「あっ、ムッチー」
響歌と入れ違いに現れた舞に、真子が楽しそうに声をかけた。
「なっ、まっちゃんまでムッチーと呼ぶの?」
声をかけられた舞の方は脱力していた。
「当たり前だよ。いきなり響ちゃんから言われた時はびっくりしたけど、言われてみればなかなか似合っているもの。この名を考えた響ちゃんは凄いよね」
「凄くないって。コッチはいい迷惑だよ」
ムスッとしている舞に、真子が耳打ちする。
「凄いって。いいから今だけでも響ちゃんに感謝しておいた方がいいよ。あんなに怒っていたさっちゃんも、その『ムッチー』呼びと理由を聞くなり大爆笑して機嫌がコロッと直ったんだから。感謝しても足りないくらいだよ」
「えぇっ、もう機嫌が直ったの?」
最低でも1週間はビクビクしながら学校生活を送らなければならないと思っていたのに!
その紗智は今、廊下に広げた模造紙の上に腰を下ろし、舞達に背を向けて何かを描いていた。それでも舞達の視線に気づくと、手を止めて立ち上がった。
「ムッチー、あんたがダメにした背景は書き直しておいたから。今度はまっちゃんと一緒に色を塗っておいて。響ちゃんの言葉によると、後で助っ人が来るらしいから今日中に仕上がるでしょ。というよりも仕上げてもらわないと困るから。私はこれからガムテープを買いに行ってくるから、後はよろしく」
紗智は舞に指示をすると、舞の返事も聞かず、本来は走ってはいけない廊下を走っていってしまった。進行が遅れているので相当焦っているのだろう。
「…行っちゃった」
紗智の後ろ姿を見つめながら呆然と呟く舞。
そんな舞とは対照的で、可笑しそうな真子。
「まぁ、いいじゃない。でも、さっちゃんの怒りが消えているのはわかったでしょ?」
「うん」
「だから今度こそきちんと仕上げようよ。最近はいつも帰りが遅くなっているけど、たまには早く帰りたいしね」
真子のその言葉に、舞は素直に頷いた。
星がきらめく中で帰るのもロマンチックでいいものだが、そろそろお日様が輝いている時に帰りたい。
さっちゃんが帰ってきた時にあまりにも進んでいなかったら、今度こそ何日間か口を開いてもらえなくなりそうだしね。
「じゃあ、まっちゃん。何から取りかかろう?」
舞は近くにあった絵の具セットを引き寄せると、その中から絵筆とパレット、そして絵の具を何個か取り出した。
真子はそれを見て、らしくもなく慌てた。
舞は自分で色を作る気満々だが、そんなことはさせられない。ついさっき紗智からあの芸術的?な作品を見せてもらっているのだ。舞にさせてしまったらあれの二の舞になってしまう。しかも今、舞が手に持っている絵の具は『黒』だ。聞かなくてもわかってしまう。彼女は絶対にさっきのように塗る気だ。
「ちょっと待って!」
真子の力強い制止に、舞の動きが止まった。
「何、まっちゃん?」
舞は滅多にない真子の様子に驚いたが、次なる声で石像と化した。
「今井さん、色の調整はオレ達がするからっ!」
2人の間に割り込んできたのは、さっきまで男子達と談笑していた川崎だった。その傍には橋本の姿もある。
「あれ、2人共どうしたの。あっ、まさかさっき響ちゃんが言っていた、後から来る助っ人って…」
真子の疑問に、橋本が肩をすくめた。
「あぁ、そうだよ。本当は自分達の今日の仕事は終ったし、そろそろ帰ろうと思っていたところだったんだが、葉月さんに捕まった。少し残って中葉達としゃべっていたのがマズかったらしい」
「でもまぁ、見たところ大道具の人達が大変なのは本当みたいだしな。オレらだけが帰るのも悪い気がしたから」
川崎も仕方なくという感じだったが手伝ってくれるらしく、石像化している舞の隣に座った。
石像化しているとはいえ、その心臓は今にも爆発しそうだった。
それも当然だろう。さっきも隣にいたが、今の方が少しでも動けば身体が触れるくらいの至近距離だ。舞が動けなくなるのも無理はない。
そんな舞の心境も知らず、川崎は舞からパレットと絵筆を奪うように取った。
冷静な川崎らしくない行動だったが、彼もさっきの作品を見た人物だ。色を塗るのは不得意だが、色の調整くらいなら舞よりも自分の方が上手いと判断をしたのだ。
それでも彼が見たのは、夜空ではなくて青空の方だけなのだが…
「オレがパレットに色を作るから、今井さんは模造紙にその色を塗っていって」
「あ、はい。わかりました」
緊張のせいか、同学年なのにまたもや敬語で答える舞。
やはりその理由を知っている真子は、ニヤニヤしながら舞と川崎を見ていた。
理由を一切知らない川崎は、舞の敬語を聞き流したようで、パレットに色を作っていった。
「橋本、お前もボケッとしていないで、糸井さんと一緒に反対側にある野原に色を塗っていけよ」
珍しく率先して動く川崎を呆気に取られたように見ていた橋本も、川崎の指示に我に返ると仕方無さそうではあったが素直に頷いた。
「あぁ、わかったよ」
川崎達とは反対の方に行くと、そこに腰を下ろす。
真子も川崎の言葉に従い、橋本の方に行って作業に取りかかった。
ムッチー、良かったね。
心の中でそう思いながら。
教室の窓から少しだけ顔を出して廊下を見ていた響歌は、同じことをしている歩に声をかける。
「よし、よし。これでこそ文化祭の醍醐味ってもんよね、歩ちゃん」
「まったくその通りだよね、響ちゃん」
響歌の言葉に応えた歩は満面の笑みだった。
端から見れば、怪しい2人である。
だが、当人達はそんなことはまったく気にしていない。そんな彼女達の視線の先には、舞達4人の姿があった。
「ふふっ、見てよ。ムッチーの、あの挙動不審の行動。あれじゃあ、廊下を汚さないように模造紙の下に敷いている新聞の意味が無いわ。新聞を超えて廊下を塗るような勢いだもの」
「あぁっ、やはりはみ出してしまったようです」
「愛しの君に呆れられている。ムッチー、大ショック!」
「またまた固まるムッチー。正面のまっちゃんと橋本君は大笑いです」
響歌と歩の会話は解説と化していた。当然、その間の彼女達の手は止まっている。
そんな彼女達の手を再び動かしたのは、やはりオオカミ役で彼女達に衣装のすべてを任せていた中葉だった。
「お~い、葉月さん、長谷川さん。いい加減に作業の手を動かしてくれよ。さっきから廊下の方ばかり見ているけど、何か面白いことでもあるの?」
作業に取りかからず廊下の方を見て騒いでいる彼女達に、さすがに不安を覚えたのだろう。
高尾も気になったのか、廊下の方を覗こうとしている。
「い、いや、すぐに取りかかるから大丈夫よ、大丈夫。廊下に面白いことなんてまったく無いから!」
響歌が慌てて否定する。
歩も覗いていた窓を閉めて、覗こうとした高尾を止めた。
「え、そうなの?」
「そうそう!」
「そうだよね、響ちゃん!」
慌てる2人の姿に、まだ中葉も高尾も気になるようだったが、これ以上追及するのは止めたようだ。
「それよりオオカミの被り物の口に付ける牙の部分なんだけど、丸めて円錐にした画用紙にアルミホイルを巻けば、奥の観客からもこの牙が鋭く光って見えてオオカミの恐ろしさが伝わると思うんだけど、2人はどう思う?」
「いいんじゃない、その案」
高尾はその案が気に入ったらしく、すぐに同意した。
「オレもいいと思う。でも、欲を言うなら、その牙と牙の間から舌も出して欲しいかなぁ」
中葉の方は納得しながらも、やはり新たに注文をつけてきた。
「はい、はい。わかったわよ。相変わらず変なこだわりを持っているんだから。でも、それくらいならすぐできそうね」
響歌は呆れながらも、その注文を承諾した。
早速、歩が近くにあった画用紙の束から赤色の画用紙を探し出す。
間一髪だったが、中葉達に気づかれずに済んだようだ。
本当はもう少し舞達を観察したかったが、これ以上の覗きは危険だと判断して作業に専念したのだった。
響歌と入れ違いに現れた舞に、真子が楽しそうに声をかけた。
「なっ、まっちゃんまでムッチーと呼ぶの?」
声をかけられた舞の方は脱力していた。
「当たり前だよ。いきなり響ちゃんから言われた時はびっくりしたけど、言われてみればなかなか似合っているもの。この名を考えた響ちゃんは凄いよね」
「凄くないって。コッチはいい迷惑だよ」
ムスッとしている舞に、真子が耳打ちする。
「凄いって。いいから今だけでも響ちゃんに感謝しておいた方がいいよ。あんなに怒っていたさっちゃんも、その『ムッチー』呼びと理由を聞くなり大爆笑して機嫌がコロッと直ったんだから。感謝しても足りないくらいだよ」
「えぇっ、もう機嫌が直ったの?」
最低でも1週間はビクビクしながら学校生活を送らなければならないと思っていたのに!
その紗智は今、廊下に広げた模造紙の上に腰を下ろし、舞達に背を向けて何かを描いていた。それでも舞達の視線に気づくと、手を止めて立ち上がった。
「ムッチー、あんたがダメにした背景は書き直しておいたから。今度はまっちゃんと一緒に色を塗っておいて。響ちゃんの言葉によると、後で助っ人が来るらしいから今日中に仕上がるでしょ。というよりも仕上げてもらわないと困るから。私はこれからガムテープを買いに行ってくるから、後はよろしく」
紗智は舞に指示をすると、舞の返事も聞かず、本来は走ってはいけない廊下を走っていってしまった。進行が遅れているので相当焦っているのだろう。
「…行っちゃった」
紗智の後ろ姿を見つめながら呆然と呟く舞。
そんな舞とは対照的で、可笑しそうな真子。
「まぁ、いいじゃない。でも、さっちゃんの怒りが消えているのはわかったでしょ?」
「うん」
「だから今度こそきちんと仕上げようよ。最近はいつも帰りが遅くなっているけど、たまには早く帰りたいしね」
真子のその言葉に、舞は素直に頷いた。
星がきらめく中で帰るのもロマンチックでいいものだが、そろそろお日様が輝いている時に帰りたい。
さっちゃんが帰ってきた時にあまりにも進んでいなかったら、今度こそ何日間か口を開いてもらえなくなりそうだしね。
「じゃあ、まっちゃん。何から取りかかろう?」
舞は近くにあった絵の具セットを引き寄せると、その中から絵筆とパレット、そして絵の具を何個か取り出した。
真子はそれを見て、らしくもなく慌てた。
舞は自分で色を作る気満々だが、そんなことはさせられない。ついさっき紗智からあの芸術的?な作品を見せてもらっているのだ。舞にさせてしまったらあれの二の舞になってしまう。しかも今、舞が手に持っている絵の具は『黒』だ。聞かなくてもわかってしまう。彼女は絶対にさっきのように塗る気だ。
「ちょっと待って!」
真子の力強い制止に、舞の動きが止まった。
「何、まっちゃん?」
舞は滅多にない真子の様子に驚いたが、次なる声で石像と化した。
「今井さん、色の調整はオレ達がするからっ!」
2人の間に割り込んできたのは、さっきまで男子達と談笑していた川崎だった。その傍には橋本の姿もある。
「あれ、2人共どうしたの。あっ、まさかさっき響ちゃんが言っていた、後から来る助っ人って…」
真子の疑問に、橋本が肩をすくめた。
「あぁ、そうだよ。本当は自分達の今日の仕事は終ったし、そろそろ帰ろうと思っていたところだったんだが、葉月さんに捕まった。少し残って中葉達としゃべっていたのがマズかったらしい」
「でもまぁ、見たところ大道具の人達が大変なのは本当みたいだしな。オレらだけが帰るのも悪い気がしたから」
川崎も仕方なくという感じだったが手伝ってくれるらしく、石像化している舞の隣に座った。
石像化しているとはいえ、その心臓は今にも爆発しそうだった。
それも当然だろう。さっきも隣にいたが、今の方が少しでも動けば身体が触れるくらいの至近距離だ。舞が動けなくなるのも無理はない。
そんな舞の心境も知らず、川崎は舞からパレットと絵筆を奪うように取った。
冷静な川崎らしくない行動だったが、彼もさっきの作品を見た人物だ。色を塗るのは不得意だが、色の調整くらいなら舞よりも自分の方が上手いと判断をしたのだ。
それでも彼が見たのは、夜空ではなくて青空の方だけなのだが…
「オレがパレットに色を作るから、今井さんは模造紙にその色を塗っていって」
「あ、はい。わかりました」
緊張のせいか、同学年なのにまたもや敬語で答える舞。
やはりその理由を知っている真子は、ニヤニヤしながら舞と川崎を見ていた。
理由を一切知らない川崎は、舞の敬語を聞き流したようで、パレットに色を作っていった。
「橋本、お前もボケッとしていないで、糸井さんと一緒に反対側にある野原に色を塗っていけよ」
珍しく率先して動く川崎を呆気に取られたように見ていた橋本も、川崎の指示に我に返ると仕方無さそうではあったが素直に頷いた。
「あぁ、わかったよ」
川崎達とは反対の方に行くと、そこに腰を下ろす。
真子も川崎の言葉に従い、橋本の方に行って作業に取りかかった。
ムッチー、良かったね。
心の中でそう思いながら。
教室の窓から少しだけ顔を出して廊下を見ていた響歌は、同じことをしている歩に声をかける。
「よし、よし。これでこそ文化祭の醍醐味ってもんよね、歩ちゃん」
「まったくその通りだよね、響ちゃん」
響歌の言葉に応えた歩は満面の笑みだった。
端から見れば、怪しい2人である。
だが、当人達はそんなことはまったく気にしていない。そんな彼女達の視線の先には、舞達4人の姿があった。
「ふふっ、見てよ。ムッチーの、あの挙動不審の行動。あれじゃあ、廊下を汚さないように模造紙の下に敷いている新聞の意味が無いわ。新聞を超えて廊下を塗るような勢いだもの」
「あぁっ、やはりはみ出してしまったようです」
「愛しの君に呆れられている。ムッチー、大ショック!」
「またまた固まるムッチー。正面のまっちゃんと橋本君は大笑いです」
響歌と歩の会話は解説と化していた。当然、その間の彼女達の手は止まっている。
そんな彼女達の手を再び動かしたのは、やはりオオカミ役で彼女達に衣装のすべてを任せていた中葉だった。
「お~い、葉月さん、長谷川さん。いい加減に作業の手を動かしてくれよ。さっきから廊下の方ばかり見ているけど、何か面白いことでもあるの?」
作業に取りかからず廊下の方を見て騒いでいる彼女達に、さすがに不安を覚えたのだろう。
高尾も気になったのか、廊下の方を覗こうとしている。
「い、いや、すぐに取りかかるから大丈夫よ、大丈夫。廊下に面白いことなんてまったく無いから!」
響歌が慌てて否定する。
歩も覗いていた窓を閉めて、覗こうとした高尾を止めた。
「え、そうなの?」
「そうそう!」
「そうだよね、響ちゃん!」
慌てる2人の姿に、まだ中葉も高尾も気になるようだったが、これ以上追及するのは止めたようだ。
「それよりオオカミの被り物の口に付ける牙の部分なんだけど、丸めて円錐にした画用紙にアルミホイルを巻けば、奥の観客からもこの牙が鋭く光って見えてオオカミの恐ろしさが伝わると思うんだけど、2人はどう思う?」
「いいんじゃない、その案」
高尾はその案が気に入ったらしく、すぐに同意した。
「オレもいいと思う。でも、欲を言うなら、その牙と牙の間から舌も出して欲しいかなぁ」
中葉の方は納得しながらも、やはり新たに注文をつけてきた。
「はい、はい。わかったわよ。相変わらず変なこだわりを持っているんだから。でも、それくらいならすぐできそうね」
響歌は呆れながらも、その注文を承諾した。
早速、歩が近くにあった画用紙の束から赤色の画用紙を探し出す。
間一髪だったが、中葉達に気づかれずに済んだようだ。
本当はもう少し舞達を観察したかったが、これ以上の覗きは危険だと判断して作業に専念したのだった。