日記には中葉の自分勝手な視点で昨日のことが書いてあるのだろう。舞はそう予想していた。実際に今までがそうだった。特に別れ話をしてからその傾向が目立っている。そして『よりを戻そう』という言葉で締めくくられているのだ。

 舞はその言葉の返しとして『よりを戻すことはありません』という言葉から始まり、自分の日記を書き始める。それがいつものパターンだったのだが…

 いつもと…違う?

 最初の感想が、これだった。

 読み終えた後、舞は呆然としていたが、しばらくしてから慌てて読み返した。

 遠くから見ていた歩は、舞の様子に一抹の不安を覚えた。

 舞の様子が明らかに違う。

 いつもだったら始終面白くなさそうな顔をして日記を読み、これまた面白くなさそうな顔で返事を書いていた。

 それなのに今日は食い入るように日記を読んでいる。しかも段々と惚けた表情になっていった。

 歩でなくても不安になるだろう。

 しかし当人である舞は、遠くで歩が不安になっているのも知らず、しばらく日記から目を離さなかった。

 舞は感動していた。

 中葉の文章はいつもの自分勝手なものとは違っていた。なんと舞のことを気遣っていたのだ。

 最近の舞は誰の目から見ても友人達との間に距離ができている。特に真子とはそれが明らかだった。当然、中葉も気づいてしまう。気づいてしまったら、中葉としては気遣うしかないだろう。自分の愛する舞が悩んでいるのだから。

 悩んでいることの一つに自分のことがあるのは、露にも思っていなかったが…

 悩んでいるのなら、助けてあげたい。『大丈夫だよ』と励ましてあげたい。解決に向けて自分が動いてあげたい。彼はそんなことを思い、日記に書いたのだ。

 他の人が見れば『それは彼氏が言う言葉でしょ!』と突っ込みたくなる文だったが、何度も言うが今は授業中であり、舞の周囲に突っ込む人がいないのだ。
 
 舞の頭を冷やす役目の人がいないせいもあり、舞の中にあった中葉の嫌なところが音を立てて崩れていった。

 代わりに浮かび上がったのは、優しげな眼差しをした中葉の姿だった。

 なんということだろう。ほんの数分で、しかもたかが1ページで、舞の中にあった中葉のイメージが覆されてしまった。

 あぁ、中葉君。

 中葉君、中葉君、中葉君!

 あなたはなんて優しい人なのでしょう。

 あんなにもあなたに対して酷いことをしてきた私なのに。

 交換日記もきちんと書かなかった私なのに。

 あなたはまだこんな私に対して愛溢れる言葉をかけてくれるというの?

 こんな私を恨んでいないの?

 恨まずに、まだやり直そうとしてくれているの?

 響ちゃん達でさえ放り投げた私とまっちゃんの関係を、あなたは直そうとしてくれているの?

 舞は中葉の自分に対する深い思いを感じて泣けてきそうだった。

 だが、ここで泣くわけにはいかない。

 私の涙は他人に見せる程、安っぽくはないわ!

 舞は唇を噛みしめて泣くのを堪えた。

 必死に涙を堪え、天を見上げていた。


 
 なんとか3、4時間目を切り抜け、舞は安堵した。

 気を抜くとすぐに涙が出そうになるんだもの。本当に大変だったわ。

 3、4時間目の中休みでは、何かを聞きたそうな歩ちゃんを必死に誤魔化して中葉君の机の中に交換日記を入れにいくスリリングさも味わったし!

 まだ午前中しか終わっていないのに大変だったわよ。

 でも、5組が移動教室で助かったわ。教室に1人でも人がいたら、とてもじゃないけど中葉君の机に交換日記は入れられなかったもの。

 3時間目が終わるとすぐに5組に向かったのも良かったみたい。歩ちゃんに捕まったから2、3分ロスしたけど、それでもまだみんな移動教室から帰ってきていなかったんだもの。ラッキーだったわ。

 それともやっぱり私と中葉君は運命の赤い鎖で繋がっているから、天がそうなるように配慮してくれたのかしらね。

 舞は旧体育館の前で浮かれていた。

 彼女は4時間目が終わるとすぐにこの場に来た。お弁当も食べていない。何かあったのか追及しようとする歩も振り切ってきた。

 舞はその時のことを思い出して、浮かれながらも不安になった。

「もしかして歩ちゃんは、私が中葉君とよりを戻そうとしていることに気づいたんじゃ…」

 普通なら考えられないことだ。舞がそう決心したのは今からほんの2時間前。しかも授業中だ。

 それなのに気づくわけがないわよ。

 舞はそう思い込もうとしたが、相手は舞が一目置いているあの『歩』だ。

 そのことが舞を不安にさせていた。一般人なら気づかないけど、あの歩なら…と考えてしまう。

 それに歩が舞に話しかけるのは、いつもなら休憩時間になってしばらくしてからという場合が多かった。それなのに今日に限って、授業が終わるとすぐに舞のところに飛んできた。それも二度も!

 今日の歩ちゃんって、まるで風の妖精みたいだわ。

 舞がそうバカげたことを思う程、歩の行動は素早かった。

 まぁ、この件については黙っているつもりはないから、歩ちゃんに気づかれていてもいいのだけど。でも、教えるのは中葉君と上手くいってからの方がいいのよね。

 舞は歩と話すよりも中葉の返事が早く欲しい。それだけのことで歩を撒いていただけだった。

 歩と話してしまうと絶対に時間がかかってしまう。それだけはどうしても嫌だった。

 それよりも私は早く中葉君と話がしたいのよ!


 
 舞が旧体育館前に来てから、その5分後。

「舞~!」

 中葉が走りながら舞のもとにやってきた。

 5組からずっと走っていたらしく、中葉の息が切れている。相当急いだらしい。

 中葉の姿を見るなり、舞の顔が輝いた。

 舞の笑顔を見た中葉も、息を切らせながらも笑顔になった。日記に書いてあった内容が本当だとわかったからだ。

 だが、やはり中葉からしたら、舞の口からもその言葉が聞きたい。それでも彼は舞と3カ月はつき合った身。自分から促さないと、彼女の口からそれが出てこないこともわかっていた。

 中葉は素早く舞の傍に行くと、彼女の肩を抱いた。

「舞、あの日記に書いてあったことは本当か。本当にオレとよりを戻してくれるの?」

 言葉は疑問形だったが、身体は確信している行動をしている中葉。

 それでも彼の行動に舞が抗う様子は無い。逆に中葉の背に自分の両腕をまわした。それだけで自然と答えはわかってしまう。

 しかしやはりそれだけでは物足りない。

「舞、自分の言いたいことはきちんと自分のお口で言ってごらん。お口で言わないと相手には伝わらないことが多いんだよ」

 中葉は自分の胸に顔を埋めている舞に優しく言った。

 まるで幼子をあやすように!

 完璧に子供扱いされていたが、舞はそうされて嬉しくなった。

「うん、そうよね、中葉君。私、あなたに大分辛い思いをさせてしまったけど。こんな私でもまた受け入れてくれるの?私にはやっぱり中葉君しかいないの。他の男の子じゃ、ダメなの」

 舞は目を涙で滲ませながら中葉を見上げた。

 これは男にとって反則技だ。こんな顔で訴えられては、男からしたらたまらない。それは常に冷静な人間で売っている中葉にとっても同じだった。

 舞を抱きしめる腕に自然と力が入る中葉。

 そんな中葉の腕に抱かれて、彼を見つめる舞。

 2人の間にもう言葉はいらない。お互いに力強く抱き合いながら自然と唇を重ねていく。

 それは2人にとって約1カ月ぶりの接吻だった。

 1カ月ぶりのそれは、初めから激しく、甘い。舞はその甘さにとろけそうになる。とろけそうになっている舞の表情は、中葉にとっては媚薬そのものだ。舞を求める激情もより一層激しさを増す。

 中葉の手が、舞の腰から胸に移動してきた。

 突然の刺激に、舞の身体が跳ね上がる。

 だが、中葉はもう止まらない。

 舞もまた止めて欲しくはない。

 1カ月の空白を埋めるかのように、2人はお互いを求めあった。



 歩は我が目を疑った。衝撃のあまり口も開いたままで止まっている。

 それでもこうなる予感はしていたのだ。

 舞があの人と一緒にいることも簡単に予想できてきた。ここ数時間の舞の行動は誰が見ても不振過ぎたのだから。

 舞の行動が不審になったのは授業中に交換日記を読み始めてからだ。だからこそ3時間目が終わるとすぐに舞のところに行ったのだ。

 だが、そんな歩を、舞はわざとらしくはぐらかし、滅茶苦茶不審な行動をしながら教室から出ていった。その手には交換日記を持って。しかもいつもなら交換日記は中葉の靴箱に入れているのに、今日はわざわざ5組まで届けに行っていた。

 舞は歩に悟られないように5組に行ったつもりだが、歩の方が舞よりも上手だった。しっかり舞の後をつけて中葉の机に交換日記を入れるところを目撃していた。

 だからこそ昼休みも舞の後をつけたのだ。そして中葉がかけよってきたところからの2人のやり取りを隠れながらずっと見ていた。

 今となってはそれを後悔した。この場を離れたかったが、離れられない状況に陥っている。

 顔を赤く青くさせながらも、必死でこの場から離れる方法を考えようとする。

 だが、頭が混乱しているこの中では、そんな方法など考えられない。

 歩は頭を抱えたくなった。

 その視線はしっかりと舞と中葉に注がれている。

 2人を監視しているわけではない。ましてや観察もしていない。歩だって本当は視線を外したいのだ。

 それはもちろん可能なことだ。この場を離れることはできなくても、視線を外すくらいなら容易にできる。

 だが、外せない。それどころか逆に見入ってしまう。歩も人の子。興味の方が勝ってしまっていた。

 そんな歩の前で、2人は恋人同士が最後に交わす儀式に突入しようとしていた。

 え~、なんでよりを戻す話から一気にこうなっちゃうの。ってか、ムッチー、それ絶対に誘い過ぎだよ!

 歩は友人である舞の大胆な姿に驚きを隠せない。

 それくらい友人達に見せる姿と今の姿は違っていた。

 これじゃあ、中葉君もムッチーにメロメロになるはずだ。

 歩の目には、今の舞が男を誘う娼婦の姿にしか見えなかった。

 見慣れない友人の姿に、つい後ずさりをしてしまった。

「誰っ!」

 行為に熱中していたはずの舞が、覆いかぶさっていた中葉を押しのけて素早く身体を起した。

 露わになっている胸を隠しながら、緊張した面持ちであたりを確認している。

 歩が後ずさりをした音はとても小さかったのに、それでも舞はその音に気づいたのだ。そんなところは相変わらずだった。

 中葉の方は何が起こったのかよくわからないようで呆然としている。

 その様子から中葉にはバレていないが、舞にバレては隠れている意味が無い。歩は意を決して、隠れていた大木から姿を現した。

 歩の姿を見るなり、今度は舞の方が衝撃を受けた。それと同時に身体がプルプル震え出した。顔も真っ赤になっている。

 舞は自分の淫らなところを友人に知られてしまい、恥ずかしいやら何やらで頭が真っ白になっていた。歩の方も舞達の前に姿を現したのはいいが、眼前の舞の気持ちが手に取るようにわかり何を言っていいのかわからなくなっていた。舞の上半身は裸なので俯いてもしまう。

 そんな中、中葉だけは冷静だった。何事も無いかのようにゆっくり立ち上がると、ズボンについた泥をはらった。

「取り敢えず長谷川さんは少し後ろを向いていてくれないかな。その間に舞は身なりを整えなよ。話はその後でしよう」

 のんびりと2人に提案する姿に、舞と歩は愕然とした。

 中葉君ってば、なんでそんなに冷静なのよ!

 この時の2人の思いは同じだった。

 だが、いくら中葉の態度に疑問を感じても、彼の提案自体は最もなことだったので2人は素直に従った。

「そ、そうだね。私が見ていたら、ムッチーも困るよね!」

 歩が慌てて背を向ける。

 舞はそんな歩に安堵したが、すぐに服を着ようとはしなかった。相変わらず胸を隠している。顔も赤いままで、チラチラともう片方の人物を見ていた。

 舞の視線の先にいる中葉は微動だにしない。ただじっと舞が着替えるのを待っていた。

 あくまでも背を向けるのは歩だけで、彼氏の自分は舞の身体を見る権利があると思っているのだろうか。

 舞としては、いくら恋人同士に戻ったとしても、ここは中葉にも背を向けて欲しかった。

 そりゃ、勢いでここまで脱いだのは私だけど…

 実は今回も、舞のこの半裸状態は中葉が脱がせたのではなくて舞が自ら脱いだのだった。

 彼女はやはり大胆だった。

 だが、それは気分が盛り上がっている時に限ること。それ以外の時は普通の人以上に恥ずかしがるのも、この舞なのだ。

「舞、せっかく長谷川さんが後ろを向いてくれているんだから、早く服を着なよ」

 何もわかっていない中葉が舞を急かしたが、舞は動かずに真っ赤な顔で中葉を見ている。

 中葉もそんな舞の様子にようやく気づいた。

 だが、肝心の『何か』というところまではわからないらしい。

「だからさぁ、言いたいことがあるのならきちんと口で言わないと相手には伝わらないって、さっきも言っただろ」

 少し苛々した口調で舞に言う。

 彼だけはもう少しで昼休みが終わることがわかっていたので、話をするのなら早くしたかったのだ。

 中葉はここでも冷静だった。

「あの、中葉君。多分、ムッチーは中葉君にも後ろを向いて欲しいんだと思うよ。やっぱりこういうのって恥ずかしいことだから」

 いたたまれなくなった歩が、舞に代わって中葉に言った。

「えぇっー!」

 中葉は仰天した。

 舞は中葉の前で2度も自ら服を脱いでいる。そんな彼女が、今更そんなことを感じるとは露にも思っていなかったのだ。

「長谷川さんはこう言っているけど、舞はどう思っているの。さっきも、この前も、自分から脱いでオレに見せてくれたじゃないか。それなのに今は見られたくないのか。それって、矛盾しているだろ。オレはちょっと信じられないよ」

 中葉の言葉に、舞の顔はより一層赤くなった。

 歩は呆れている。

 ムッチー、なんでそんなに何度も中葉君を誘っているの。

 大胆な彼女の行動をまたもや知ってしまうと、自分だけが後ろを向いているのがなんだかバカらしく思えてきた。

 それでも自分まで前を向くわけにはいかない。歩は呆れながらも背を向け続けた。

 彼女はとても律儀な人間だった。

 怒る歩を前に、舞はうなだれていた。

 結局、あの後、舞からも中葉にお願いをして彼に後ろを向いてもらい、その間に身なりを整えた。そしてよりを戻すことを歩に伝えた後、中葉は一足先に教室に戻っていった。5組は4組よりも教室が遠いといった理由からだったが、本当は舞と歩の2人だけで話もしたいだろうといった中葉の配慮だった。

「よりを戻すのは自由だけど、誰に見られているかもわからない場所で二度とあんなことはしないでね!」

 中葉を見送った後、舞が歩から猛烈に怒られたことは言うまでもないだろう。

 2人がいるこの場所は旧体育館の前だ。ここは体育の授業で使用しない限り滅多に人が来ない。だが、滅多に来ないだけで、まったく来ないわけではないのだ。しかもこの場所は高台にあって校庭からよく見えた。旧体育館がある数十メートル先には運動部の部室も連なっている。さらにそこから先はテニスコートまであり、そこにはテニス部員が昼休みに弁当を食べている時があるのだ。もちろんその場所からもここは見える。

 今日は校庭にも、部室内も、テニスコートにも人影が無かったから良かったものの、そんな意外と危険な場所で堂々と最後まで突っ走ろうとしていたのだ。節操が無いにも程がある。

 いくら気持ちが高ぶったとはいえ、それで時間や場所関係なくやろうとするなら、それはもう人間ではない。動物だ。しかも誘っていたのは明らかに舞の方だ。

 その舞は、今は恥ずかしそうにモジモジしているが…

 こんな舞の様子を見た人は、中葉の方が誘ったように思うだろう。『中葉が悪い』と言う人だっているだろう。

 しかし歩は生で一部始終を見てしまった身だ。さすがに自分の目は嘘を吐かない。いくら舞が恥ずかしそうにしていても怒らずにはいられなかった。 

 歩にとって、さっきの舞の行動は不謹慎過ぎたのだ。

 響歌や紗智達がここにいてもきっと舞を怒っただろう。それが容易にわかるのだが、その友人達の姿は無い。

 舞を怒ってくれる人が、今ここにはいない。

 それなら彼女達の代わりに自分が怒るしかないではないか。

 ここで誰かが怒らなければ、舞は近いうちに必ず同じことをするだろう。それを避ける為にも、歩は嫌な役目を引き受けたのだ。