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 重いドアの内側の世界では、品のいいジャズが、微かな音量で店の空気を包んでいた。いくつか年季の入ったテーブルが並び、それぞれに古そうだけど立派なソファーが付けられていて、フラスコちっくな器具が整列するカウンターにも、脚の長い椅子が置かれている。
 私には、何もかも馴染みがなくて、案内されたカウンター席のふわふわした座面に腰を下ろしても、落ち着かないままだった。

 私を店内に迎え入れたあと、ドアを丁寧に閉めてカウンターに入ったお兄さんをちらちら見やって観察する。細いカウンターを挟んだ向こうに、ひとりで佇む彼の白い肌は、橙の照明(あかり)を受けて柔らかなつやを返した。


 数分経ち、お兄さんは他のお客さんの注文を取ったりして動いているけど、私は思わぬ難所に当たって身動きできない。

 どうしよう。

 ご注文お決まりになりましたらお声がけください、と言われてメニューを受け取ったけど、そこに並ぶ(おそらく)コーヒーの名称を何一つ解読できない。なんせ、コーヒーという単語が入っていて、正体に見当がつくのは『自家製コーヒーゼリー』だけなのだ。ここは素直に訊いてみるべき?でも何も知らないなんて恥ずかしい気もする……。しゃんと伸ばしていた背筋が曲っていく。

 食には疎くて、コーヒーと聞けば朝に飲むブラック、しかもインスタントのイメージしかなかった。奧の席から常連らしきおじさんが言いつける「ホット」の意味も、わからない。ドッピオって、何?カフェラテって、カフェオレのことかな……モカブレンドとカフェ・モカは違うの?えっ、ホワイト・モカ……?白いコーヒーがあるの?

「いっぱいあると、逆に悩みますよね」

 上から降った声に顔を上げると、お兄さんはフラスコにお湯を注ぎながら私を見ていた。

「えっと……」質問するなら今だ。
「ご迷惑でなければ、僕に味のお好みを教えてくださいませんか」
 えっ、と弱く声が出る。同時にフラスコが赤く光った。

「うちは品数が多いですから。お好みが分かれば、きっとお客様にぴったりの一杯をお出しできると思いますよ」
 これは……助かったかもしれない。
「じゃあ……お願いします」
 はい。とお兄さんは白い歯を見せてくれる。

「普段、コーヒーは飲まれますか?」「インスタントなら……」「お砂糖とかミルクはどうされてます?」「いつも入れません。何をどのくらい入れたら美味しいのか分からなくて」「なるほど。苦さや酸っぱさとか、苦手な味はありますか?」「極端に甘いのとか苦いのとかは苦手ですかね……。あとは、変わった味のものとか、あんまり」「では、何かご希望は?ナッツの香りのがいい!とか可愛いラテアートにしといて!とか」

 少しだけくだけたお兄さんの口調と笑顔に、私も気がほぐれてきたのか、普段ならしないのに、お兄さんを待たせてしばし考える。

 なんだか今日は、らしくないことばかりしてる……。

 今は、気分的にがつんと苦いものは飲みたくないな。でもコーヒーならしっかり苦いほうが美味しいのかな?あ、せっかくだからミルク入りを飲んでみたいかも。うん。

「ちゃんと苦くて、でもミルクが入ったのがいいです」
「かしこまりました」

 少々お待ちください、と笑ったお兄さんの手元では、いつのまにかフラスコにガラスの漏斗(ロート)が乗っていて、中の粉をお兄さんが竹ベラでかき混ぜていた。フラスコが赤く照って、コポコポとお湯がせり上がっていくのを眺める。他の機械も触って、お兄さんは手際よく動く。

 それなのに、仕草の一つ一つが繊細で、ゆったりして、それがきれいで、ずっと見ていたい。