好きなドレスを買うといい」
ところがそんな穏やかな時間に「マクシス様!」と呼ぶ声が水を差した。
やってきたのはジャニスの父だ。バタバタとこちらに駆けてきて、息を切らしながら一通の手紙を差し出す。
「こちらの手紙がっ、今届きまして……! 刻印が、こ、国王陛下のものでっ……!」
「国王陛下から? いったいなんだというのだ?」
受け取った手紙をすぐに開封してみると、そこにはある茶会への参加命令だった。その茶会では先日発表したフィルレス王太子の婚約者、ラティシアが妃に相応しいか判定すると書かれている。判定に関する調査のためカールセン伯爵夫妻での参加を求められていた。
お茶会で調査というのに違和感を感じるが、王太子妃の判定とは特殊なものなのだろうと納得した。
「これは……ラティシアの素性調査のようなものか? カールセンは実家になるから私たちに声がかかったのだな。そうか、これは参加して本格的にラティシアを排除できるかもしれん」
ここで私たちがうまく証言して、フィルレス殿下の婚約者に相応しくないとなれば、行き場をなくすだろう。そうしたら、私の愛人にしてやってもいいな。そうすれば、あの極上の女が私の手に入る——
ごくりと唾を飲み込み、私は王都へ向かって馬を走らせた。
お茶会の予定日の三日前に、王都のタウンハウスへ到着した。
研究者に投資してから、そろそろ二カ月が経とうとしている。配当金を受け取りたいのもあった。もうカールセン伯爵家の財政は切羽詰まったところまできている。
タウンハウスの執務室で研究者へ手紙を書いていると、遠慮のかけらもないビオレッタがズカズカと入ってきた。
「ちょっといつまで領地に篭ってるのよ!! 使者を出したのだから、早く戻ってくるか返事くらい寄越してよ!」
「うるさいな、領地でだって仕事があるんだ。すぐと言われても対応できないこともあるんだ!!」
そういえば、何度か使者まで寄越してきていたな。どうせ贅沢する金の無心だろうと放っておいたが。お茶会への参加については、事前に手紙を送っていたので話は通っているはずだ。
「それより三日後にラティシアが王太子妃に相応しいか、判定するための調査が行われる。準備はできているか?」
「ええ、もちろんよ。本当に面倒くさいけれど、王命じゃ断れないじゃない」
「いいか、そこでラティシアが不利になるよう証言するんだ。そうすればラティシアは婚約破棄され、ここに戻ってくるしかなくなるだろう」
「……そうね。その後はカールセン家のために尽くさせれば……」
私の言いたいことに察しがついたのか、ビオレッタは急に機嫌がよくなり自室へと戻っていった。こういう時だけはビオレッタの強欲さがうまく働く。金も名誉も女も、私はすべてを手に入れるのだ。
三日後、私はお茶会の会場へ向かう馬車の中で、湧き上がる不安を抑えていた。
王都に住んでいるはずの研究者と、連絡が取れなくなっていたのだ。手紙の返事が一向にこないので、昨日は研究施設まで行ってみたがもぬけの殻だった。
もしかしたら、研究がうまくいって施設を移したのかもしれない。この茶会が終わったら本格的に調べなければと思っていた。
お茶会はルノルマン公爵家の庭園で行われる。王太子妃の判定は三大公爵が担当していて、今はルノルマン公爵が審判らしい。
馬車が屋敷の前で静かに止まり、ビオレッタをエスコートして会場へと足を進める。お茶会に参加している間は、ビオレッタを愛する夫を演じなければならない。
通された庭園はそれはもう見事に花が咲き乱れ、会場を華やかに彩っている。用意されたテーブルにはすでに招待客が着いていた。
夫婦での参加者は私を入れて三組で後はご婦人ばかりだが、いずれも発言力のある高位貴族ばかりだ。アリステル公爵夫妻とコートデール公爵夫人の姿も見える。
だけど、参加者のひとりに目が釘づけになった。
ラティシアだ。
庭園の花たちが霞むほど、美しく輝くプラチナの髪に、心の奥まで見透かされそうな紫の瞳。澄んだ空色のドレスには細やかな金糸の刺繍が施され、落ち着いた中にも高貴さがにじみ出ていた。
婚約発表で見た時よりも、確実に美しくなっている。こんなにも私の心をかき乱す女を、自分のものにしたい。
「なぜ、お前がここにいるのだ? 心の卑しい者が来る場所ではないぞ」
「……お久しぶりでございます、カールセン伯爵夫妻」
ラティシアはそう言って、完璧なカーテシーを披露する。指先まで優雅で美しい所作に思わず見惚れてしまった。
「お義姉様、お久しぶりね。でも、どうしてここにいらっしゃるの? そのフィルレス殿下の婚約者というのも、わたし信じられなくて……」
ビオレッタはラティシアに怯えるふりをしながらも、攻撃している。なにも知らない人間が見たら、ビオレッタが攻撃されているように見えるだろう。
「今日はお前がフィルレス殿下の婚約者に相応しいか、調査のためにやってきたのだ。悪運もここまでだと思え」
「そうよ、お義姉様の性格では難しいのではないかしら? 無理はなさらず辞退した方がいいと思うの」
私とビオレッタでラティシアは不適格だと糾弾するも、なんの反応もない。周りの招待客もなにも言わずに見守ってくれていた。
「まったく、国を傾ける前に戻ってこい。勘当処分は解くから領地のために尽くすんだ。それと、男を誘う素振りはするなよ。最悪、私の妾にしてやるからありがたく思え」
「どうしてもお義姉様が難しいのでしたら、わたしが代わりますわ。その方がフィルレス殿下も心安らぐと思うの」
「お前では王太子妃は務まらん。フィルレス殿下も見る目のないお方だ。なぜこんな性悪女を選んだのか——」
そこでうっすらと微笑みを浮かべていたラティシアが、口を開いた。
「いい加減にしてくれませんか?」
「な、なに!?」
「はあ!?」
今までこんな口答えなどしたことがなかったので、私もビオレッタも驚いた。昔から私の話もビオレッタのわがままも、すべて聞いてきたというのに。まるでゴミでも見るように蔑んだラティシアの視線が、私たちに向けられている。
「私は今、カールセン伯爵の婚約者でもなんでもありません。フィルレス殿下の婚約者なので、他の異性に色目を使うということもありません。逆にお聞きしますが、私がカールセン伯爵の目にそんな風に映っていたのですか?」
「そんなわけっ……!」
「しかも妾にする? 勘弁してほしいです。自分を裏切り欺いた相手を受け入れられると? 馬鹿なんですか?」
「馬鹿だとぉ!?」