対岸で絵を描くその女を見掛けるようになったのは、六月に入って間も無くだった。
家の前にある川は、水草が生い茂り、水鳥たちが憩う長閑な川ではあるが、観光スポットでもなければ、特に美しいわけでもない。
鍔の広い帽子に隠れて顔は分からなかったが、ジーンズにスニーカーを履いたその格好からして、私と同年輩の三十代前半に見受けられた。
「お父さん、また来てるわよ」
煙草を喫みながら新聞を捲っている父に教えてやった。
「……ん?」
「絵を描く女」
「……ん」
興味がないのか、上の空だった。
「こんなちっぽけな川なんか描いて、何が楽しいんだろ。じゃ、行って来るね」
「……ああ」
毎度の事ながら、気の抜けた返事だった。
去年定年退職した父は専業主夫と化し、婚期を逃して何年にもなるキャリアウーマンの私の世話をしてくれていた。
三年前に他界した母の味付けのようにはいかないものの、それでも料理本を片手に鼻歌交じりで台所に立つエプロン姿の父は、いかにも楽しそうだ。
テレビを観ながら、自分で作った肴をつまみに、晩酌の燗をチビチビやっているそんな父との暮らしは、平凡ではあるが幸せだった。
その日は休日だった。
「父さん、またまた来てるわよ、例の女」
「別にいいじゃないか、絵を描くのが好きなんだろ」
遅い朝食を終えて新聞を広げていた父が、眼鏡の上から七面倒に瞥た。
「別にいいけどさ。……どんな絵を描くんだろうね」
「今度、俺が見てきてやるよ」
「父さんの見る目は当てになんないけどね」
「馬鹿にしやがって。これでも、若い時分はゴッホやモネに傾倒して、美術館巡りをしたもんだ」
「へえ、そんな頃があったんだ? 人は見掛けによらないもんだね?」
「ったく。ちっとは親を敬え」
「じゃ、恭しく敬うわ」
「下手な駄洒落を言いやがって」
「へへへ。昼は素麺でいい?」
「もう昼飯の話か? 今、朝飯食ったばかりだろ」
「色気より食い気」
「早く嫁に行け」
「フン。私が嫁に行ったら寂しがるくせに」
「……行かず後家と後ろ指を指されるよりはマシだ」
「……だって、これって言う男が居ないんだもん」
「結婚は妥協も必要だ」
「じゃ、父さんは妥協して母さんと結婚したの?」
「馬鹿。……例えばの話だ」
その時の父の表情に、翳りのようなものが見えたのは、単なる気のせいだろうか……。
その翌日だった。帰宅すると、
「……石を蹴ってるんだよ」
突然、父が妙な事を呟いた。
「石? ……女の人が?」
「ああ。何かが落ちる水音がして窓から覗いたら、柵の下の隙間からその辺の小石を蹴ってるんだよ」
「なんのために?」
「さあな。……分からん」
それから間も無くして、女の姿が消えた。と同時に、“ちょっと出掛けてくる。二、三日帰らん”の書き置きを残して父の姿も消えた。
父からの手紙が届いたのは、それから数日後だった。
温子 父さんを許してくれ 暫く家には帰らん
何から話そうか まず 絵を描いていた女は知り合いだった
声をかけて振り向いた顔を見て驚いた 少し痩せていたが 紛れもなく恭子だった 女の名を恭子という 三十年も前に付き合っていた女だ
恭子は末期の乳がんらしい いつ逝くか分からぬ身の上になり 忘れられなかった俺のそばに居たそうだ
絵を描いていれば不審に思われない そう考えての事だったそうだ
川に石を蹴っていたのは 俺に気付いてほしかったからに違いない
病魔に蝕まれた不安の中で俺を頼ってくれたと思うと不憫でならない
勝手だが 恭子が逝くまでそばに居てやりたい すまん
父より
私は暫く茫然自失としていた。
恭子という女の目的は、絵を描く事ではなく、父の傍に居る事だった。
末期がん……。濃霧に被われた孤独の闇に、独り佇む不安と淋しさ。
忘れられぬ男に最期を看取って欲しかったのだろう……。
もう母は居ないのだから、もし恭子という女が末期のがんでなければ、父と結婚できたかもしれない。
淋しい人生を送ってきたに違いない顔も知らない恭子という女の事を思うと、知らず知らずに涙が溢れ出た。
ここに父が帰る時は、同時に恭子が逝った事を教える。
私は心のどこかで、父の帰りが遅くなる事を願っていた。
ふと、窓の外に目をやると、鍔の広い帽子を被った女の姿が見えて、ギクッとした。
不意に上げたその顔は少し窶れていたが、楚々として、幸せに満ちた穏やかな表情だった。
完