私が風邪を引くと予定がキャンセルになるだけで、見舞いにきたことはなかった。そういえば、もらった誕生日プレゼントも花束もドレスも、全部彼の好みだった。
どれだけ私の目が節穴だったのか。
でもそのおかげで治癒魔法に磨きがかかったし、治療に関する知識も深まった。それにフィル様の真っ直ぐな想いに気付くことができた。
もう少し、フィル様を信じてみてもいいかもしれないと思い始めていた。
城に戻ってくるとすでに知らせが届いていたのか、拍手喝采で出迎えられた。
フィル様は私をエスコートしてくれて、バハムートは手のひらサイズで私の肩に乗っている。オリバー様を先頭に、コートデール公爵様の執務室へ到着した。
「フィルレス殿下、ラティシア様、此度の魔物討伐見事でございました。オリバーもよくやった」
眉間の深いシワはそのままだけど、最初よりも穏やかな声音でコートデール公爵様が口を開いた。
「いいえ、私はあまりお役に立っていません。周りの皆様に助けられただけです」
「助けを得られるのもまたラティシア様のお力でしょう。人徳というのは容易く手に入るものではない」
「人徳など私にはわかりませんが、ひとつ気になることがあります」
そう言われては返す言葉もない。話の内容を変えたくて、ここに来た時から気になっていたことを解消することにした。
「気になることとは?」
「先に私がコートデール公爵様の御身に触れる許可をいただけますか?」
「それはかまわんが、いったいなにを……?」
私はゆっくりとコートデール公爵に近づき治癒魔法を使った。淡くて白い光がコートデール公爵様を包み込んで、思った通り治癒の手応えを感じる。コートデール公爵様はみるみる穏やかな顔になっていき、眉間の深いシワも消え去った。
「これは……! 痛みがない、古傷が治っている。なぜわかったのだ?」
「お体を動かすたびに動きが止まっていて、おつらくて動けないのではと思ったのです。深い眉間のシワも痛みからくるものかと。コートデール公爵のご活躍を知らない者はおりませんから、もしや過去に怪我をして治りきっていないのではないかと思ったのです」
最初にコートデール公爵様を見て感じたことだった。数年前に元騎士団長で退団したばかりなら、まだまだ身体は動くはずなのに、フィル様が部屋に入っても椅子から立ち上がろうともしていなかった。
忠誠心が強い騎士であるのに違和感を感じて、身体を動かそうとするたびに険しい表情になるのを見て確信に変わった。
「そうか……他の治癒士では治せなかったのに、こんなに穏やかな気分になったのは六年ぶりだ。しかも森の神獣も手懐けた上に神竜までも操っているとは。ラティシア様こそ未来の王妃に相応しい」
「——はい?」
今なにかを通り越して、王妃だとかいうパワーワードが出てこなかった!?
待って、役に立ってないって私は言ったわよね!?
心の叫びも虚しく、完全に健康体になったコートデール公爵様が颯爽と私の前に膝をつく。そして左手を胸に当て頭を下げる。これは……あれだ、よく騎士様が王族とかの前で敬意を示すやつだ。
「ラティシア・カールセン様、文句なしの合格です。貴女様以外に我が国の王太子妃に相応しいお方はおりません。コートデールの名にかけて、ここに忠誠を誓います」
またしても、失敗……!!
しかも忠誠まで誓われてしまったじゃないの!! どうすればいいの!? ねえ、これどうしたらいいの!?
「ラティ、順調だね」
「ううっ、また……!!」
耳元で嬉しそうに囁くフィル様を恨めしげに睨んでやった。少しは信用出るかもしれないが、やはり腹黒王太子の婚約者など一刻も早く辞めたい。
「おめでとうございます、ラティシア様! こんなにもフィルレス殿下の寵愛を受けておられるのだから、この国も安泰ですね」
そうして、オリバー様が私にトドメを刺してコートデール公爵家の判定試験は終わったのだった。
今回も僕の計算通りに、ラティはコートデール公爵家からも合格判定を受けた。
事前に判定試験の知らせを送る時に、魔物の被害に困窮していたコートデール公爵に口添えをした。
ラティは以前領地の魔物討伐で後方支援をしていたことがあり、治癒室で六年間勤務していた。僕の専属治癒士だが非常に優秀だと。
完璧に治癒できる能力があれば、いかに戦闘が楽になるか、どれほど勝算が上がるか彼ならすぐに計算できるだろう。最後に、婚約者のためならどんな協力も惜しまないと付け加えた。
その絶望に染まる表情さえ愛おしい、と言ったらラティは間違いなく怒るだろう。そう思いながら元気づけるための提案をする。
「ラティ。今日は疲れているだろうから、帰るのは明日にしない?」
「ええ、そうですね。さすがに一日中気を張っていたので、そうしてもらえると嬉しいです」
「少し休んで身体が大丈夫なら、後で散歩に行かない?」
「散歩ですか?」
「うん、実はコートデール公爵領ならではの絶景ポイントがあるんだ。バハムートならすぐだから」
「それは行ってみたいです!」
「ふふ、ではまた後で」
少女のように瞳をキラキラさせるラティが、たまらなくかわいい。このまま妻にして、すべてを僕のものにしたい。
でも今はまだ、ラティの心が手に入っていない。それではダメだ。この笑顔のまま僕のものにしたいのだから。
「さて、ラティがひと休みしているうちに、ほかの雑務を片付けるか」
僕はバハムートのもとへ向かった。
僕に用意してもらった客室のバルコニーへ出ると、手すりの上でバハムートが地平線に沈む太陽を見ていた。そっと隣に立つと、視線はそのままでバハムートが声をかけてくる。
《主人殿、申し訳ない。ラティシアを守りきれなかった》
珍しく落ち込んだ様子のバハムートが、ドラゴンの特徴であるなで肩をさらに落とした。僕が到着した時はちょうどバハムートが空で翼を撃ち抜かれたタイミングだった。それまでのやり取りはわからないけれど、相手も悪かったし善戦したのではないかと思う。
「そうだな、まあ、いいよ。なにがあっても最終的には僕がラティを守るから。それより、この後ラティを空中散歩に連れていきたいから、頼めるかな?」
《当然だ! 我に任せろ!》
「それと、これは頑張ったご褒美だよ」
そう言って、イライザに用意してもらった魔石を、目の前に転がした。途端にバハムートの青い瞳が輝き出す。
《なんと! 失敗した我にこのような餌をくれるのか!?》
「今回はね。でも、わかっていると思うけど、もし本当にラティになにかあったら君ごと世界を吹き飛ばすからね?」
《う、うむ、承知した》
バハムートも頑張ったようだし、今回はこれでいいだろう。空中散歩の目的地を伝え、バハムートが魔石をボリボリ食べるのを眺めていた。しばらくするとバルコニーの下に庭園から犬の鳴き声と、なぜかラティの声が聞こえてきた。
視線を落とすと人の丈ほどある大きな犬が、ラティにじゃれついている。ラティはすでに風呂を済ませたのか、艶のある髪をなびかせて、新しいワンピースに着替えていた。犬はラティを乗せ、キャッキャウフフと騒いでいる。
……犬だろうが竜だろうが人間だろうが、雄が好意を持ってラティに近づくのは非常に不愉快だ。
「あれは……雄だね。バハムート、下に降りるよ」
慌てたバハムートは残りの魔石をかっ込み、僕を乗せてラティの背後へとゆっくりと降り立った。バハムートの翼によってふわりと風が吹き抜け、犬が動きを止めた。
「ラティ、ずいぶん楽しそうだね?」
「うわっ! フィル様!?」
《……誰だ、お前》
ラティは僕が現れたことに驚いて、犬から飛び降りた。
敵意をむき出しにして僕を睨みつける銀色の犬が、人間の言葉を話した。なるほど、銀色の毛並みと瞳——この犬は幻獣だ。それなら僕のやる事はひとつ。
「で、そこの犬。君はなんなの? 雄のくせにラティのそばにいるなら、僕と主従契約は必須だよ」
幻獣が威嚇してきたけれどサラッと正面から受け止めて、さらに僕の魔力を幻獣に向けて解放する。僕の下僕にならないなら、処分すると殺気を込めた。
犬はビクッと身体を震わせ、さっきまで立ち上がっていた尻尾は股の間に挟まっている。
《わ、わかった! おおお、お前には勝てねえから、主従契約をむむ、結んでやる!!》
「うん、いい子だ」
僕は殺気を消して穏やかに微笑み、名を聞いて主従契約を結ぶ。そうして犬は幻獣から神獣フェンリルへと進化を遂げた。主従契約を結んだ証の金色の光が収まると、フィンリルの瞳は僕と同じ青い瞳になっていた。
その流れを見ていたラティが、納得いかないというふうに声を上げる。
「なんでそうなるの!?」
「それにしても、ラティはすごいね。バハムートに続いてフェンリルも従えるなんて」
「え? いや、怪我を治したら懐かれたみたいです……」
ああ、そうか。ラティのあの温かくて心地いい魔法を経験したら離れがたくなるのは、僕だけではなかったんだ。そうなると、これから治癒魔法をむやみやたらに使われると、少々面倒だな。
「ふむ、確かに君の治癒魔法は特別効果が高いからね。では、こうしようか」
誰もがうっとりする微笑みを浮かべて、ラティをまっすぐに見つめた。
「僕以外の人間にこの治癒魔法を使ってはダメだ」
「えっ、どうしてですか?」
どうしてもなにも、僕がラティを独り占めしたいからに決まっている。だけど、そんな言い方をしても、今のラティは聞いてくれないだろう。
「変に懐かれたら困るだろう?」
「うっ、確かに……」
「だから、これから癒すのは僕だけだ。いいね?」
これで話を聞いてくれると思っていた。それなのに返ってきた言葉は。
「いいえ、目の前に怪我人や病人がいたらは約束できません。これでも治癒士なので」
決して揺らがない意志を宿す瞳が、僕を射貫く。夜空に煌々と輝く月のような誇り高いラティに、さらに心を奪われた。最初に会ってから日を追うごとに、底なし沼に落ちるようにラティに溺れていく。
もうどうしようもないほど、僕はラティを愛していると自覚した。
「……そんなラティだから手放したくないんだ」
「っ! いえいえいえ、私では王太子妃など不相応ですから」
そう言って視線を逸らすラティを見て、今までと反応が違うと気が付く。
ほんの少し頬が桃色に染まってる? でも視線は合わない。助けを求めるようにチラチラとバハムートやフェンリルに視線を向けている。
「ねえ、まさか僕から逃げられると思ってる?」
「逃げるなんて滅相もない! ただ婚約を解消したいだけです!!」
「ふーん、そう。まあ、今はそれでいいよ。では約束通り、空中散歩に行こうか」
「は、はい……!」
元の大きさになったバハムートの背中に乗り、あっという間に大空へ飛び上がった。
太陽はすでに地平線に沈んで、東の空には濃紺のベルベッドが敷き詰められたようになっている。うっすらと西の空がピンク色に染まっていて、そのグラデーションは心が震えるほど美しい。
僕の前に座るラティがこの景色に、感動の声を上げた。
「うわあ! この時間の空中散歩は素敵ですね!」
「そうだね、この景色も美しいけれど、もっといい所があるんだ。バハムート、さっき話した場所へ」
《承知した》