舞は呆然として眼前にあるものを見つめていた。

 信じられないことが起こってしまった。

 そう、これはあってはならないこと。こんなことが許されるはずがない。何かの間違いに決まっている。

 信じられない…信じたくない。

 私と中葉君が、離れ離れになってしまったなんて!

 ショックのあまり言葉が出ない。呆然と掲示板に貼ってあるクラス名簿を見つめるだけだ。

 そんな舞の隣では響歌が頭を押さえていた。響歌にとっても、このクラス替えは最悪な形になってしまった。

 何かの陰謀が働いている。2人にはそうとしか思えない。しばらくの間、掲示板の前から動くことができなかった。

 だが、いつまでもここで呆けているわけにはいかない。早く自分のクラスに行かないと始業ベルが鳴ってしまう。

「取り敢えず、教室に行こう」

 先に声を出したのは響歌の方だった。

 舞はその言葉に力無く頷く。

 そうして重い足取りでそれぞれのクラスに向かったのだった。


 舞は自分の教室である4組に入ると、自分の席に力無く座った。

「はぁ」

 座った途端、溜息が出る。

「ムッチー、やっぱり落ち込んでいるね」

 振り向いた舞の目に、歩のほがらかな笑顔が飛び込んできた。

「歩ちゃ~ん」

 舞の泣きそうな姿に、歩は慌てた。

「えっ、えぇっ、泣きそうになるまで落ち込んでいたの?」

 舞はまだ泣いていなかったが、歩が突くと泣き出しそうなまでになっている。

「元気出して。ほら、中葉君とは離れちゃったけど、私とは一緒だよ。担任だってムッチーが嫌がっていた小森先生とは違うし、ムッチーが以前好きだった川崎君とも一緒じゃない。私から見れば、ムッチーはまだ恵まれている方だよ。…響ちゃんに比べれば」

 歩は元気よく舞を励ましたが、最後は声を落とした。そうするだけでなく、教室内を見渡す。

 そんな歩につられて、舞もそうしてみた。

「…あ」

 歩の言いたいことがすぐにわかってしまった。

 そう、この教室に黒崎と橋本の姿があったのだ。

 響歌の姿はここには無い。

 舞と響歌は別々のクラスになったのだから!

「ね、ムッチーの方がいい立場でしょ?」

 確かにそうだ。舞は中葉と離れただけだが、響歌は想い人の2人から離されてしまった。しかも担任はビーバーだ。また1年間、下手すると2年間、あの匂いと共に生活しなくてはいけなくなってしまった。

「それにね、どうやら響ちゃん、まっちゃんと高尾君とも一緒のクラスらしいの」

 …可哀想なのにも程がある。

 これにより高尾の行動を監視する役目は響歌に任されたようなものだった。

 まぁ、紗智も一緒のクラスらしいので、この役目は半減されている感じだが…

 響ちゃんの立場にならなくて本当に良かった。

 舞は心底そう思った。

 考えてみると、私は響ちゃんとは違って両想いの立場だもの。落ち込む必要なんて無いじゃない。

 中葉君とは放課後にデートすれば済む話だもの。授業中まで一緒にいようだなんて、人生はそんなに甘くないわよ。

 これはきっと赤い鎖の試練なのね。

 やっぱり両想いの人達は、クラスくらい離れてあげなくっちゃ。片想いで苦しんでいる人に申し訳がないわ。

「歩ちゃん、教えてくれてありがとう。そうよね、私はまだ恵まれているわよね。それに比べて響ちゃんってば、なんて不幸な星の下で生きているのかしら。他人事ながら気の毒過ぎて仕方がないわ。好きな人が2人もいるということで天が罰してしまったのかしらね。本当に可哀想」

 舞は目頭を押さえる振りをする。

 すぐ立ち直った舞に、歩は呆れていた。

「確かに可哀想な立場だよね。後で慰めてあげるしかないよ。でも、2年からのコース別授業は黒崎君と一緒のデザインコースだし、まだ良かったと思わないと」

 橋本君とはコースも違うけどね。

 歩の言葉に対して、舞は心の中で突っ込んだ。

 だって橋本君はプログラミングコースだもの。私と一緒なのよ。

 ちなみに中葉君はデザインコースだから、私達はそこでも離れ離れになるのだけど…ね。

「私と響ちゃんが代われば一番良かったんだけど、こればっかりは仕方がないよね」

 舞が再び溜息を吐く。

 またダークモードになってきた。

 その時、歩にとっては救いの主が現れた。

 教室の扉が開き、4組の担任が現れたのだ。

「授業開始のベルは鳴っているぞ。みんな、早く席に着け」

 そう言いながら、このクラスの担任は出席簿を教卓に置いた。

 バラバラに散っていた生徒達は即座に自分の席に戻った。

 新しい担任ではあるが、舞はその先生の名前を知っていた。もちろん他の4組の生徒も全員知っている。この先生は1年の時も4組の担任だったし、5組だった生徒もプログラミングの授業で教わっていたからだ。今更、自己紹介もないだろう。

 だが、先生は律儀にも黒板に自分の名前を書いた。

「みんな、知っているとは思うが、このクラスの担任を任された渕山憲司(ふちやまけんじ)だ。これから1年間よろしくな」

 黒板に名前を書きはしたものの、紹介の言葉はあっさりしたものだった。そしてすぐにこの後の予定を説明していく。

 その間、舞は窓の外を見ていた。

 1年の時から4組の担任である渕山の顔はできるだけ見ないようにしてきた。何しろ渕山の顔は超クドイのである。長時間見続けることなど到底できない。

 それについては他のクラスメイトも最初は舞と同じだったのだが、さすがに今は慣れてきているようだった。どんな顔でも1年間経つと見慣れるものだ。舞のように顔を背ける生徒はもういない。

 だが、舞は1年の時からずっと顔を背け続けていたので、今ではそれが癖になっていた。反射的に顔を背けてしまう。

 そんな渕山でも、以前の学校では女子生徒から人気があったらしい。実は舞の姉が高校の時に渕山に教わったことがあるのだけど、その時は渕山のことを好きな生徒が沢山いたようなのだ。

 そりゃ、当時は渕山も新人だったはずなので今よりもむさ苦しさは抑えられていたはずだけど、顔は整形でもしない限り変わらないじゃないの。お姉ってば、やっぱり嘘を吐いているのよ。

 まったくもう、この学校にはもう少しまともな先生がいないのかしら。4組の担任は顔が超クドイし、5組の担任は強烈な匂いだし!

 毎日顔を合わせなくてはいけない担任がこれだと、快適な高校ライフが送れないじゃない。

 まぁ、臭いよりはマシなんだけどね。

 クドイのは顔を背けたら済む話だが、匂いはどうしようもない。鼻をつまんでできるだけ匂わないようにしても、やっぱり匂ってくるもの。

 今の季節はまだマシだけど、冬になるともう最悪。ただでさえ暖房によって酸素が薄くなっているのに、その中であの匂いとなると、もう!

 いつ酸欠になるのだろうと、いつもビクビクしていたわ。

 だから授業が終わってビーバーが去った後は、窓側の人達がすぐに窓を開けて換気をしていたのよ。冬だからとても寒かったけど、臭いのよりは遥かにマシだったからね。

 あまりにも臭いから、響ちゃんが何回か後ろの黒板にビーバーの似顔絵を描いて、その頭から臭いという意味の湯気を描いていたけど、それでもビーバーは気づかなかった。

 だってね、私と響ちゃんが放課後に残っている時にビーバーが5組の教室に来たことがあったんだけど、丁度その時、後ろにビーバーの似顔絵が書いてあったの。もちろん臭いというシンボル付でね。

 それなのに何も知らないビーバーは、響ちゃんに『その絵、恥ずかしいから消しておいてくれよ』とテレ笑いをしながら言っていたの。もう全然わかっていないっていう感じだったんだから。

 それに高尾君にも、何回か遠まわしに『先生、何か臭いませんか?』と訊かれたことがあったみたいだけど、その時もビーバーは『またその話ですか。何度も言うけど、僕は臭くありませんよ!』と豪語したっていうじゃない。自分でわからないなんてかなり重症よ。

 あっ、そういえば響ちゃんのお母様もビーバーに教わったことがあるのよ。

 あのとても明るいお母様にしては似合わない『簿記部』に入っていて、そこの顧問がビーバーだったそうなのよ。そこでよくわざと突っ込んだ質問をしてビーバーを慌てさせていたんだって。さすが響ちゃんのお母様よね。
 
 その頃はみんなで夏休みにビーバーの実家である旅館に泊まりに行ったりしていて、関係はかなり良好だったみたい。ちなみにビーバーは旅館の息子なのに、なんで教師になったのだろう。実家は継がなかったのかしらね。

 そういえばそのお母様曰く『その頃は臭くなかった』みたい。いったいいつ頃からあんな臭いを漂わせるようになったのかしら。本当に迷惑な話だわ。

 その点、クド(注:渕山のこと)は臭くはないからね。冬場も暖かく過ごせられるわ。

 それでもクドは、性格もネチネチクドクドしているのが厄介なのだけど。

 舞は窓の外ばかり見ているのも飽きたので、なるべく教卓の方には顔を向けないようにしつつ教室内を見渡してみた。

 もちろん舞の目に映っているのは男子達の姿だ。

 やっぱりもう既に知っている面子とは言っても、新学期の男子チェックはしておくべきでしょう。

 舞の顔はニヤけていた。

 あぁ、なんてこのクラスは平和なのでしょう。サトルがいないだけでこんなにも教室内が明るく見えるなんて!

 それにサトルの代わりにまともな男子が入ったお陰で、男子の人数が5人以上にも感じられるの。

 中葉君がいないのはやっぱり残念なのだけど、廊下側の後の席にいるテツヤ君は相変わらずの美形だし!

 それに前の方に座っている響ちゃんの想い人である黒崎君も、なかなかの男前だもんね。

 その黒崎君の近くの席には爽やかな男子が座っている。確か名前は木原祐樹(きはらゆうき)君だったはずよ。私は全然話したことが無いけど、いつだったか響ちゃんが『木原君の右斜め45度の顔がカッコイイ!』と騒いでいたの。かなり響ちゃんのタイプみたい。

 ということは…響ちゃんが益々可哀想じゃないの!

 お気に入りの男子とさえ離れ離れにされちゃっているだなんて、もう気の毒で仕方がないわよ。

 舞は目頭を押さえて泣くフリをしながらも、すぐに視線を前に移した。

 それと…以前、響ちゃんと1週間だけバイトが一緒だったという山田君か。

 山田君ともこれまで接点が無かったから初めてじっくり見るけど、響ちゃんの言う通りで顔は美形じゃないわね。それに…あまり真面目じゃなさそうだわ。今だって、クドの話を聞かずに寝ているもの。

 でも、かなり楽しい性格みたい。少しとっつきにくそうに見えるけど、話してみると大いに楽しませてくれるって、響ちゃんが言っていたわ。

 後は、響ちゃんのもう1人の片想いの相手である橋本君ね。

 舞は窓側の中央にいる橋本を見た。

 う~ん…やっぱり私から見ると、なんでもない容姿なのよね。

 それでも1年の時の子供っぽさは抜けて大人っぽくなったわよね。少し精悍になっている。もしかするとこの先、美形ではないけどいい男に変身するかもしれない。

 これからの成長に期待大というところかしらね?

 となると…響ちゃんってば、かなり男を見る目があるじゃないの。

 黒崎君はあの通りカッコイイし、橋本君も今後の成長次第ではカッコよくなりそうだもん。

 これじゃあ、益々1人には絞れないかなぁ。

 私も愛する中葉君やテツヤ君がいなければ彼らに転んでいたのかもしれない。

 もちろん浮気なんて私がするわけがないんだけどね!

 やっぱり愛する中葉君に悪いもの。

 でも、彼らから告白してきてくれたら困っちゃうわよね。

 だって黒崎君は加藤さんに失恋したし、橋本君も響ちゃんに振られているわけでしょ。いってみれば彼等は傷心中なのよ。そんな中、私が登場して優しい言葉をかけると、コロっといく可能性があるのよ。

 そんなことになったら、彼らは大変よ。中葉君から私を奪わなくてはいけないんだから。もう友情も何も無い。泥沼状態に突入しちゃうわ。
 


「今井さん、中葉とつき合うのは止めてオレとつき合ってよ」

 黒崎君が目を輝かせながら私に言い寄ってきたわ。

 それを阻止するのは橋本君よ。

「止めろよ、黒崎。加藤さんに失恋したからといって、それを癒す為に今井さんに言い寄ると中葉に怒られるぞ。いくら今井さんがいい女だからって…」

「橋本、いい加減にお前も素直になれよ。本当はお前だって今井さんに惚れているんだろ。葉月さんに近づいたのも、今井さんと話がしたかったからじゃないか。以前、お前はオレにそう言っていただろ」

 黒崎君が橋本君を睨んでいる。

 対する橋本君も、不機嫌な面持ちだ。

「それは本当だが、オレはお前みたいに節操が無い男じゃない。オレは中葉との友情も大切にしたいんだ」

「オレはそんなものよりも愛情を取るね。本当に今井さんを愛しているんだからな。今井さんが手に入るのなら、中葉との友情くらい捨てるさ」

「お前に取られるくらいなら、今井さんはオレがもらう!」

 私を前に、彼らは戦闘態勢に入ってしまった。

 突然のことに戸惑う、わ・た・し!

 あぁ、2人共、止めて頂戴。私の為に争わないで。私はあなた達に何もしてあげられないの。

 だって…だって私は、中葉君を愛しているんだもの!

 涙を流して止める私に、黒崎君が優しく微笑んだ。

「わかっているさ、今井さん。所詮、これがオレの自己満足でしかないっていうことは。でも、やらずにはいられないんだ。それくらい、オレは今井さんを愛しているんだ」

「黒崎、お前にばかりアピールさせないぜ。オレだって気持ちは同じなんだからな。今井さん、オレも君が好きなんだ。この想いは中葉よりも上だと思っている。でも、オレは自分の想いよりも、今井さんの為に戦うよ。中葉と一緒にいる時の今井さんの笑顔が、オレは大好きだからな」

 橋本君が私に向かって笑った。橋本君の口から見えた歯が一瞬キラっと光ったような気がした。

 私にはもう彼らを止めることができない。

 私が見守る中、とうとう戦いが始めてしまった。