本当に、いつも気が急いて空回りする私とは違いすぎる。余裕がなくて、この人みたいに、うまく相手を気遣えない……。
 そのことにすら、今日気づいたんだ。

 いくつかの声が頭の中で反響しながら騒ぎはじめた。
「どこ目指してるの?」「そんなに突き詰めてどうするの?」「頑張るねえ」「皆があんたと同じようにはできない」「人のこと、ちゃんと見てよ」「なんでそんな言い方しかできないの」

 なんでこんなにショックなんだろう。こんなの、全然。ぜんぜん、大したことじゃないのに、どうして。私、間違ってたの?
 息苦しい。
 感情が真っ黒に渦巻いて、心ごと潰してしまいたくなる。
 

 いきなりぶわっと、強すぎる香ばしさに覆われた。ものすごく濃い香り。

 不躾に凝視していた私を見かねたのか、お兄さんが手元の白いカップをこちらに傾けてくれる。
「このエスプレッソに、ミルクを注いでいきますね」

 大きな口のカップにたゆたう濃い液体は、ずいぶんと少ない。でも、とても飲めないほど苦そうなのは、コーヒー豆を凝縮したみたいな香りのせいかな。

 お兄さんは一旦カップを置くと、銀のピッチャーに牛乳を注いだ。よかった、これだけたっぷり牛乳が入れば、たぶん飲める。安心した瞬間、

 シュコ――――――ッ

と大きな鋭い音が耳を突いて、真っ黒なコーヒー液に挑む不安もかき消えた。手元は機械に隠れて見えないけど、お兄さんの顔つきは真剣で、音が止むと、ピッチャーをごんごん打ち付けたり、回したりしている。何もかもが不思議な光景だった。

 いよいよ牛乳とエスプレッソが出会う場面になると、お兄さんはカップを持つ左手を腰の位置まで下げた。おかげでその様子がよく見える。

 エスプレッソのかたくなな黒に融けこむように、高い薫りに混ざり合うように、円を描いてミルクを乗せていく。深い黒に、どんどん白が足されて柔らかな茶になっていく。すっとお兄さんの両手が近づくと、今度は水面に真っ白な泡が浮かんできて、ぴっと泡を切った。

 手つきには迷いがない。ほんの一瞬の、一連のできごとに、くぎ付けになって驚くしかなかった。目の前に現れたのは、最初の姿からは想像もできない一杯。

「お待たせいたしました、カフェ・マッキアートです」
 立ち上る香りに、さっき感じたきつさはない。かわいらしく、小さな白いハートが真ん中に染みを作っていた。

 ひとくち、〈カフェ・マッキアート〉に触れると、ふわふわしたミルクの泡に唇が包まれる。砂糖は入っていないのに、なんとなく甘い。そこから、苦いような、まろいような、熱いミルクコーヒーが注がれる。

 ……おいしい。

 はじめて飲むミルク入りのコーヒーは、舌に重たくて、苦くて、でもふんわり癒やされる心地がした。一口の余韻を舌で転がす。どこか不安そうな表情でお兄さんが見ているけど、ほうっと一息つくと、安心したように微笑んだ。

 鼻の奧にも、香りが充満して心地良い。椅子はふかふかで気持ちいいし、ジャズは耳に馴染むし、湯気で顔まで温かいし、おなかからぽかぽかしてくる。
 あと、お兄さんの笑顔はすてきだし。

 なんだろう、これ……。あったかくて、甘くて、ふわっとゆるむ。凝り固まってコチコチの脳みそとか、肩とか、張った背筋とか。たぶん、私の「いつも頑張ってるパーツ」が、するするっと緩んでいく。気まで緩んで、これもいつもならしないけど、肘をついて両手でカップを持った。

 そうなんだね。わたし、頑張ってたんだ。

 コーヒーは、眠気覚ましの朝のお供でしかなかった。ゆっくり楽しむなんて、ぜんぜん考えていなかった。コーヒーを大事に飲むのが楽しいなんて知らなかった。
 私に必要だったのは、ただ真っ直ぐ頑張ることじゃなくて、少しのミルクを足してあげることだってことも。