チョコレートを渡すのを忘れていた。
「あの、坂口さん。これこの間助けていただいたお礼です。」
「何、そんなのいいのに。」
「いえ、先日根岸さんにもお渡ししましたので。」
「それで根岸のところに寄ってくれたんだ。ありがとう、いただくよ。季節外れのバレンタインかと思った。それだともっと嬉しかったけどね。」
彼はさりげなく楽しそうにそんなことを言った。
・・・いつも坂口さんの言葉は私の頬を赤く染める・・・
「ご馳走様でした。みんな美味しかったです。」
「またいらしてくださいね。」
料理を作られているオーナーシェフと奥様が見送ってくれた。
「はい。また彼女ときますね。」
彼はそう言って店を後にした。また嬉しい言葉を言ってくれた。
「坂口さん、御馳走になってしまい申し訳ないです。とても美味しかったです。」
「ほんと美味しかったね。それになにより楽しかった。また来よう。」
「はい。嬉しい・・・」
「少し歩こうか。」
「気持ちいいです。木の香りがする・・・」
「そうだね。東京でもこういうところがまだある。さっき少し雨が降ったからさらに木の香りがするのかもね。」
「好きです。私こういう香り・・・」
「ねえ、楓さん。まだ出会ってから2回目だけど、君のこともっと知りたい。付き合ってくれませんか。」
「私・・・お付き合いとかしたことなくて・・・私でよろしければ・・・」
「よかった。楓さん、それとこれからは正志って呼んで。」
正志さんはやさしい声でおねだりをした。
「手を繋いでもいい? 」
「はい・・・」
正志さんはすっと私の手を取った。さっき駅で手を繋いだのとはちょっと違った。
今度は正志さんが私の手をギュっと握ったのだ。大きくて暖かい手だった。
「この先に行くとタクシー拾えるから君の家まで送るよ。」
「ありがとうございます。」
・・・初めて彼氏ができた・・・
・・・初めて手を握られた・・・
・・・初めて・・・
心臓の音が正志さんに聞こえるのではないかと思うほど高鳴った。
私が今住んでいるアパートのことを正志さんに詳しく話していなかったのでタクシーの中で説明した。
「父の最後の仕事場は長野で、そこに家を持っています。父はそこで長く療養をしていましが、亡くなる3ヶ月前に入院しました。母はその直後に倒れて初めは長野の病院に入院したのですが、ちょっと特殊な心臓の病のようで、適切な治療をするには調布から近いところにある心臓専門の病院が良いと言われ、母を転院させたのです。その為に私はこの調布にアパートを借りました。父はその時すでに寝たきりの状態でした。私はこの3ヶ月間は長野と調布の病院を行ったり来たりしていたのです。」
「それは大変だったね。」
「長野の家をどうするか今悩んでいます。処分しないと相続税払えないかもしれないので、そのあたりを母と検討するつもりです。」
「もしよかったら、弟のいる会計事務所紹介するよ。弟はまだ若造だからその事務所の先輩とか・・・」
「ありがとうございます。助かります。」
「連絡してみるよ。話聞くだけでもいいからね。」
アパートの前にタクシーは止まった。
「またね、楓さん。」
「はい。今日はありがとうございました。楽しかったです。おやすみなさい。」
挨拶をしてタクシーを降りようと腰を浮かそうとしたとき正志さんに手を引かれた。
「楓さん・・・」
正志さんは私の頬にキスをした。
「また連絡する。おやすみ。」
真っ赤になった顔を見られないように深くお辞儀をして正志さんを見送った。
『今まで生きてきた中で一番幸せです』と金メダルを取って言った競泳選手がいたけど、まさにその心境だった。
その夜はあまりの嬉しさでなかなか寝付けなかった。